memory.Ⅴ
夏休みも目前、満身創痍ながら期末試験ラッシュを乗り切る僕に、傾き始めた太陽はそれでも容赦ない熱気をぶつけて来る。
そんなことはお構いなしに、構内を歩く僕の気持ちは一歩進むごとに弾む。
それも当然だ。
今日もこれから先輩と会えるのだから。
僕が真面目に大学に通うのも、一日の授業が終わったこの時間のためだと言っても過言ではない。
授業に身が入らず単位の一つや二つ落としたところで、僕には大した痛手ではないのだ。
そうは言っても学生の本分は勉強。
怠惰が祟って留年でもしてしまったら元も子もない。
授業には出ないといけないし、試験も受ける必要がある。
捨て去れない建前の元に、僕は来週のスケジュールを確認するために学生掲示板の前までやって来た。
どうやら目新しい情報は無いみたいだ。
時間も惜しいので、早いところサークル棟へ向かうことにしよう。
そんな僕の耳に、横で同じく掲示板を見る二人組の会話が聞こえてくる。
「なあ、来週から夏休みだけどお前なんか予定ある?」
「予定ねぇ…、実家にも帰らんし特にないわ」
気だるげな声はまさに模範的な大学生のそれだ。
かく言う僕も、来週からの予定があるのかと聞かれたらこれといってあるわけではない。
先輩とどこかへ出かけたりでも出来たらどんなに楽しい夏になるだろう。
考えることはいつもそんなことだ。
「彼女でもいたらなー」
「もう手遅れだっての」
「俺と同じでさぁ、夏休みを前に一人で寂しい想いをしている女の子でもいないかね」
「あー…、寂しいかはともかく俺たまに見かけるんだけど、たぶん二回生の女の子。かなり可愛いっていうか、美人って感じの、いつも一人でいる…」
その言葉に、その場から立ち去ろうとしていた僕の足が止まる。
直感でそれ以上聞かないほうが得策であることは分かっていたが、どうしても気になって仕方がない。
「黒髪ロングの子だろ、有名だぞ。見た目は良いけど、確か、良く分からんオカルトサークルに入ってて良く分からんことをしてるとか」
「民俗学研究会だろ。潰れたんじゃなかったっけ、部員がいないとかで」
「知らん。前に俺の先輩が告ったらしいんだけど何を言っても無表情で、ごめんなさいとだけ言ってどっか行っちまったって。何考えてるかわかんねーってさ」
「宇宙人のことでも考えてたんじゃねぇの」
「ぎゃはは! そうかもな」
「でも素で不思議系ってのもちょっといいな。退屈しなそうだ」
「やめとけ、お前『先輩、週末はUFOを探しに行きましょう』とか言われたらどうする?」
「リアルでそらきっついわ」
そこで僕は耐えきれなくなり掲示板を後にした。
聞こえてくる笑い声が背中に突き刺さるようだった。
「お疲れ様です」
いつも通り、僕は部室に入ると先輩に挨拶をする。
「お疲れ様」
返されるのも、いつもの澄んだ声。
窓際に佇む柔らかい微笑み。
このために僕はここへやって来るのだ。
「どう? 試験のほうは」
「ぼちぼち、といったところです」
そんな適当なことを言いながら先輩の隣の席へ腰を下ろす。
やがて目の前に置かれるお茶の入ったマグカップもいつもと変わらない。
でもこの瞬間を代わり映えのしないものだとは思わない。
僕はいつだって新鮮な喜びを感じるのだ。
「ありがとうございます」
しかしながら、湯気の上がるそれを持つ手に力が入らないのは、さっきあんな会話を聞いたからだろう。
「…なにかあった?」
先輩にはそんな僕の気持ちなんてお見通しである、というのはただの驕りだということは分かっている。
今日の僕は誰が見ても元気がない。
そうだとしても、先輩の問いに返すべき言葉などあるはずもない。
言えるはずがない。
「いや、このところ試験が続いているので疲れてるんですかね」
「そうだったのね…」
そう言って伏せられた先輩の目から、僕はなぜか分かってしまった。
先輩はたぶん、僕に何があったのかを勘付いている。
そのことに対する彼女の感情までは推し量ることはできない。
ただ、妙に慣れた悲し気な瞳が僕にはたまらなく辛かった。
「先輩…」
「■■君、君にとってここはどんなところ? ここへ来るのは楽しい?」
単純なようでいて、極めて難解な質問だった。
一日の授業が終わり、この民研の部室へ来るのは楽しいからに決まっている。
しかし、先輩はそんな表面上のことを聞いているのではないことは知っている。
知っているのだが、僕が持つ真の答えを告げるにはあまりに勇気が要る。
ここへ来るのは先輩、あなたがいるからです。
そんなことを言えば、きっと全てを伝えることに変わりないだろう。
泣きそうな先輩の瞳が僕に返事を迫る。
「あの…」
「君がここへ来る理由が何かに対して気を遣っているからだとしたら、そんな必要はないのよ。君には君の好きなようにして欲しいし、そうするべきだと思うわ。まして、私が周りからどう思われているかなんて…」
「それは違いますよ、先輩」
僕は思わず先輩の言葉を遮った。
彼女が発する言葉に心が締め付けられていくのを耐えきれなかった。
何より、先輩の口からそんな悲しい台詞が告げられていくのは我慢が出来なかった。
「僕がここへ来るのは……、先輩がいるからです」
言ってしまってから、僕はたまらなく恥ずかしい気持ちになって咄嗟に顔を伏せた。
しかし後戻りはできない。
明日からこの場所へ来ることが出来なくなるかもしれない。
それでも、先輩からどう思われようと僕は彼女が決して孤独ではないということだけは証明したい。
「たとえ一人になってもこの場所を守ろうとする先輩を、僕は素敵だと思います。そんな先輩がいて、その他には誰も居なくて、いつも静かなここが僕にはたまらなく居心地がいいんです。他の誰かに何を言われたって、僕はここが良いんです」
「……」
「先輩は、僕じゃ駄目でしょうか」
気が付けば、泣いているのは僕のほうだった。
大学生にもなって人前で涙を流してしまったことは恥ずかしかったのだが、それは溢れる感情と共に止められない。
こんな頼りない僕を見て、先輩はきっと引いてしまったに違いない。
しかし恐くて顔を上げることが出来ない。
謝ろう。
謝って一刻も早くこの場から立ち去るしかない。
一方的に気持ちを伝えてしまった僕の、それが唯一の残された行動だ。
「ふふっ」
聞こえてきた笑い声に、僕は弾かれたようにそちらを見る。
まるですべてを許すような笑顔がそこにあり、僕の頭は一切の思考を失い真っ白になった。
「そこまで必死になって、そんなに一生懸命に伝えてくれて、なんて答えたらいいかしら。私、後輩からこんなに真剣に気持ちを伝えられたことがなくて…。なにしろ普段から慕われるような先輩じゃないから」
「僕は…」
はっきりしていく頭で、僕は徐々に理解する。
僕が先輩にぶつけた捨て身の想いは、どうやら大きく形を変えて彼女に到達した。
先輩と後輩。
その枠の中で僕の気持ちは終着点を迎えたのだ。
「嬉しいわ。私に対する気持ちだけじゃなく、民研をそう言ってくれたことが.。少し不安だったの。君が無理に私に付いてきてくれているんじゃないかって」
それでも今は良かった。
形は違っても僕の想いを先輩は受け取ってくれたのだから。
そしてこの場所をこれからも僕の居場所としていられるのだから。
「すみません、熱くなってしまって」
「ちょっと驚いたわ。いつも大人しい君からこんなことを聞けるなんて思ってなかったから」
「…恥ずかしいです。忘れて下さい」
部屋を満たしていく暖かな雰囲気に、止まりかけていた涙が再び零れだす。
僕はこの空間が好きだ。
今の気持ちも、先輩に伝わっているだろうか。
「落ち着いたら、来週からの予定を話し合いましょう。夏休み明けの文化祭ではうちも何かしないといけないから、面白いネタを仕入れるための野外調査を計画しないとね。休み中は予定があるなら無理をしなくてもいいけど」
「いえ、ぐすっ、特に何も」
あとで母親に電話をしなくては。
夏休みは忙しいから帰れなくなったと。




