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僕はマグカップが見せた思い出に、なんだか恥ずかしくなって少し笑った。
先輩と知り合ったばかりの頃、僕はあの人とまともに会話すらできなかった。
それは彼女が綺麗で、優しくて、そして憧れていたからだ。
でもそれだけじゃない。まだお互いのことを良く知らないあの時、僕は精一杯に立派であろうとした。
完璧な女性である先輩に見損なわれることのないようにと、慎重すぎるくらいに接していた。
それが間違ったことだとは知らずに。
あの後、僕は二人だけの歓迎会でたくさんのことを話して、そして先輩のことを知った。
少しだけど、ようやく打ち解けたような気がしたのだ。
「あれ…」
その瞬間、僕の心に冷ややかな風が吹いたような戦慄を覚えた。
歓迎会。
あの時間も忘れるような楽しいひと時。
その高揚感は今でもはっきりと思い出すことが出来る。
それなのに。
「先輩との会話……」
「どうしたの?」
覗き込んでくる詩織に、僕は答えることが出来ない。
今の彼女の中には、かつて僕と過ごした日々は存在しない。
だから何を説明しても無駄なのだ。
「なんでもない。こんな所にマグカップがあるなんて、少し変だと思っただけだよ」
「そうよね。ここには私達以外の人がいるとは思えないけど、こんな物があるなんて少し変ね」
「まだ会っていないだけで誰かが暮らしているのかな」
「分からないわ。でも、見たところ長い間この泉の底に沈んでいたみたいだし、以前はここにも人がいたのかも」
詩織は言って、彼女が何かを考え込む時にはいつもそうするように、口元に手を添えて目を細めた。
僕はその様子を見て懐かしさを感じると共に寂しくもあった。
やはり彼女からは、このマグカップを目の前にしてもその程度の感想しか出てこないのだ。
「ねぇ、それよりあれを見て。あの木に生ってるの、もしかして林檎かしら。私、自生している林檎の木なんて初めて見たわ。お腹が膨れるには十分すぎるくらいあるわよ」
対岸を見ると、確かにそこには小さな体に重そうなくらい林檎を実らせた一本の木があった。
森の奥にある泉のほとりでそれは不自然に映ったが、僕の意識はそこには無い。
僕にはどうしても気がかりでならなかったからだ。
どうしてか忘れてしまった、あの楽しかった歓迎会の事が。
しかし確かめる術はない。
詩織には、先輩としての記憶がないから。
無邪気に林檎の木へ駆けて行く詩織が、僕の心を冷やしていく。
陽はとうに沈み、砂浜には波の音だけが響いている。
満天の星空の下、僕の隣では詩織が静かに寝息を立てている。
あの後、僕と詩織は両手一杯に林檎を抱えてこの場所まで帰ってきた。
そして持ってきたそれを恐る恐る口にしたのだが、なんとも瑞々しく驚くほどに甘かった。
自生している林檎というのは、店で売っているような物と違ってとても食べられたものではないと聞いていたが、僕たちが取ってきたのはなんとも美味な代物であった。
「本当に不思議な場所だ……」
僕は暗闇に向かって呟く。
今日は飲み水と食料を、都合よくというべきだろうか、僕たちは手に入れることが出来た。
この島では、望めばあらゆるものが手に入る気さえする。
しかしそうではないのだろう。
僕が最も望むもの。
詩織の記憶はどんなに願っても今すぐに戻ることはないのだから。
願い続けても取り戻せる保証さえない。
残酷な話だ。
二人だけのこの島で、先輩と赤の他人として出会うことになるなんて。
「先輩……」
僕は星空を見上げ、どこか遠くに行ってしまった彼女に向かって呼びかけた。
「まだ起きていたの?」
暗闇の中では何も見えないが、僕は詩織の声がしたほうへ目を向ける。
衣擦れの音から、彼女が体を起こしたことが分かった。
「ごめん、起こして。ちょっと昔のことを思い出していたんだ」
「どんなこと?」
「知り合い、というかもっと深い仲だった人のことだよ。とても素敵で、僕はその人に憧れていた。もう一度その人と会いたいと思ったんだ」
「きっと会えるわ。あなたが望んでいれば、きっと」
「…そうだね」
詩織の慰めの言葉は根拠の無いものであるとは分かっていたが、それでも正しかった。
僕が望んでさえいれば、望まなければ、彼女を取り戻すことはできない。
それがどんなに時間のかかる事だとしても。
この島では願えばなんでも手に入る。
そう信じたい。
「夜は少し冷えるね。火でも起こせたらいいんだけど」
「水と食べ物が手に入ったんだもの、贅沢は言えないわ」
「そうだね」
僕がそう言うと、詩織はまた横になったようだった。
それ以上彼女を起こさないように、僕も静かに体を倒し目を閉じた。
ひんやりと冷たい砂を感じながら、優しい波音に眠りへと誘われていく。




