5.カタリナ、天使の横顔に見とれる。
少年が一冊一冊過去の公演記録を確認していくのを、私は横からじっと眺めている。
本当は、こんなことに構っていないで自分の研究を進めるのが建設的だ。でも、ふわふわとした天界の雲のような髪の毛も、誰にも踏まれていない処女雪のような肌も、蜂蜜を垂らした糸のような細く長いまつげも、ぼんやりとした明りに映し出される彼の横顔の全てが、私の目を捉えて離さなかった。
何故か、公演記録の確認が進むにつれ、少年――アクナート君の表情は暗くなっていく。図書資料室に入って来た時は、満開の花みたいに輝いていた眼も、今では幾分か悲しげにふせられている。しかし、それさえも綺麗だと思えて、ああ花は蕾でも満開でも等しく美しいのだな、と妙に納得してしまった。
アクナート君は、昨日の宣言通り、二日続けて図書資料室にやってきた。
彼は「カタリナさん! 二年前の公演資料を見せて!」と明るい声をあげながら無遠慮に入室してきた。こんな闖入者が来たら普段なら諌める所ではあるが、まったく悪気も邪気もないあどけない表情に、私は毒気を抜かれてしまった。書庫から二年前の公演資料を全て(と言っても、20冊程度しかない)持ちだして彼に渡してから、それからずっと私はぼんやりとアクナート君の横顔を眺めてしまっている。
アクナート君の桃色の唇の隙間から、はあ、という溜息が洩れる。彼の表情は暗い。
「……どうしたの? 探していたものは見つかった、かしら」
「ううん……。オレの知りたかったことは、ここには書いてないみたいだ……」
もうひとつ溜息を吐くと、彼はすがるような目線をこちらに向けてくる。
「ねえ、カタリナさん……。公演資料に、演者の名前が載っていない、なんてことあるかな?」
「なくは、ない、と思うわ。本人が拒否した場合とか……めったにないことだけど」
アクナート君の言う所によれば、彼はある演目に出演していた役者を探しているらしい。しかし、2年前の全ての演目を見ても、彼の探す「歌声の女神」という役名がそもそも存在していないそうだ。
2年前――私は舞台効果科の二年生だった。私は助っ人としてチョイ役で舞台に立っていたから、全部の演目を観劇することはできなかった。それでも舞台効果科の実習として、色々な作品の稽古や制作にはたびたび顔を出していたのだけれど――「歌声の女神」なんていう役があっただろうか?
歌声の女神はね、きらきらーってしてて、とっても綺麗で、なんだか儚い感じで――と身ぶり手ぶりを加えて眼を輝かせながら説明してくれるアクナート君は愛らしいけれども、彼の話す情報はまったく役に立たないどころか、ノイズでしかない。
「……私の方でも、探しておくわ。正直言って、手掛かりはほとんどないから、あんまり期待しないでね」
うん、ありがとう。そう言う彼の顔は、私が期待していたほどは暗く無かった。
2年間の片思い。それも相手の名も分からない。
2年間、きっと何度も諦めかけたりしたんだろう。彼は、手掛かりがなくて途方にくれるのに慣れているのだろう。暗中模索で、手掛かりも無くて、それでも諦められない。彼の魂は、本当に明るくてしなやかだ。
彼の持つ光に照らされたら、私ももっと明るい花のように生きられたのだろうか。
彼の様に明朗で居られたら、私は、私の家族を壊してしまうことも無かったのだろうか。……いや、明るさは関係ない。
私の、この汚らわしい声がある限り。明るくても、暗くても関係なかったんだろう。
***
今日は、重力が普段よりも少し強いです。
そんな風に言われても信じてしまうくらい、なんとなく上手に歩けない気分だった。製作科のお手伝いをする休み時間に図書資料室に行って、カタリナさんに手伝ってもらいながらも公演資料を探したは良いけれど、「歌声の女神」に関する情報はまったく出てこなかった。
とぼとぼと歩きながら工作室を目指す。
歌声の女神、なんて夢か幻だったのかなぁ……。でもじいちゃんも見たって言っているしそれは無いかぁ。
可能性はふたつ。
ひとつは、カタリナさんが言っていた様に本人が名前を載せるのを拒否している。
あまりないことらしいけど、ありえない話ではないらしい。実際ほぼエキストラとして出演する機会が多いカタリナさんも記名拒否することがあるらしい。
もうひとつは、そもそも「歌声の女神」という役名が間違えている。
「歌声の女神」という名前は、じいちゃんから聞いたものだ。オレは公演中ほとんど眠っていた。内容は全然覚えていないから、役名が間違っていても分からない。
どっちにしても、地道に聞きこみをするしかなさそうだなぁ……。幸い製作科にお手伝いに来たことで、沢山の芝居に関わっている研究生の先輩方や、先生方とも知り合いになれたから、きっと新しい情報も見つかるはず! よーしやるぞー!
気付けば目の前に工作室の扉。
勢い良く開けて、暗い気分を吹き飛ばすために声を出す。
「戻りましたー!」
オレの声に反応して、扉の近くにあった大岩がびくり、と動いた。
「……アクナート。元気なのは素晴らしい。しかし、同じ明るさのままボリュームだけ小さくできないか? できないなら、効果科にいって専用の魔道具を作ってもらうが……」
大岩かと思ったら、リヒト先輩だった。
ところで、と先輩は続ける。
「お友だちが来ているぞ」
先輩が指差す先には、道具方の大男たちに混ざっても負けない長身のキラルが、背筋を伸ばして立っていた。