チャイム 7.2
小松英彦と会ったのは二日後、水曜の夜だった。
待ち合わせ場所であるコンビニの前に立ち、里美はゆう子が現れるのを待っていた。
英彦と二人きりで会うのを避けるために、ゆう子にも連絡しておいたのだが、時間を過ぎてもゆう子は未だに現れなかった。
(どうしたんだろう……)
ゆう子が何の連絡もないまま、約束の時間に遅れるということは珍しいことだ。里美はバッグから携帯電話を取り出すとじっと見つめた。
(連絡してみようかな)
そう思った時――
「お待たせ」
背後からポンと肩を叩かれ里美は振り返った。小松英彦だった。ブランド物のスーツを着込み、髪を茶色に染め、耳にはピアスを付けている。まるでホストクラブにでも勤めているかのようだ。
「さあ、行こうか」
「待って、まだゆう子が来てないのよ」
「なんか都合でも悪くなったんじゃねえの? さ、行こうぜ」
英彦は里美の手を握って歩き出そうとした。高校から強引なところは変わっていない。
「だめよ。ここで待ち合わせしてるんだから」
里美は英彦の手をふりほどくと、すぐに携帯電話を開いてゆう子に電話する。
――はい
すぐにゆう子は電話に出た。
「どうしたのゆう子。どこにいるのよ?」
――どこって?……会社よ。仕事してるんだもの。
驚いたようにゆう子が答える。まるで今日の約束のことなど忘れているようだ。
「何言ってるの? 約束忘れちゃったの?」
――約束って?
「ヤダ、忘れちゃったの? 英彦君とのことよ」
――え? ひょっとして飲みに行く話?
「そうよ。待ってるのに全然来ないんだもん」
――あれって来週になったんじゃなかったの?
「え? どういうこと? 私、昨夜、今日って言ったよね」
――うん。でも、すぐその後で英彦君から電話があって、来週に予定を変えるからって……
「そんな――」
里美は傍らにいる英彦を睨んだ。英彦はうっすら笑みを浮かべて肩をすぼめてみせた。
――違ったの? 私、てっきりそう思ってたから残業いれちゃった。今更帰るなんて言えないし……今日は私、行けないよ……
「そう……わかった」
里美は仕方なく電話を切って英彦を睨んだ。「いったいどういうことなの?」
「せっかくだから二人で飲みたかったんだよ」
英彦はおどけたように言った。
「ふざけないでよ」
「いいじゃんか、俺とおまえの仲だし――」
「そういう言い方しないで。だいたい橘君は? 橘君も来るって言ってたじゃないの。彼はどうしたの?」
英彦は高校のクラスメイトである橘信一を連れてくると言っていた。2対2だからこそ会ってみる気になったのだ。
「ああ……あいつも仕事で忙しいって」
「じゃあ、私帰る」
里美は英彦に背を向けて歩き出した。
「ちょ……ちょっと待てよ」
慌てて英彦が止める。
「何よ。嘘ばっかついて」
「怒るなよ。なにも帰ることないだろ」
「二人きりなんて嫌よ」
里美の言葉に英彦はため息をついた。
「……わかったよ。橘を呼べばいいんだろう?」
「今更――」
「――すぐに呼ぶから!」
英彦は渋々といった様子でポケットから携帯電話を取り出すと里美に背を向けて電話をかけはじめた。ボソボソと誰かとのやり取りの後、英彦は振り返った。
「すぐに来るよ。ただ、あと三十分くらいかかるから先に始めててくれって」
「本当なの?」
里美は疑いの眼差しで英彦を見た。
「ホントだよ。橘に電話して確認してみるか?」
そう言って自分の携帯電話を里美の顔の前に突き出した。さすがにそう言われれば信じないわけにもいかない。
「いいわ。わかったわよ」
渋々、里美は肯いた。
「じゃ、先に行ってようぜ」
里美はそう言って歩き出した英彦の後に続いた。
* * *
英彦は終始機嫌良く、一人喋りつづけていた。ゆう子に嘘をついて里美を怒らせたことなどとうに忘れてしまったように見える。
「橘君、遅くない?」
店に入ってからすでに三十分は過ぎている。英彦のことは嫌いではなかったが、過去のこともあって、やはりいつまでも二人きりでいることは抵抗があった。
「ん? そうだなぁ……」
適当に英彦は返事をしてビールの入ったグラスに口をつけた。
(まさか嘘なのかしら)
再び英彦に対する疑惑が湧きあがってくる。ただ、里美は今、それ以上に身体のだるさを感じ始めていた。
(身体が重い……)
もともとアルコールにはそれほど強いほうではないが、ビールの一杯くらいで酔うほど下戸でもない。それでも今日はまだほんの少し飲んだだけだというのに、身体がだるく感じ始めている。
(いったいどうしたんだろう)
急激に眠気が里美を襲ってきていた。
少しでも気を抜くと頭がガクリと落ちてくるような気がする。
「どうしたぁ?」
笑顔の英彦が里美の顔を覗きこんだ。
「う……うん……ちょっと」
「具合悪いのか?」
「……うん、ちょっと」
「そうか……じゃ、帰ったほうがいいかもな」
その優しい言葉に、里美はほんの少しほっとした。
「うん……ごめんね」
立ち上がろうとしてぐらりと身体が崩れそうになるのを英彦が抑えた。
「大丈夫か?」
「ごめん……」
なぜ、突然これほどまでに眠くなるのか里美にもわからなかった。
「今、勘定してくるからちょっと待ってろ」
英彦はそう言って立ち上がると、急ぎ足でレジのほうへと向かっていった。そして、すぐに戻ってくると、里美を抱き上げるようにして店を出た。
店を出ても里美の状態は変わらなかった。ますます眠気が全身を包み込んでくる。
「駐車場に車がとめてあるから」
その言葉に里美は首を振った。
「私、タクシーで帰るから。英彦君もお酒飲んでたでしょ」
「あのくらい全然平気だって。送っていってやるよ」
「そんなのダメだよ」
だが、里美の言葉を英彦は聞こうともしなかった。英彦は強引に里美を連れ、店の近くの駐車場へと向かった。逆らうことが出来なかった。既に英彦の支えなしでは立っていられない状態になっていた。
駐車場の端のほうに、赤のRX-7が停められている。それが英彦のものだということは先日の同窓会の時に見たので里美もすぐにわかった。
英彦は助手席を開けると里美を乗せた。
(何か変だ……)
心が警鐘を鳴らしている。
この身体のだるさは普通ではなかった。だが、すでに里美の身体は自由がきかなくなりはじめていた。
RX-7のエンジンがうなりはじめ、振動が身体に伝わってくる。
英彦は何も言わずに車を動かし始めた。英彦が里美のアパートを知るはずが無い。
(どこ……? どこに行くつもり?)
窓の外から見える景色が流れていくのを里美はぼんやりと眺めていた。
* * *
20分後――
エンジン音が止まった。
里美は辛うじて眠りに落ちるのだけは耐え続けていた。だが、思うように身体が動かない。
ドアが開いて座席から降ろされる時も、目はほとんど開けられなかったが、そこが自分の知らない場所だということだけは理解できた。
「おい、しっかりしろよ」
里美を抱きかかえて歩く英彦の声が聞こえる。だが、その声からは本当に自分を心配しているような気持ちは感じ取れない。
その英彦の声のトーンに里美はある話を思い出していた。
――あいつ、睡眠薬なんて持ち歩いてるんだぜ。なんかヤバイ事もやってるらしいんだ。けっこう評判悪いぜ
先日の同窓会の時、誰かがそう言って英彦のことを話していた。あの時はそれがまさか本当のこととは思えず、ただの噂程度にしか思っていなかった。
だが――
(薬……?)
身体がぞくりとした。そういえば店に入ってすぐに里美がトイレに行っている間に、すでに飲み物は揃っていた。薬をいれようとすればいつでもそのチャンスはあったということになる。
「さあ、しっかりしろよ」
その英彦の声がやけにそらぞらしく感じられる。
(嫌だ……帰らなきゃ)
そう思っても気持ちに反して身体は自由に動かない。
英彦に連れられるままに、階段を昇っていく。
「ここ……どこ……?」里美はなんとか声を出した。
「……」
英彦は答えようとしない。
「ねえ……どこなの?」
「俺のアパートだよ」
「……どうして……?」
「ちょっと休んでいけばいい」
英彦はぐいぐいと里美の身体を抱え歩いていく。逆らおうにも、それだけの力はすでになかった。
ふと足が止まった。
ガチャガチャという鍵の開く音が聞こえてくる。
(だめだ……)
自分の意志とは関係なく、英彦は里美を連れて中に入っていく。
やがて、身体を支えていた英彦の腕が身体から離れ、里美はそのまま床の上に崩れ落ちた。
懸命に目を開き、自分の今いる場所を確認する。
1DKの部屋。
すぐ傍らに大きなベッドが置かれているのがぼんやりと見える。思わず里美はそこから離れようとした。
「ゆっくりしていけよ」
里美を見下ろすようにしてベッドに英彦が腰掛けている。
「帰……る……」
そう言ったものの身体は動かない。
「どうやって?」
「……お願い……帰らせて……」
「帰られるならどうぞご自由に」
英彦が自分を見下ろしててせせら笑っている。こみ上げてくる悔しさを力にして里美は這うようにドアの方向へ向かった。
目を開けていることでさえ辛かった。
その里美の身体を後ろから英彦が抱き起こした。
「やめ……て……」
英彦に触られることが怖かった。「……触らないで」
「諦めろよ」
ぼそりとつぶやくと、英彦は里美の身体をベッドの上に放り投げた。
「うぅ」
仰向けに投げ出された里美の上にすぐに英彦が覆い被さってくる。その英彦の身体を引き離そうとしてもまったく動かない。
「なぁ……楽しもうぜ」
「嫌……」
必死に抵抗しようとしてもどうにも力が入らない。
英彦の唇が押し当てられてくる。湿った息が頬にかかる。
(助けて……助けて……)
心のなかで里美は叫んだ。
ふと、頭のなかに微かな記憶が蘇ってくる。
遠い昔、こんなことがあった。
(助けて!)
そして、あの時はあの人が助けてくれた……。
誰だったろう。
意識が消えていく。
身体が動かない……
* * *
夢を見ていた。
遠くで誰かの声が聞こえる。
振り向こうとするのを誰かが抑えた。
「気にする必要はないよ」
後ろからそっと抱きしめられる。
柔らかい、心地良い感触。
(誰……?)
「守ってあげるから」
懐かしい声。
そう……ずっと昔から私はこの人を知っている。
* * *
ふと誰かに呼ばれたような気がして目を開けた。
白い天井が見える。
一瞬、自分がどこにいるのかわからず里美は部屋を見回した。
記憶が少しずつ戻ってくる。
(そうだ……英彦君の部屋だ……)
だが、英彦の姿は部屋のなかには見えず、里美一人がぽつんとベッドの上に倒れているだけだ。里美は上体を起こし、思わず身体を調べた。
服は若干乱れていたが、それ以上乱暴された形跡はなかった。
里美が意識を失った後、英彦はそれ以上手を出すのを止めたのだろうか。
部屋のなかが散らばっている。
テーブルの足が折れ、さらにはテレビもひっくり返っている。まるで争った後のように見える。
(いったい何があったの?)
里美はゆっくりと立ち上がった。
ふと腕時計に視線を走らせる。すでに朝の5時を過ぎている。
(英彦君はどこに行ったんだろう)
まだ身体にだるさは残っていたが、意識はしっかりと戻ってきている。
(今のうちに逃げなきゃ……)
英彦の姿が見えないうちにこの部屋を後にしたかった。
ヨロヨロと里美は立ち上がるとドアに向かった。身体が震えている。どこからか英彦が姿を現すのではないかと、びくびくしながらも里美は部屋を出た。
夜のひんやりした空気が街を包んでいる。
アパートの前には英彦の赤いRX-7が置かれている。
今、自分がどこにいるのかそれはぜんぜんわからない。それでも里美は細い路地を抜けながら大きな通りへと出た。
大型トラックが目の前を走りぬけていく。
里美は周囲を見回すと、ちょうど走ってくるタクシーを見つけ手をあげた。タクシーはすぐに里美の姿に気付いて近寄ってきてドアを開けた。
「どちらまで?」
里美が乗り込むと、年老いた運転手がバックミラー越しに声をかけてくる。里美は自分の住所を運転手へと告げた。
暗闇のなか、里美はぼんやりと窓の向こうを流れて行く街の灯りを眺めていた。
家に帰りつく頃には、すでに夜が明けはじめていた。
部屋に入ると里美はほっとした安堵からばたりとベッドの上に倒れこんだ。
心身ともに疲れ果てていた。
(会社は休もう……あとで電話をすればいい……)
部屋に差し込んでくる朝日から顔を背けるようにして里美は目を閉じた。
* * *
目が覚めたのは、昼を過ぎてからだった。
軽やかな電子音が何の音かわからずに里美はぼんやりと頭をあげた後、それがバッグのなかで鳴っている携帯電話の音であることに気づいた。
ベッドから手を伸ばし、まだ虚ろな状態で里美は電話を取った。
「……はい……」
――里美? 大丈夫なの?
ゆう子の声だ。
「ああ……ゆう子……どうしたの?」
――何言ってるのよ! 寝ぼけてるの? 昨夜から何回も電話してたのよ。昨夜、大丈夫だったの?
怒ったような声でゆう子は言った。
「昨夜……?」
一瞬、何のことかわからなかった。頭がぼーっとしている。
――英彦君のことよ!
「……英彦君?」
ゆう子の言葉にやっと昨夜の記憶が蘇ってきた。そして、それは記憶とともに昨夜の嫌な感覚も蘇ってくる。里美は思わずぎゅっと自分の身体を抱きしめた。
――里美? 大丈夫なの?
「う……うん……」
――英彦君に何かされたの?
里美の声にゆう子は優しく訊いた。
「薬……飲まされたんだと思う。英彦君の部屋に連れ込まれて――」
――え?
ゆう子の驚きが伝わってくる。
「で、でも大丈夫だったよ。気がついたら英彦君いなかったし……」
――それで?
「怖くなって……そのまま帰ってきた」
――あいつ……
ゆう子の苛立った声が聞こえてくる。
「もう終わったことだから……」
薬を飲まされアパートに連れ込まれ、英彦に抱きしめられたところまでは憶えている。だが、気が付いた時の状況からそれ以上のことはされていないはずだ。
早く忘れてしまいたかった。
――里美、ごめん。私があいつに電話番号を教えたばっかりにこんなことになって。
「いいよ。ゆう子のせいじゃないんだから」
ゆう子の優しさに触れたせいか、思わず涙がぽろりと零れた。
――ごめんね
ゆう子はもう一度繰り返した。
「……うん」
そう答えて里美は電話を切った。
全て終わりにして忘れてしまおうと思った。
携帯電話の着信履歴を確認する。ゆう子以外にも会社からのものも残っていた。
(会社に電話しなきゃ)
ぼんやりとした頭で会社にどう言い訳しようかと考えながら、里美は会社の番号を押した。




