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チャイム  作者: けせらせら
7/17

チャイム 7.1

   七


 『退行催眠』

 それがどのようなものかはすでに里美も本などで調べて知っていた。

 自分の時間を逆回転させ、年齢を溯っていく。そのなかで心理的外傷となったものを見つける催眠療法の一種だ。場合によっては幼児体験、胎児体験を超えて前世までも溯ることも出来るらしい。

 覚悟は出来ていたし、八雲のことは心から信頼していたが、それでもやはり不安は残っていた。

 八雲と別れてすぐにゆう子には電話で立会いをお願いをした。ゆう子は快く立会いを了承してくれた。

(いったい何が現れるんだろう)

 自分の心のなかにある未知の部分に何が隠されているのか、それが不安の最大の要因だった。

 里美は本棚から先日買ったばかりの催眠療法に関する本を取り出し、ぱらぱらとそれを眺めた。

 その時、携帯電話が鳴った。

 里美は携帯電話のディスプレイに表示された番号を見た。見知らぬ番号だった。

「……はい」

 里美はおそるおそる電話に出た。

――もしもーし

 若い男の声だ。

「はい……」

――里美?

 聞き覚えのない声だ。だが、どうやら間違い電話ではなさそうだ。

「え?」

――誰だかわかる?

 まるで里美をからかうかのようにその男は言った。

「……誰?」

――なんだよ、忘れちゃったのか?

「ごめんなさい」

 そう言いながら、頭のなかで必死に声の主を捜す。

――俺だよ。英彦

「英彦君?」

――まさか忘れちゃった、なんて言わないよな。

 それは高校の同級生、小松英彦の声だった。先日の同窓会の時に見かけはしたが、話はしなかった。高校の頃に何度か電話で話をしたこともあったが、すっかり英彦の声など忘れてしまっていた。

「ああ――英彦君」

――やっと思い出したって感じ? ひどいなぁ。

 そう言って英彦は笑った。

 その屈託のない声に里美はどこかホッとした。だが、すぐになぜ英彦が電話してきたのか不思議に思った。高校卒業以来、まったく連絡を取ることもない英彦に電話番号など教えるはずもない。

「どうして私の携帯の番号知ってるの?」

――超能力ぅ

「ふざけないで。ちゃんと答えて」

――そんな怒んなよ。この前、ゆう子から教えてもらったんだ。

「ゆう子、そんなこと一言も言ってなかった……」

 きっとゆう子は里美が英彦のことを好きなのだとまだ誤解しているのだ。ちゃんと誤解を解いておくべきだったと里美はほんの少し後悔した。

――俺が口止めしといたんだ。びっくりしただろ?

「うん」

 英彦らしい、と里美は思った。悪く言えば『自己中心的』な性格も高校の頃と変わっていない。

――今度、一緒に飲みに行かないか?

「え……でも――」

――この前の同窓会の時はあんまり話出来なかったからな。今度二人でゆっくり話さないか。いいだろ?

 畳み掛けるように英彦は言った。

「でも、どうして?」

――どうしてって? だめなのか?

「だめじゃないけど」

――何、心配してるんだよ。俺がおまえになんかするとでも思ってんの?

「そうじゃないけど……でも、二人っていうのは――」

――だったら皆も一緒なら問題ないだろ。

「う……うん……」

――じゃあ明後日の夜時間あるか?

「明後日? 水曜日よね?」

 水曜日は会社の規則でノー残業日と決められている。

――なんか予定あるのか?

「別にないけど……でも――」

――……じゃ、決まりな! いいよな!

 英彦は里美を押し切るように決めてしまった。

「……うん」

 仕方なく里美は肯いた。はっきり断ることが出来ないのは自分の悪いところだと、よくゆう子から叱られることがある。

 ただ、たまには気分転換に良いかもしれない、という思いもあった。

――それじゃ、時間と場所を決めたら明日の夜にまた連絡するから。じゃあな

 英彦は一方的に喋ると電話を切った。

 英彦が何を考えているかはわからないが、里美は英彦とよりを戻すことなど考えてはいなかった。すでに卒業してから2年が過ぎている。まさか、英彦も今になってあの時のことを蒸し返すこともないだろう。

(ただの思い出話)

 里美にとって、英彦と会うのは同窓会の続きのつもりでしかなかった。


   *   *   *


 昼を少し過ぎた頃、八雲は新宿駅を出ると地下道を抜け、西口の階段を登った。そして、外へ出るとその正面のところに建つ小さな雑居ビルに入っていった。

 雑居ビルの三階に『田宮サイコクリニック』がある。

 中は薄いブルーの壁紙が貼られ、爽やかで落ち着いた雰囲気をかもしだしている。待合室の正面に夏の海の写真が飾られている。

 八雲はドアを開けると――

「やあ」

 と、顔なじみの受付の女性に軽く手をあげた。「田宮さん、いるよね?」

「ええ、先生は奥にいらっしゃいますよ」

 受付の女性は八雲ににこやかに微笑み返した。

「診療中かな?」

 八雲はちらりと待合室を見回した。小さな待合室には一人、若い女性がうつむいて座っている。微かに視線だけを動かして八雲はその女性を観察した。落ち着きなくしきりに足を小刻みに震わせている。

「いえ、ちょうどお昼休みですよ」

「じゃ、いいかな?」

「ええ」

 受付の女性はにっこりと笑った。

 ふと横を見ると、猫が檻にいれられている。茶と黒と白が交じり合った雉猫だ。怪我をしているらしく、その左の後ろ足には包帯が巻かれ、わずかに血が滲んでいる。

 八雲はそっと近づいて覗き込んだ。途端に猫が立ち上がりフーとうなり声を上げる。それを見て八雲は小さく微笑むと、もう一度待合室に待つ女性に視線を投げかけながら、奥の部屋へと入っていった。

 診療室では一人の若い男が窓際に置かれた机に向かい雑誌を読んでいる。集中しているのか、八雲のことなど気づかないようだ。

 八雲はその男に声をかけた。

「田宮さん、いいかな?」

 田宮洋平はまだ二十九歳という若さだったが、ここ一年の間は催眠治療に関して出版した本がベストセラーになり、さらに最近ではテレビにコメンテータとして出演するなどと精神分析医として以外の分野でも多忙な日々を送っていた。

 二人が出会ったのは、一年前、八雲が雑誌の特集記事のために田宮に取材を申し込んだのがきっかけだった。田宮が催眠治療に関する本を出版したのも、八雲に勧められ出版社を紹介されたからだ。

「おお……八雲君か」

 田宮は顔をあげた。「珍しいね。全然、姿を現さないからどうしたかと思っていた」

「お久しぶりです。どうですか調子は?」

「まあまあだね。もちろん私らの仕事が儲かるというのは良いことか悪いことかわからんけどね」

「もう午後からの患者さんがいらしてますよ」

「ああ、杉浦さんか――」

「彼女、ここでの治療は長いんですか?」

「細やかな神経の人なんだが、それがむしろ仇になってる」

「気をつけないといけないですね」

 八雲はそう言って右手で左手の手首のあたりをすっと切るような素振りを見せた。

「わかってる。これまでにも何度かやらかしてるんだ。彼女は少しルーズになるくらいがちょうどいいんだけどね」

「表の猫はどうしたんですか?」

「1週間前に表で怪我をしているのを拾ったんだ。だいぶ元気にはなってきたんだが、もともと野良猫らしく、ちっとも懐こうとしない。へたに手を出したりすると、すぐにひっかかれちまうんだ。まったく可愛くない奴だよ」

 田宮はそう言って笑うと、自らの左腕をまくって見せた。猫によってひっかかれたと思われる爪あとが蚯蚓腫れのように残っている。

「誰にでもすぐに懐くような猫よりよほど可愛いじゃないですか」

「君も変わった男だな。それにしても今日はどうしたの?」

「実は今日はちょっとお願いがありまして」

 そう言いながら八雲は部屋の中央に置かれた布張りのソファに腰をおろした。それを見て田宮も席を立つと、テーブルを挟んだ向かいのソファに座った。

「君が頼みごと? どうやら仕事の話じゃなさそうだね」

「当たりです」

「なんだい?」

「僕の知り合いの女性なんですが、彼女に『催眠治療』をかけようと思うんです」

「『催眠治療』だって?」

 田宮洋平は驚いた顔で八雲を見つめた。

「ええ、それで出来たらこちらが休みの時に、この場所を一日貸してもらいたいんです」

 八雲は田宮の正面のソファに座りながら言った。

「それは構わないけど……なぜ、そんなことを?」

「彼女、ちょっとした記憶障害を起しているみたいなんです」

「へえ……」

「それが原因で最近苦しんでいるようなんですよ」

「君が治療をしようなんて珍しいね」

 八雲が催眠に関しての知識を十分すぎるほど持っており、またその技術もあることを田宮も知っている。だが、これまで八雲が決して実際の治療に興味をもって、自分で治療をすることなどはなかった。

「いけませんか?」

 八雲は笑った。「心配なら立ち会っていただいてもいいんですけど」

「いいや、心配などしていないよ。君の腕なら十分やれるだろうね。君もいよいよこの道に入ってくるのか。ライバルが出来ると思うと怖いな」

「そんなんじゃありませんよ。僕は田宮さんのようにはなれませんから」

「けど、君の腕ならあえてここじゃなくても出来るだろう?」

「念には念を押さないと」

「つまりそれだけ大切な人ということかな?」

「さあ」

 八雲は曖昧に答えた。

「ところで――」

 と田宮は八雲の顔を見た。「そろそろ君も本気でこれからのこと考えてみないか?」

「またあの話ですか?」

 八雲は困ったように頭を掻いた。

「君ほどの腕があるんだ。うちのスタッフとして働いてくれたら私も助かる。一緒にやってみないか? どうだろうね? 真面目に考えてみてくれないか?」

「ありがとうございます……けど、今はまだそのつもりにはなれません」

「いったいいつになったら決心がつくんだい?」

「さあ……そのうち」

 そう言って八雲は立ち上がった。

「なんだ、もう行くのかい?」

「診療の邪魔しちゃいけないでしょ。それじゃ日曜日、ここを貸してくださいね」

「ああ――構わないよ」

 田宮の答えを聞いて、八雲は頭をさげると背を向けた。

 ふと思い出したように田宮が声をかける。

「そういえば――」

「はい?」

 八雲は振り返った。

「探し物は見つかったかい?」

「え?」

「以前言ってたじゃないか。ずっと昔無くした大切なものを捜してるって」

「ああ……そうでしたね」

「見つかったのかい?」

「どうでしょうね。近づいてると思います」

 八雲はそう言って静かに微笑んだ。


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