チャイム 6
六
深夜、眠りのなかにふとその気配を感じていた。
妙に息苦しかった。
上から何かに圧迫されている感じがしている。
(なんだろう……)
誰かがそばに立っている気がする。
――里美……
声が頭のなかに響いてくる。
「……誰……?」
思わず小さく声を漏らした。
誰もいないはずの部屋に自分の声が響く。
その自分の声に我に返った。
ゆっくりと瞼を開ける。
闇に包まれた静かな部屋。時折、国道を行き交う車のエンジン音が聞こえてくる。
わずかに目を動かし、部屋を見回す。
そして、里美はハッとした。
暗闇に紛れてはっきりは見えないが、白い顔をした女の姿がそこに見えた。
「だ……誰なの……」
起き上がろうとしても身体が動かない。
――知ってるでしょ
頭のなかに声が響く。
「どういうこと……?」
クスクスと笑っている。
「カスミ……?」
その名前がふいに口から漏れた。
――そうよ
その言葉に女が頷く。
「カスミ……わからない……あなたは誰なの?」
――もうすぐわかるわ。
その声が聞こえ、里美はガクリと意識を失った。
* * *
記憶。
白い霧の向こう側に何が隠れているのだろう。
――誰かに記憶をロックされたかな?
八雲の言葉が気になっていた。
その言葉で里美は一人の人間を思い出しつつあった。
中学の頃、家に帰る途中でいつもその人は里美を待っていた。
――里美ちゃん、おかえり
優しい声。
そして、その人は里美の前にしゃがみこむ。
あれは誰だったろう。あれは何をしていたんだろう。
誰かにとって、忘れなければならない記憶が自分の頭のなかに眠っているのかという思いが不安にさせていた。
――本当に心配なら一度ちゃんと医者に行ってみてもらったほうがいい。催眠をそれほど怖がる必要はないよ。
八雲はそう言ってくれたが、やはり催眠によって何か隠されているものが掘り起こされるかもしれないということは大きな不安でもあった。もし、本当に記憶を封じられていたとして、いったい誰が何のためにそんなことをしたのだろう。
じっと八雲の携帯の番号が書かれたメモを見つめる。
(一度見てもらったほうがいいのかな……)
ここ数日の異変も気になっている。
それが小学校以前の記憶と関係しているかどうかはわからないが、それでも妙に気になっていた。
バッグから携帯電話を取り出し、メモリから八雲の番号を探し出す。
RRR……
呼出し音が聞こえた後――
――はい
すぐに男の声が聞こえてきた。
「あの……早川です。憶えてますか?」
――ああ、早川里美さんですね
どこかホッとする声だ。不思議と昔から知っているような気がする。
「先日はありがとうございました」
――いえ、こちらこそ楽しかったです。今日はどうしたんです?
「あの……実は……先日もお話した『記憶』のことで……」
――調べてみる気になりましたか?
「……はい」
――そうですか。それじゃ僕の知ってる先生を紹介してあげましょう。
「い、いえ……そうじゃないんです」
――え? じゃあ何ですか?
「私、八雲さんに診てもらいたいんです」
――僕?
「はい……だめですか?」
――駄目ってことはないですけど……僕は医者じゃありませんから。
「それでも良いんです。お医者さんに診られるのはなんか嫌だし……」
――そうですか。わかりました。僕で良ければ構いませんよ。もし、それで問題が見つかれば専門の先生に診てもらうってことにしましょう。
「ありがとうございます」
里美は携帯電話を握りながら、思わずその場で深く頭をさげた。
* * *
翌日、里美は仕事が終わるとすぐに八雲が指定した喫茶店に急いだ。
白いレースのついたスカートを履き、白いブラウスの上にピンクのカーディガンを羽織ったラフな恰好だった。
中に入ると、すでに八雲は窓際の席に座っているのが見えた。この前会った時と同じような青いジーンズにベージュのジャケットを着ている。八雲は里美に気づかない様子で、テーブルの上にノートを広げ、しきりに何か書いている。
「すいません。お待たせしてしまって」
里美が近づくと八雲は驚いて顔をあげた。
「ああ……もうそんな時間だったんだ」
八雲は慌てたようにノートを片付けながら腕時計に視線を走らせた。
「何されてたんですか?」
里美は八雲の前に座った。
「ちょっと仕事をね。一人で閉じ篭って書いてるより仕事が進むんで、たまにこういうところを利用することがあってね。だから、待っていたっていうのとは違うんだ。何飲みます?」
そう言って八雲はちょうど通りかかったウェイトレスを呼びとめた。里美はミルクティーを頼むと、再び八雲に顔を向けた。
「何かの原稿なんですか?」
「『レベル9』って雑誌知ってる?」
「……ごめんなさい。どんな雑誌ですか?」
里美は首を振った。雑誌というとファッション雑誌や住宅情報誌しか思い浮かばない。八雲は笑顔のままで――
「――でしょうね。読者は大抵が男性です。しかも、学生がほとんどだからね。内容がオカルト物だからしょうがないよ」
「そういえば心霊現象とかにも詳しいって高木先輩言ってましたね」
「詳しいというより、単に好きなだけ。『好きこそ物の上手なれ』っていってね。もちろん幽霊や超能力なんてものを頭から鵜呑みにしているわけじゃないよ。けどね、この世の中には科学で証明されないことが山ほどあるわけ。超常現象の全てが嘘とも言いきれないでしょ」
「じゃあ、八雲さんもそういう超常現象を体験したことあるんですか?」
「いや、それがまったくないんだ」
八雲はそう言って笑った。「いろいろ霊が出るという場所に行ってみたりしてるんだけど、他の人たちが『霊を見た』とか言って騒いでるのに僕はさっぱり。根本的に霊感が弱いのかもしれないね」
「それなのに記事書けるんですか?」
「そうなんだ。それが僕の一番の悩みだよ。だから僕の書く記事は超常現象を科学で解析して、その超常現象を否定してしまうような物が多いんだよ。おかげで編集長からはいつも怒られてばっかりさ。なんか言ってることとやってることが逆になっちゃってるね」
明るく話す八雲の言葉に、里美は緊張が解れていくような気がした。
ちょうどその時、ウェイトレスが里美の前にミルクティーを運んできた。ほのかに甘い香りが広がっていく。ウェイトレスが離れると、八雲はちらりとその後ろ姿を見送って口を開いた。
「それじゃ本題に入ろうか」
目は相変わらず優しかったが、ほんの少し真剣な顔つきになった。それを見て里美も少し緊張する。
「はい、お願します」
里美は軽く頭をさげた。
「そう緊張しないで構わないよ。なぜ急に治療を受けてみようなんて思ったの?」
「……前から中学校に入る前のことが思い出せないことには気になってたんです。ただ最近になって……」
里美は口篭もった。
(笑われないかな)
自分の言うことが笑われるのでないかと一瞬不安になった。
「何かあった?」
八雲は優しそうな目で訊いた。その目を見ていると、全てを話しても良いような気持ちになってくるから不思議だ。
「……なんか時々変なんです」
「変っていうのは?」
「部屋に誰かいるような気がするんです」
そう言って里美は八雲の表情を見た。八雲は決して笑うことなく、真剣な眼差しで話しを聞いてくれている。
「他には?」
「声が聞こえたこともあります」
「声? どんな?」
「私を呼ぶ声……あと……『早く目覚めろ』って……女の人の声です。それに……先日は実際にその姿を見たんです……夢かもしれないけど……でも、彼女のこと、私、知ってる気がするんです」
「なぜそう思うの?」
「わかりません。でも、名前を知ってるんです。『カスミ』って……」
八雲は手を口元にあて、何か考えているような表情をした。
「それはいつ頃からです? ずっと前から?」
「いえ、つい最近……二週間か……三週間くらい前からだったような気がします」
「そう……」
「これって何でしょう? 昔のことを思い出せないのと関係あると思います?」
里美の質問に八雲は大きく息を吸いこみ、それから口を開いた。
「さあ、どうだろうね……でも、その可能性はあるかもしれないね。先日も言ったようにあなたの記憶にはロックがかかっているかもしれない。ただ、そのロックが何かをきっかけに外れようとしているのかもしれない」
「きっかけ? それは何ですか?」
「それが何なのかはわからないよ。けど、記憶が漏れ出すことで、声が聞こえたり、部屋に誰かいるように感じたりしているのかもしれないね」
「それじゃ部屋に誰かいるように感じるのは?」
「君の記憶のなかにいる誰かのことを君が思い出そうとしているのかもしれない」
「催眠でそれが誰なのか、過去に何があったのかわかるんですか?」
「そうだね。やってみる価値はあるだろうね」
八雲の言葉に里美は周囲を見回した。
「ここでやるんですか?」
「まさか」
八雲は小さく首を振った。「今日はやらないよ……というより、しばらくはこうやって話しをするだけにしよう」
「どうしてです?」
「僕は素人だからね。へたに君の頭のなかに手を突っ込むようなことは出来ないよ」
「でも……」
「大丈夫。焦ることはない。ゆっくりやっていこうよ」
八雲は里美を安心させるように笑って見せた。その八雲の気持ちが嬉しかった。
* * *
すでに午後11時を過ぎている。
ゆう子は帰る途中に買ったコンビニの袋をぶら下げながら、アパートの階段を上がっていく。袋のなかにはプリンとヨーグルト。疲れているせいか、やけに甘いものが食べたかった。
ドアの前に立つと、すでに部屋には灯りがともっていた。
仕事が不規則なゆう子と違い、正隆のほうがいつも帰っているのは早かった。
「ただいまぁ」
ゆう子はドアを開けながら、奥の部屋にいるはずの正隆に声をかけた。
「おかえり」
すぐにジーンズにTシャツ姿の正隆が顔を出した。
「お腹減ったぁ」
ゆう子はわざと甘えるように正隆に言う。
「シチューなら残ってるけど。食べるか?」
「うん」
ゆう子は笑顔を見せた。
「じゃあ、暖めるよ」
正隆は高校生の頃に田舎から東京に出てきたと聞いたことがある。その頃からずっと一人で生活していることもあり、料理もゆう子よりもずっと上手いし手馴れている。一緒に生活してからも、食事の仕度は正隆がやってくれることが多かった。
「じゃ、私、着替えてくるね」
そう言うとゆう子は自分の部屋に入っていった。
その時、携帯電話が鳴った。
「はい」
ゆう子はバッグから携帯電話を取り出した。
――日野さんですか?
誰だろう……。つい最近聞いたことのある声だった。
「ええ……誰?」
――八雲です
「あ、八雲さん?」
先日、四人で食事したときの八雲の顔を思い出した。あの時、皆で携帯電話の番号を交換しあっていた。「どうしたんです?」
――ちょっと教えて欲しいことがあるんですよ。いいですか?
「構いませんよ。なんです?」
――じつは今度、早川さんの状態を診ることになったんですよ。心配はいりません。友人に精神科医をしている友人がいるんです。田宮サイコクリニックの田宮洋平という男です。何か問題があれば彼に診てもらうつもりです。
と、八雲は事情を説明した。
「そうなんですか、ありがとうございます」
里美のことを心配していたゆう子にとって、八雲が治療に当たってくれるということは喜ばしいことだった。
――それで、教えて欲しいんですが……彼女、ここ最近何か変わったことありませんでしたか?
「最近ですか……?」
――ええ……2、3週間前に何かなかったでしょうか?
「2、3週間前?」
ゆう子は同窓会の帰りの里美のことを思い出した。
「そういえば――」
あの日、事故を目撃したことと、その時の里美の様子をゆう子はこと細かく八雲に伝えた。
――そう……救急車のサイレンですか……
「だから私もちょっと心配になって……それが何か里美の記憶と関係があるんでしょうか?」
――それはまだわかりません。けど、無関係とも思えませんね。ありがとうございました。参考にさせてもらいます。
「あ、八雲さん――」
――なんです?
「くれぐれも里美のことお願いしますね。あの子、昔から内気な子で、自分からそんなお願いするなんて滅多にないことなんです。それだけ八雲さんのことを信頼しているんだと思います。だから――」
――わかっています。出来る限りのことはさせてもらいますよ。
「はい、お願いします。それじゃ――」
そう言ってゆう子は電話を切った。
「どうしたの?」
その声にゆう子は振り返った。正隆がドアを開けてゆう子を見ている。
「里美のことよ」
「何かあった?」
「実はこの前、『催眠治療』が出来る人と知り合ったの。それで今度、里美を診てもらうことになったの。前から里美、昔のことが思い出せなくなったりして悩んでたから。里美が自分から頼んだみたい」
「彼女に催眠をかけるのか?」
正隆は眉間に皺を寄せ、考え込むように言った。
「ええ、どうかした?」
「どこでやるの?」
「えっと……田宮サイコクリニックって言ってた」
ゆう子はさっきの八雲の話を思い出しながら答えた。
「田宮サイコクリニック? ああ……聞いたことあるな……」
「そおなの? 有名な人なの?」
「まあな……彼女、そんなに酷いのか?」
「そういうわけじゃないわ。でも、いろいろ試してみるのもいいじゃないの。何か問題でもあるの?」
「いや……別にいいけど……」
そう言うと正隆は背を向けて部屋を出ていった。出る間際にちらりと振り返って「シチュー暖まったよ」と声をかけた。
* * *
ほぼ毎日のペースで、仕事が終わった後八雲と待ち合わせた。
それはちょっとしたデートのような気分で、数を重ねるごとに里美にとっても楽しみな時間となっていた。
八雲は食事をしながら、まるで雑談でもするかのように里美が憶えていることを少しずつ聞き出していった。
そして、八雲と話しをするようになってちょうど一週間後。
「週末に『退行催眠』をやってみようか?」
別れ際に八雲は言った。
突然の言葉に一瞬戸惑ったが、もともとそのつもりで八雲にお願いしたのだ。里美に迷いはなかった。これまで八雲と話をしてきたことによって、八雲に対する信頼も以前よりもずっと強くなっている。
「はい、お願します」
里美は軽く頭をさげた。
「さて、問題は場所なんだが……」
「場所?」
「ああ、まさかこういう公衆の面前でやるわけにもいかないだろ」
「高木先輩にはやったじゃないですか」
「あれはほんのお遊びだからだよ。君にやろうとしてるのは催眠治療だ。それなりに手順を踏まないといけない」
「それじゃ私の部屋に――」
「いや、一応僕も男だからね」
八雲はやんわりと断った。
「大丈夫ですよ。八雲さんのことは信頼してますから」
嘘ではなかった。信頼しているからこそ、催眠治療も頼むつもりになったのだ。
「ありがとう。でも、そういうわけにもいかないからね」
「それじゃどうするんですか?」
「僕の知り合いに精神分析医をやっている人がいるんだ。そこは土曜、日曜が休みなんで、その先生の診療室を特別に貸してもらうことをお願いしてあるんだ」
「わかりました」
「そこで君から日野さんの都合を聞いておいてくれないかな?」
「ゆう子ですか?」
「日野さんに一緒に付き添ってもらったほうがいいだろう」
「え? どうしてです?」
「催眠状態になるってことは『被催眠者』が無防備な状態になるからね。里美さんが信頼出来る人に立ち会ってもらったほうがいいんだ」
その言葉にむしろ里美は迷った。
「……八雲さんと二人でじゃだめでしょうか?」
「なぜ?」
「私……怖いんです……催眠によって何を思い出してしまうのか……だから、出来ればゆう子にも知られたくない」
「……そう。わかった。それじゃ最初の催眠の時だけ日野さんに立ち会ってもらおう。ただ、その時はあまり過去に遡らないよう気をつけるよ。それなら安心だろ?」
「ありがとうございます」
やはりこの人に頼んで良かった、と里美は改めて思った。




