チャイム 5
五
その週末、仕事が終わったあとに里美はゆう子と共にデパートの前で高木がやってくるのを待っていた。
すでに六時半を回っている。
仕事は六時までで終わると高木は言っていたが、その高木は未だに姿を現さない。
「本当に来るの?」
上下白のスーツでおしゃれに着飾ったゆう子は心配そうにつぶやいた。
「うん……そう言ったよ」
里美は携帯電話を取り出して、電話をかけようかどうしようか迷っていた。
「場所……ここでいいんだよね」
「……うん」
心ぼそげにつぶやいた時、突然、ゆう子が声をあげた。
「あ! せんぱーい!」
両手を広げ飛び上がってみせる。その仕種に里美はゆう子の視線を追った。高木が交差点の向こうから走ってくるのが見えた。
もう一人その後ろから黒いジャケットを着た男が走ってくる。
信号が青から赤に変わりそうになるギリギリに二人は横断歩道を渡りきると、里美たちのもとへ駆け寄ってきた。
「ごめん、ごめん」
高木はすぐに手をあわせた。
「遅いですよぉ、もお。すっぽかされたんじゃないかって心配しましたよ」
ゆう子が腕を組んで脹れてみせた。無意識なのかしれないが、ゆう子の声が1トーン高くなっている。
「いやぁ……悪い悪い。こいつが遅れてきたんだよ」
そう言って高木は一緒に走ってきた男を指差した。里美たちは高木の隣で息を切らせている男を見た。
青いデニム生地のシャツに黒のジャケット、黒のジーンズ姿。スーツ姿でないところを見ると高木と同じ会社の人ではないらしい。里美は高校の高木の同級生たちを思い出そうとしたが、該当する男を思い出すことは出来なかった。
「あのぉ……誰なんです?」
おずおずとゆう子が訊ねた。
「こいつは俺の大学の時からの友達で八雲真澄。フリーのライターをしてるんだ」
すぐに高木が答える。
「へぇ……」
八雲は未だに息が苦しいらしく、はぁはぁと肩で息をしている。それを見て高木が笑った。
「おまえ、運動不足なんだよ」
「ふざけんなよ……駅からずっと……走ってきたんだから……」
呼吸はだいぶ落ち着いてきたが、それでもまだ辛そうだった。
「それはおまえが遅刻してくるからだろ?」
「そりゃ……そうだけど……」
八雲はそう言って呼吸を整えるように大きく深呼吸をした。
「それじゃ、行こうか」
高木を先頭に四人はそのすぐ近くの居酒屋に入った。
話題はやはり高校時代の話が中心になった。高校の頃の友達や先輩の名前が次々と話題に出るたびに里美は懐かしさで胸がいっぱいになった。
「あの頃楽しかったですよね」
里美は高木の顔を見て言った。
「あの頃は後先考えずバカなことも出来たからなぁ」
高木の言葉に横に座っていた八雲が笑った。
「今でもバカなことはやってるんじゃないのか?」
八雲はさっきからずっと右手で銀色のライターをカチカチと弄んでいる。それなのに里美たちに気を使っているのか、タバコは一本も吸おうとしない。
「おまえほどじゃないよ」高木が言い返す。
「八雲さんってフリーライターって言いましたよね。どんなもの書いてるんです?」
「こいつは変な奴でさ」
ゆう子の質問に高木が答える。「霊能者とか催眠術とか、ああいう怪しそうなことにやけに詳しいんだ」
「催眠術? なんか怖い感じしますね」
里美が眉をひそめて言った。
「べつに怖いことなんてないよ。催眠は心のなかにアクセス出来る有効な手段だよ」
「でも、そういうのって慣れてないから」
「そうかな。確かに実際の催眠に触れたことはないけど、似たようなものは世の中のいろんなところにちらばってるんだ。たとえばテレビコマーシャルだって、その一つと言ってもいい。何度も何度もテレビを使って見ている人たちに先入観を植え付けるだろ」
「気をつけたほうがいいよ」
高木がちらりと八雲を見ながら言った。「こいつがライターいじってるときは誰かに催眠をかけようとしてる時だ」
「へえー」
「ライターがこいつの催眠の道具だからな」
「そういえば……正隆さんも催眠って使えるんじゃないの?」
ふと思い出したように里美はゆう子の顔を見た。
「え? そんなの無理よぉ」
ゆう子は小さく首を振った。「あの人がそんなこと出来るわけないでしょ」
「そおなの?」
「昔、ちょっとかじったことがあるって言ってたかもしれないけどね。専門書とかは持ってるみたいだけど、みんなダンボール箱に入って押入れにはいってるわよ」
「……そうだっけ」
「正隆さんって?」
八雲が二人の顔を見比べながら訊いた。
「ゆう子の彼氏ですよ。進学塾を経営してるんです」
里美はからかうようにゆう子を見ながら言った。
「いいわよ、そんな話。せっかく高木先輩と一緒なんだから。今日はあの人のことは忘れていたいの」
ゆう子も笑いながら高木を見る。
「じゃあ、催眠でその人のことを忘れさせてもらったら?」
「そうね。どうせならみんなで高校生の記憶に戻るっていうのも面白いかも……」
ゆう子はそう言うと真剣な表情に変った。「そういえば催眠って忘れてしまった過去とか思い出すこと出来ますよね」
「出来るよ。『退行催眠』を使えば、自分では忘れてしまったと思いこんでいる記憶も思い出すことが出来るよ。忘れてしまった……とはいっても実際には脳は記憶していて何らかの原因で思い出せなくなってるだけだからね。催眠によってそれを解きほぐすことは可能だよ」
八雲が答えた。
「里美、かけてもらったら?」
ゆう子が視線を里美に向ける。
「私?」
「子供の頃のこと思い出せるかもしれないわよ」
「え……でも……」
「なに、早川さん、子供の頃のことって憶えてないの?」
高木が訊いた。
「ええ、あんまり詳しくは憶えてないんです」
「どんなふうに?」
八雲が真剣な目で里美の顔を覗きこんだ。
「まるっきり憶えていないわけじゃないんですよ。ただ……詳しく思い出そうとすると……だめなんです」
急に三人の視線が自分に注がれ、里美は思わず顔をうつむかせた。
「日野さんは早川さんのことはいつから知ってるの?」
八雲はゆう子に質問した。
「里美は高校一年の時に転校してきたんですよ。だから私はそこからしか知らないの」
八雲は再び里美に顔を向けた。
「転校ってどこから?」
「札幌から……高校に入学したばっかの時に祖父が死んで、祖母と一緒に引っ越してきたんです」
「なぜ札幌から引越してきたの?」
「引越しを決めたのは祖母で、理由は私もわからないんす。祖母が生きていたときに一度聞いたことがあったけど答えてくれませんでした」
「中学の頃、何か事故にでもあった?」
「いえ」
「じゃあ、小学校時代の友達の名前って思い出せる?」
まるで治療にあたる主治医のように八雲は訊いた。
「えっと――」
そう言いかけて里美は顔を曇らせた。「いえ……ごめんなさい」
いつも一瞬は思い出せそうな気がするのだが、すぐに頭のなかに霧がかかってしまう。
「先生の名前は?」
「……」
その質問にも答えられず、里美は困ったようにゆっくり首を振る。
「アルバムの写真を見ても思い出せない?」
「それが全然残ってないんです。祖母が処分してしまったのかも……」
八雲は何か考え込むように腕を組んだ。
「どうしてかしら? ウチの親なんて、私の小学校の卒業文集までいつまでも大事に持ってるわよ」
ゆう子が言った。
「そういや俺の家も同じだな」と高木。
すると、ずっと考え込んでいた八雲が小さく呟いた。
「よほど思い出したくない記憶があるか……それとも誰かに記憶をロックされたかな?」
「え? それってどういうことです?」
里美よりも先にゆう子が訊いた。
「さっき言った退行催眠の逆とでも言ったらいいのかな。催眠によって記憶を封じてしまうんだ。一時的に忘れるというのではなく、あるキーワードがなければその記憶は二度と蘇ってこないようにしてしまう」
「そんなことが出来るんですか?」
「これまで何度か高木を使って練習したことがあるんだ」
「面白そうですね」
「実験台にされるんだぞ。面白くなんかないよ」
ゆう子の言葉に高木がぐいとグラスに注がれたビールを煽る。
「お遊びだよ」
八雲は笑いながら言った。「実際に催眠なんてそんな簡単に出来るもんじゃない」
「俺には何回もかけたじゃないか」
「おまえは単純だからな」
「私にかけられますか?」
ゆう子が興味深げに言う。
「さあね」
「出来ないんですか?」
「催眠には『ラポール』という言葉があるんだ」
「ラポール?」
「信頼関係を意味するフランス語だよ。催眠術っていうのはかける側とかかる側の信頼関係で成り立ってる。君と僕との間に強いラポールが築くことが出来れば催眠をかけることも可能だよ」
「じゃあテレビなんかでやってるのは? あんな状態で信頼関係なんてあるんですか?」
「あれは事前にかかりそうな人だけを選ぶんだよ。それに基本的に『催眠術師』という肩書きを持っていると思うことが大きい意味があるんだ。有名な『催眠術師』だと思い込めば相手のやることも信頼出来る。ただのイカサマ師だと思っていれば、簡単に催眠にかかったりはしない」
「そんなものなの?」
「そんなものだよ」と軽い口調で八雲が答える。
「私、もっと怖いものだと思ってました。催眠術一つで人を思いのままに操ったり、秘密にしてることまで簡単に聞きだしたり」
「催眠によって人の行動をある程度左右することは可能だけど、隠しているような秘密を無理に話させるようなことは出来ないんだ。本当にそれをやるためにはじっくり時間をかけて信頼関係を築かないと」
「それじゃ高木先輩は八雲さんを信頼してるってことですか?」
「そうそう――」
「違う。俺は信頼してないぞ」
高木は仏頂面で異議を唱えた。だが、八雲は高木の言葉など無視するように――
「例えばね――」
そう言ってちらりと高木に視線を向ける。「高木、今ビール何杯目だっけ?」
「え? えっと……まだ3杯かな、なんでそんなことを――」
八雲は右手のなかで弄んでいたライターにカチリと火をつけると、高木の目の前に突き出した。
「お、おい、よせよ――」
そう言いつつも、高木はそのライターの火から目を逸らすことが出来ずにじっと見つめた。その高木の耳元で八雲が何かをつぶやいた。それからパチリとライターの火を消し、八雲はじっと高木の顔を見た。
「高木、今ビール何杯目って言ったっけ?」
もう一度さっきと同じ質問を繰り返した。
「だから――」
言いかけて高木の言葉が止まる。「えっと……」
「何杯目?」
「……ああ……」
高木は必死に思い出そうとするように指を折り曲げている。里美とゆう子はその様子を驚いて見つめた。
八雲はさらに続けた。
「なあ、高木。おまえ何歳だっけ?」
「俺? 俺は……」
この質問にも高木の口はまた止まった。高木は困惑した顔で辺りを見回し、唇を軽くかみ締める。
「もういいかな」
八雲は再びライターの火を灯し、高木の目の前に差し出した。「リセット」
高木が目を瞬かせ、何かを振り切ろうとするように首を振る。そんな高木を様子を見つめていた八雲が再び同じ質問をした。
「ビール何杯目?」
「三杯目だ!」
高木の顔がぱっと晴れやかになる。
「すごい……そんな簡単に催眠ってかけられるんですね」
「こいつは単純なんだ。それに高木には大学の頃から何度もこれを繰り返しているから慣れっこになってる」
「まったく、ひどい奴だろう? いつも俺をモルモットにしてやがる」
高木はじろりと八雲を見て言った。
「今は何をしたの?」
「これは『健忘暗示』といってね、数字を思い出せないようにしたんだ。だから数に関する質問には答えられなくなる」
「それじゃ同じようにして記憶を失わせることって簡単なんですか?」
「『記憶をなくす』のではなくて、『思い出せないようにする』ってことだね。その場だけ記憶をロックすることはそれほど難しいことじゃないね。ただ、長い時間、そうすることは難しい。もし、長時間そういう状態が続けば、被験者は精神的に常に不安定な状態に置かれることになる。被験者のためにも暗示は解いてあげる必要があるんだ」
「もし解かれなければ?」
「精神的に不安定な状態に陥って情緒不安定になったり、時には幻覚を見ることもある」
「こいつの腕はプロ並だよ。もし良かったら一度ちゃんと見てもらったらいいんじゃないか?」
高木の言葉に里美は肩を竦めた。他人に自分の記憶を操作されるというのはさすがに抵抗があった。
「さっきも言ったろう。催眠はお互いの信頼関係が一番大切なんだ。医者でもない、ついさっき会ったばかりの人間を心から信頼できるはずないだろう。それに――」
と、八雲とチラリと視線を里美に向けて、さらに言った。「無理に思い出すことが余計つらい結果につながることだってある」




