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チャイム  作者: けせらせら
3/17

チャイム 3

   三


 ガタンガタンと一定の間隔で小さく電車が揺れる。

 そのリズムが身体に心地よい響きを与えていた。

 夜の九時を回り、すでにラッシュ時間を過ぎた電車のなかはさほど混雑をみせてはいない。多くの乗客が一日の仕事が終わって、その顔には疲れたような表情を浮かべている。

 そんな中で、里美も他の乗客と同じように疲れた顔でつり革に捕まり、電車の揺れに身体を合わせながら足を踏ん張っていた。

 身体全体に疲労感があり、極度に眠たかった。これは今日一日の仕事のせいだけではない。昨夜、熟睡出来なかったぶん、身体が眠りを欲している。

 今夜は眠れそうだ、と里美は心の隅で喜んでいた。

 今の自分の姿が他人から見てどう映っているかなど考えもしなかった。ぎゅっと吊革を握り、目を閉じ、いつ崩れ落ちるかわからないほど不安定な態勢にあることも気にならなかった。

 昨夜は一晩中不安に苛まれ、ほとんど眠ることが出来なかった。どれほど身体が眠りを欲しても、心は眠ることを許してくれなかった。闇のなかで毛布にくるまりながら恐怖に脅えて夜を過ごした。その姿はまるで小さな子供と同じだった。

(子供の頃……)

 里美は子供の頃のことをあまり憶えていない。

 かろうじて思い出せるのは中学の頃からで、それよりも前のことになると何も思い出せなくなる。いつの頃からか子供の頃の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。

 思い出そうとしても頭のなかに濃い霧がかかってしまう。そして、なぜか白いのっぺりとした仮面が頭のなかに描き出され、それはまた別の意味で不気味な感触があった。

 だが、今夜はきっとグッスリと眠れるはずだ。

 里美は全身の力を右手に集め、心地好い睡魔の訪れに耐えながら、吊革を握り締めなければならなかった。今夜ぐっすりと眠れることを思えば、睡魔に耐えることなど苦にはならなかった。むしろ、無理に眠気を取り去ることによってこの睡魔がそのまま遠ざかっていってしまうことが怖かった。

 しかし、耐えることにも限界があった。

 電車がブレーキをかけるのと里美の眠りが最高潮に達するのとがほぼ同時にやってきたため、里美の身体はついにバランスを崩して床に投げ出されそうになった。

 つり革が手のなかからつるりと滑って飛び出していく。

 一瞬、硬く汚れた床に叩きつけられる自分の姿が頭にイメージされた。だが、そのイメージに反して次の瞬間、里美が感じたのは柔らかな腕の温もりだった。

 里美の身体はがっしりとした腕に抱き抱えられていた。

 さっきまで感じていた眠気が一気に吹き飛ばされていく。里美はほんの少し残念な気持ちを持ちながら、そのがっしりとした腕の主を見つめた。

「大丈夫?」

 薄いベージュのスーツを着た一人の長身の若者が、里美の身体を支えながらにこやかに微笑んでいる。その健康的に日焼けした笑顔に、里美は急に今の自分の態勢に恥ずかしくなった。里美は即座に態勢を整えると真っ赤になって頭をさげた。

「す……すいませんでした」

「いいえ、どういたしまして。それにしてもずいぶんと眠そうですね」

 若者は爽やかに笑いながら言った。

「は、はあ……」

 睡魔はすっかり消えさり、その替わりに羞恥心が心のなかを渦巻いている。早く電車が駅に着いてくれることを願った。

「昨夜は眠れなかったのかな?」

「え、ええ……」

 里美はなんと答えていいのかわからなかった。ただ、その男がずっとそばにいてそれまでの里美の姿を見ていたのだと思うと無性に恥ずかしかった。

 男はにこやかに里美を見ていたが、やがてふと驚いたように里美の顔を覗き込んだ。

「あれ?」

 その驚いたような男の声に里美もびくりとして顔をあげて男の顔を見た。「ひょっとして早川さん?」

「え?」

 自分の名前を知っているその男を里美は改めてまじまじと見つめた。その若者の顔は確かに見覚えがある。

「早川……里美ちゃんでしょ」

 男が自分の名前を言った瞬間、里美の脳裏にもかつての記憶が蘇ってくる。

「あ……高木先輩ですか?」

 高校時代の思い出が一瞬にして頭のなかに広がっていく。里美が高校に転校した時、二つ年上だった高木博明の懐かしい姿がそこにあった。

「懐かしいなあ。久しぶりだね」

「はい!」

 まるで自分自身、高校生に戻ったかのような気分で里美は答えた。すでに睡魔は完全に遥か遠くへ消え去っていた。

「元気そうじゃないか」

 高木は相変わらずにこやかに爽やかな笑顔を振りまきながら言った。あの頃とちっとも変わっていない。陸上部のキャプテンとして女生徒たちの憧れの的だったあの頃と。

「先輩も」

 里美にとっても高木はアイドル的な存在に違いなかった。一度は高木に憧れて陸上部に入部しようとしたこともあったが、自他ともに認める運動音痴が災いして結局選手として高木と一緒に走るという目標は諦めることになった。しかし、それがかえって幸いしたのか陸上部のマネージャーになることが出来、ある程度高木とも親しい間柄になれたのだった。

 高木が卒業し、都内の大学に入学したことまでは聞いていたが、その後のことはまったく知らなかった

「君とこんなところで会うとは思ってもみなかったよ。何年ぶりかな……」

「先輩が卒業して以来だから……5年ぶりですね」

「そっかぁ、懐かしいなぁ。それにしてもずいぶん眠そうだったね。仕事、忙しいの?」

 高木の言葉に、里美はなおさらさっきまでの自分を思い出して恥ずかしくなった。

「すいません。昨夜、ちょっと眠れなかったものだから」

「ふぅん、高校の頃はいつでも健康的な顔をしていたような覚えがあるけどね」

「ひどぉい!」

 里美はまわりの乗客のことなど忘れて声をたてて笑った。

 里美にとっては久しぶりの楽しい時間のように思えた。


   *   *   *


 濡れた髪をドライヤーで乾かしながら、里美は高木のことを思い出していた。

――あとで連絡するよ

 別れ際の高木の声が耳について離れなかった。高校の頃の高木と自分の距離が、今日出会ったことによって一気に縮まったような気がしていた。

 高木の住むマンションはまったく逆の路線だったが、今夜は友人の家に遊びに行くため、偶然に里美と同じ電車に乗りあわせたらしい。

 高木とは携帯電話の番号を交換して別れた。

 まだ心臓が高鳴っている気がする。ずっと昔に終わったはずの青春時代の恋が、再び心をときめかせている。しかも、あの頃よりも現実に近い形で。

 里美はまだ半分濡れた髪をそっととかしながらぼんやりと鏡を覗いた。パジャマ姿の里美の姿が鏡に写し出されている。

(もっとゆう子みたいに美人ならなぁ)

 と、いつも思う。

 ゆう子は「里美みたいにかわいらしい顔が良かった」などと言ってくれるが、里美には顎のラインがすっきりとしたゆう子のような美人顔が羨ましかった。

 身体がやけにほてっているような気がした。シャワーを浴びたからではなく、身体の芯から湧き上がってくる感じがする。

(私、まだ先輩のことを好きなのかな)

 ふと、そんなことを思って可笑しくなる。

 もちろん、それは「恋」というよりも「憧れ」という意味のほうが強いのかもしれない。これまでは男性に対してある種の恐怖を抱いていたと言ってもおかしくはない。だが、高木に対してだけはそんな気持ちは全然持たなかった。

(ゆう子にも教えてあげよう)

 と、里美は思った。

 ゆう子はテニス部だったが、ゆう子も里美と同じように高木に憧れていたはずだ。バレンタインのチョコレートを二人で作って高木の家まで持っていき、結局、渡すことが出来ずに逃げ帰ったこともある。今は正隆という彼氏がいるとしても、ゆう子にとっても良い思い出であることは間違いないだろう。

 里美はバッグの中から携帯電話を取り出した。

 その時、突然部屋の明かりが消えた。

(停電?)

 びくりと身体を震わせ、里美は部屋のなかを見回した。人工的に造られた光り全てが闇に溶けこんでいる。うっすらと月の光が部屋に差しこんでいるだけに過ぎない。それまで部屋を満たしていたステレオから流れていた音楽もピタリと止まり、国道を走る車の音がやけに大きく部屋に響いてくる。

 里美は動くことも出来ずジッと光が戻るのを待った。

 しだいに心臓の鼓動が早くなっていく。

 カーテンの隙間から月の光がさし込み、ワードローブの扉につけられた全身鏡に映った自分の姿が他人に思える。青白い肌を持った自分のまったく知らない女性。なぜそんなふうに見えるのか、それは自分にもわからなかった。だが、確かにそこに映っているのは自分ではない。

「誰?」

 知らず知らずのうちに言葉が漏れた。その里美の言葉に鏡の奥で女が笑ったように思えた。そして、次の瞬間、頭のなかで声が響いた。

――何を求めているの?

「……え?」

――思い出して……記憶の底にあるあなたの全てを……私のことを思い出して……

 闇の向こう側に、鏡の奥に里美の知らない女がいる。いつの間にか身体のほてりはすっかりと消え去り、まるで冷たい北風を浴びたかのように震えが襲っていた。

(カスミ……)

 心のなかにその名前が蘇る。

 またあの名前だ。

 事故の現場にいた自分に良く似たあの女性。

(私は彼女を知ってる?)

「誰? いったい誰なの?」

 問いかけは虚しく暗闇のなかに響いた。その自分の声がまたなおさら里美の心をこわばらせた。自らの声がまるで他人のもののように聞こえる。

 誰の声?

 だが、それが自分の声でしかないことはわかりきっている。この部屋には里美一人しかいない。他の誰もこの部屋にはいるはずがない。

 自分自身に言い聞かせる。

 そうだ、自分一人しかいない。

(物理的には)

 物理的?

 何を考えているのだろう。

 いくつもの考え、思いが里美の頭のなかを駆け巡っていた。何かを思い出しそうな気がしていた。

――そう、思い出して。

 「目」がささやきかける。魚眼レンズの向こう側から里美を覗くあの「目」。死人のように瞳孔の開いたようなあの気味の悪いあの「目」。

 あの「目」の奥に里美の知らない里美の姿が見えるような思いがした。

「何よ……なんなのよ!」

 闇に押しつぶされるような思いをおしのけながら悲鳴に似た声が里美の口からほとばしった。

 その瞬間、里美の声に弾き飛ばされるように暗闇もあの気配も消え去った。それと同時に携帯電話が鳴り出した。まるで、電話が鳴ったことで明かりがついたかのようなタイミングだった。

(まさか……)

 心臓がまだ高鳴っている。

 携帯のディスプレイを見ると、ゆう子からだった。

 ホッと息をついてから電話を取った。

「はい――」

――何してたの?

 ゆう子の明るい声が耳に飛び込んでくる。

「う……うん、別に……」

――何かあった?

 里美の声の震えに気づいてゆう子が訊いた。

「ううん……なんでもない」

 里美は無理に声をはってみせた。いつまでも得体のしれない不安を気にしていても仕方がない、とすぐに話題を切り替える。

「今日ね、高木先輩に会ったんだよ」

――え――! 高木先輩?! なんで? なんで?

 ゆう子の声が一変した。高校の頃を話す時、里美もゆう子も、その時だけは高校生に戻れるような気がする。

「偶然なの。電車のなかでちょっとぶつかってね。そしたらそれがなんと高木先輩だったの」

 さすがに居眠りしていて転びそうになったところを助けられたとは、恥ずかしくて言えなかった。

――先輩どうだった? 変わってた?

「カッコ良かったよぉ」

――いいなぁ。私も会いたいよ。先輩、どこにいるって言ってた?

 ゆう子も声が弾んでいる。

「川口だって。私も先輩の近くに引っ越そうかなぁ」

――いいかもよ。そしたら私、毎日遊びに行ってあげるよ

 ゆう子は笑った。

「今度、一緒に飲みに行こうって、約束しちゃった」

――ずるいよぉ、里美ばっかり。

「大丈夫、その時にはちゃんとゆう子のことも誘うから」

――ホント? 必ずだよ。早く高木先輩に会いたいなぁ。

「うん。でも、そんなこと言っていいのぉ? 正隆さんに悪いんじゃないの? 今、いるの?」

――ううん。何か友達と約束があるって、さっき出かけてったの

「なぁんだ。じゃあ寂しくなって電話してきたのね」

――やだ、そんなんじゃないわよ。

 ゆう子は少し照れたように言った。

 ゆう子がどれほど正隆のことを必要にしているかは、里美にもよくわかっている。ゆう子がノイローゼになった時、里美にはどうしてあげることも出来なかった。そんなゆう子を助けてくれたのが正隆なのだ。里美にとっても正隆は信頼出来る相手だった。

 ゆう子と30分ほど話をした後、里美は電話を切った。

 すでに時刻は午後11時を過ぎている。

(そろそろ寝ようかな)

 そう思った時、玄関のチャイムが鳴った。

 その音にハッとして振り返る。

 ふと、昨夜のことを思い出して里美は不安にかられた。また、あの目が覗いているのかもしれない。そう思うとすぐには立ち上がれずに、里美はドアのほうをジッと見つめた。

 すると再びチャイムが鳴った。

 里美は立ち上がると恐る恐るドアのほうへと近づいていった。そっとレンズを覗く。だが、そこには闇が広がっている。

(なぜ?)

 それでも、誰かがドアの向こうにいる。それだけは感じられる。

「誰ですか?」

 勇気を出して、ドア越しに声をかける。

「……」

 ドアの向こうから何かボソリと低い声が聞こえた。はっきりとは聞き取ることの出来ない小さな声。

 その瞬間、里美の頭の中に衝撃が走った。

(何……?)

 心のなかで大きなチャイムが鳴り響く。

 まるで自分の体を、自分の意識で制御することが出来ない。里美の手が無意識のうちにすぅっとドアのほうへ伸びた。

 里美がぼんやりとした意識で鍵を外すと、ゆっくりとドアが開き何者かが部屋のなかへスルリと入り込んできた。そして、手を伸ばすと迷うことなく里美の体を抱きしめた。

(誰なの?)

 それが誰なのか里美にはわからなかった。いや、顔を知っているような気もする。それなのにまったく思い出すことが出来ない。

 体の全てが麻痺してしまっているような感覚が里美を包んでいる。

 抵抗したくてもなぜか体に力が入らない。

『カスミ』……そう相手が小さく呟いた気がした。

 里美は抵抗することも出来ず、ただ身を任せるしかなかった。


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