エピローグ
エピローグ
日曜の『田宮サイコクリニック』の催眠室のなか、八雲と里美の姿があった。
あれから一週間、里美もやっと退院許可がおり、昨日、退院したばかりだった。
薄暗い中、メトロノームの音と八雲の静かな声が聞こえている。
「さあ、目を開けて」
メトロノームを止めると、八雲は静かな口調で里美に話し掛けた。その声に里美がゆっくりと瞼を上げ、その清々しい目で八雲を見つめた。
「おはよ……八雲ちゃん」
そこにいるのは里美ではない。あどけない表情をした『繭美』だった。
「おはよう」
その表情を見て、八雲は顔をほころばせた。
八雲は立ち上がると、さっと遮光カーテンを開けた。繭美は窓から射し込むその光の眩しさに顔をしかめた。
「眩しい」
「今までずっと暗いところで眠っていたんだ。これからは光のなかで生きていけるよ」
そう言って八雲は再び繭美の隣に座った。
「ぜんぶ……終わったんだね……長かった」
「うん。長かったね」
「やっとあいつに復讐してくれたね」
「君を傷つけた奴だからね」
八雲の言葉に、繭美はクスリと笑った。
「あの夜、私のところに来たあいつの目を見て、私すぐにわかったよ。八雲ちゃんがあいつに催眠をかけたんだって。そうなんでしょ?」
八雲は黙って肯いた。
「やっぱりね」
繭美は満足そうに笑った。
「あいつに全てを被ってもらうのが一番良かったんだ。気にしなくてもいい。因果応報。あいつはそれだけの罪を犯した」
あの夜――
正隆にライターを差し出した時、八雲は正隆に一瞬のうちに催眠状態に陥れ、暗示をかけていた。それは決して難しいことではなかった。
正隆は八雲が狙ったとおりに動いてくれた。
「どうしてあいつが高文だってことがわかったの?」
「君を見舞った夜、奴は言ったんだ。君が多重人格障害だってね。あの時点でそれを知ってるのは僕と田宮さん、そしてあの刑事だけだ。君の友達のゆう子さんだってそれは知らなかったことだ。それなのに、あいつはカスミの存在まで知っていた。僕たち以外にそれを知っているのはカスミが現れた原因を作った奴だけだ」
「ありがとう」
繭美は八雲の手をぎゅっと握り締めた。「これからどうするの?」
「さあ……どうするかな?」
「私を里美と一つにする?」
からかうような目で繭美は八雲を見た。
「君は繭美なのに?」
「あなたのお父さんがやったのよ。裕二を殺した私のほうを封じ込めて里美の人格を残すなんて」
「そうだったね」
そう答えながら、八雲は父のことを思い出していた。
八雲の父、中西恭一は有名な精神科医だった。
恭一は水上村の出身で、もともと内科医でもあった恭一は医者のいなかった村のために、家族を東京に残したまま一人村に戻ったのだ。八雲が五歳の時のことだ。それ以来、八雲は父と離れて暮らすようになった。
初めて、八雲が繭美に会ったのは10歳の時だ。恭一が水上村に引越してからた3年後、母に連れられて初めて恭一を訪ねた時、そこで八雲は繭美と出会った。
繭美は当時8歳。その4年前に里美を病気で失っていた。その頃、繭美の心のなかには、すでに『里美』という人格が存在していた。善一郎が繭美のことを『里美』として育てていたためだ。そんな繭美を父の恭一は心配し、少しずつ繭美の治療を進めていたのだ。
一目で八雲は繭美に心をひかれた。幼いながらも繭美には、他の女の子とは違う美しさがあった。
初恋だった。
それから、八雲は学校が休みになるたびに恭一のところに遊びに行くようになっていた。そして、繭美とともに時間を過ごした。
その年の夏、事件は起こった。
事件の時も、八雲は夏休みを利用して村を訪れていた。
あの日の夕方、善一郎は恭一のところに助けを求めて飛び込んできた。
――先生! 里美を助けてくれ!
善一郎は恭一に、庭で遊んでいた『里美』が何者かに連れ去られたことを話した。恭一は村の人たちを集め、すぐに『里美』の捜索を始めた。
八雲も捜索隊とは別に繭美を追って山のなかへと分け入って行った。
繭美が見つかったのは、翌日の明け方近くになってからだった。山の洞窟でボンヤリと一人でいるところを捜索隊によって見つけられたのだ。だが、発見されたのはそれだけではなかった。洞窟のなかには頭を石で潰された加賀裕二の遺体も転がっていた。
血に染まった繭美の小さな手。
繭美は村の人が「里美ちゃん」との呼びかけに首を横に振り、自分が繭美であると答えた。そこで村の人たちは繭美が里美を助けるために裕二を殺したものと思い込んだ。村の人たちの話を聞き、恭一もすぐに里美が自力で戻ってきたと嘘をついた。
平和な村で起こった殺人事件。村の人たちは協議のうえ、全てを隠し事件として扱わないことと決めた。
恭一は事件の記憶を持つ繭美の人格を催眠で眠らせ、彼女のなかに存在していた『里美』としての人格を表に出して人生を歩ませることに決めた。そして、善一郎たちを村から遠ざけた。八雲にさえも繭美たちの行先は教えてくれなかった。
あの事件の夜、村に鳴り響いたパトカーや救急車のサイレンの音。
おそらく『里美』が救急車のサイレンの音に脅えるようになったのは、潜在意識のなかにある繭美の記憶を持っているからだろう。
――いつか会わせてやる。
繭美の場所を聞こうとする八雲に対して恭一はそう言って、決して教えてはくれなかった。
いずれ時期を見て恭一は繭美の人格を目覚めさせるつもりだったのだろう。だが、その約束は果たされなかった。
その一年後、恭一の家に強盗が入り恭一は殺された。犯人が奪っていったもの、それは恭一の日記だった。
それが野中高文の犯行であることを八雲はすぐに勘付いた。
実は繭美が連れ去られた時、彼女を真っ先に見つけたのは捜索隊ではなく八雲だったからだ。以前から山中にある洞窟を裕二たちが根城にしていることを知っていた八雲は、繭美がいなくなったと聞き、すぐに山のなかへと飛び込んでいった。そこで八雲は繭美を攫い、乱暴しようとしていた加賀裕二と野中高文を見つけたのだ。八雲は迷うことなく繭美を助けるために二人に襲い掛かった。当時、わずか10歳の八雲ではあったが、明らかな殺意を持ったその行動に高校生である裕二たちも不意を突かれることとなった。そして、八雲は繭美と共に裕二を殺した。高文は深手を負いながらも逃げていった。その後、野中高文の姿を村で見ることはなかった。どこか山中で死んだかもしれないとも考えていたが、高文は生きて再び繭美を連れ去るチャンスを狙っていたのだろう。
恭一の日記のなかに、繭美の居場所と彼女を目覚めさせるキーワードが書かれていることを八雲は知っていた。きっと高文も恭一のもとで働いていた看護婦の磯辺秋子を脅して、そのことを知ったのだろう。
父の死後、八雲は母の姓を名乗った。そして、八雲は父の残した資料を元に独学で『催眠』を学んだ。天才と言われた父の血を継いだ八雲にとって、催眠の勉強はさほど難しいものではなかった。
催眠の勉強を続ける一方で、八雲は高文と繭美を捜し続けた。だが、高文の行方はなかなか見つけられなかった。だが、必ず繭美の傍に存在しているはずだと八雲は予想し、繭美を捜しだすことに全力を注いだ。そして、ついに八雲は札幌で繭美の手掛かりを見つけた。その時、八雲は繭美について一つの噂を耳にしていた。それは繭美のなかに、突然、もう一つの人格が目覚めたということだった。繭美のなかに生まれたもう一つの存在。なぜ、そんなことになったのかを八雲は考えた。答えは高文の存在意外になかった。
高文も執拗に繭美を狙って追いかけ続けていた。そして、高文は中学生になった『里美』を見つけると注意深く近づいた。その頃には善一郎はすでに亡くなっており、繭美は『里美』として祖母の孝子と二人で暮らしていた。高文は注意深く二人に近づき、すぐにキーワードを使って繭美を目覚めさせた。だが、目覚めた繭美は高文を受け入れようとはしなかった。
その時、繭美が自分を守るために作り出した人格、それが『カスミ』だった。
カスミという人格が現れたことで、『里美』の記憶はますます混乱していった。
ある日、カスミの人格が偶然現れたことで孝子は驚き、まるで逃げるかのように繭美を転校させた。それでも高文はなおも繭美を追い続けた。そして、またも高校を卒業したばかりの繭美を見つけると、今度はゆう子の恋人として近づいたのだ。
一方、繭美のことを見つけた八雲は、興信所に依頼し繭美の身辺をずっと探っていた。『里美』として暮らす繭美のアパートに時折、男が訪ねてくるという情報も得ていたが、それが何者なのかは特定することが出来ずにいた。
「あなたのお父さんのお陰でずいぶんひどい目にあったわ」
繭美は笑いながら言った。
「父さんだってこんなことになるとは思ってなかったんだ」
「そうね。私のせいであなたのお父さんは死んじゃったのよね。良い先生だったのに」
繭美の顔から笑みが消え、少し寂しそうに呟いた。
「君のせいなんかじゃない」
そう言って八雲はそっと繭美の髪を撫でた。
「ねえ、どうして私が『繭美』だってことを皆に言わなかったの?」
「彼らの頭のなかでは君は『里美』なんだ。それに君が『繭美』であるということになれば君は13年前、自らの意思で加賀裕二を殺したことになってしまう。たとえあのことで法的に罪に問われることはないとしても、君にとってプラスにはならない。今は『里美』でいたほうが良いと思ってね」
「それじゃ私はこれからも『里美』で通さなきゃいけないの?」
「名前なんて関係ない。僕にとって君が『繭美』であれば良いんだ」
繭美は小さく微笑んだ。
「私のことを守ってくれる?」
「当然さ。もう二度と君を危険な目に逢わせたりしない。僕がずっと君の傍にいる」
「大丈夫よ。私が愛してるのは八雲ちゃんだけ。高文に私の気持ちを操ることなんて出来なかったわ」
「わかってるよ。あいつは君を本気で愛していた。だからこそ君を連れ去った。でも、それでもあいつが君を自分のものにしようとしたことは間違いない事実だ。そんなことは僕が許さない。これからだって君に何かしようって奴が現れたら僕が殺してやる」
「小松英彦の時みたいに?」
「そうだよ」
八雲はフッと小さく笑った。
里美の部屋に仕掛けた盗聴器によって、あの日、八雲は里美が英彦と会うことも知っていた。そこで八雲はそっと里美の後をつけることにした。里美が英彦に連れ去られた後、八雲は二人を追って英彦のアパートに向かった。そして、英彦に襲われている里美を見つけ、八雲は背後から近づき英彦を絞め殺したのだ。
「でも、皆に高文がやったことだって言ったのは八雲ちゃんよ」
「僕があいつを殺ったなんて言えるはずがないからね。小柳美幸のことも含めて、全て高文に被ってもらうのが一番良い」
繭美の言葉に八雲は笑った。
小柳美幸の時も英彦の時と同じだった。里美から連絡を受けた八雲は、美幸の車に乗せられて行く里美を見つけすぐに後を追った。そして、里美が美幸の車を飛び出して逃げ去った後、一人でいる美幸を見つけ殺害したのだ。
「怖い人」
「君を助けるためなら何でもするさ。あいつらは君を傷つけようとした。決して許されることじゃない」
「どうして高木さんを刺したの? 高木さんは私を傷つけたりしなかったわ」
「僕が刺したんじゃない。あいつが自分で刺しただけだよ」
「それは八雲ちゃんが操ったからでしょ? なぜ? 高文に罪を被せるため……だとしたら、高木さんにそう証言させればよかったのに」
「あの時にはまだあいつに警察の目が向かせるわけにはいかなかったんだ。そんなことをすれば、事件の時のアリバイが立証されかねない。ただ、あの時は高木の詳言によって君への容疑を避けようと思ったんだ」
「酷いわね。友達のことまで利用するなんて」
「そうだな。でも、僕は君をこの手に取り戻すことで必死だったんだ」
「ひょっとして私が高木さんと再会したのも八雲ちゃんの計画のうち?」
「まあね。でも、実際に君とあいつが顔を合わせるまで一ヶ月もかかったよ」
「それならどうしてもっと早く私の前に姿を現してくれなかったの?」
「父さんが君にかけたキーワードを知っているのは高文だけだ。高文からそれを聞き出さなきゃ完全に君を蘇らせることが出来ない。それまでは僕も君に正体を明かすわけにいかなかったんだ。それにあいつは君の過去のことを知っている。奴を逃すわけにはいかなかった。ところが、あいつはなかなか尻尾を出そうとしない。だから高木を利用として君に近づこうと計画していたんだ」
「小松君のことは?」
「あれは予定外のハプニングだ。あいつが余計なことをしなければ殺さずに済んだんだ。自業自得さ」
「もっと早く会いたかったわ」
拗ねるように繭美は言った。
「無理だよ。突然、僕が現れても君は僕を思い出せなかった。僕を知ってるのは君だけだ。『里美』は僕のことを知らないからね。君は『里美』の記憶を共有出来ても、『里美』は君の記憶を共有出来ない。事実、一度、僕は君に電話したことがあったけど、君は僕の声を憶えてはいなかった」
「電話?」
八雲の言葉に、繭美は以前、変な電話があったことを思い出す。「電話なんかじゃ無理だわ」
「いや、本来の君なら、僕の声をすぐに思い出したはずだよ。あの電話で僕は、君の心のチャイムを鳴らすためにはどうしてもキーワードが必要だってことを実感したんだ」
「八雲ちゃんはどうしてあの人を利用したの?」
「あの人?」
「ここの先生よ」
「ああ……田宮さんのことか」
「八雲ちゃんなら、あの人の力を借りる必要なんてなかったじゃないの」
「でも、彼がいたからこそ警察は納得したんだよ。警察というのは権威に弱い。本まで出版し、催眠治療にも詳しい彼がいたからこそ警察は僕の言葉を信じたんだ」
「やっと終わったんだね……私たちの復讐は」
「うん」
繭美はゆっくりとした動作でリクライニングチェアーから降りた。思わずよろけそうになるその身体を八雲が支えた。
繭美はちらりと八雲の顔を見上げ――
「ずっと私のことを捜してくれてたのね」
「『君を守る』って約束したろ?」
「あんな子供の頃の約束、まだ憶えてるなんてね」
そう言いながらも、繭美は嬉しそうにニコリと微笑んだ。
「君だって憶えていたんだろ? だからこそあいつから逃れようとした時、カスミという人格を作り出したんだ」
「どういうこと?」
「憶えてないのかい? 君は昔、僕の名前の『真澄』というのを『カスミ』と間違って呼んでいたんだよ」
「そうだったの?」
繭美は驚いたように八雲の顔を見つめた。
「僕はあの約束を胸に生きてきた。君を見つけるために必死だった」
「ゆう子はかわいそうだったわね……」
繭美がほんの少し顔を曇らせた。「なんとかならないのかな?」
「きっと高木が慰めるよ」
その言葉の意味に気づき、繭美は口元をほころばせた。
「里美はどうなるの?」
「君のなかで眠るだけさ」
「たまには表に出してあげないとかわいそうよ」
「そうだね」
「これからも私を守ってくれる?」
八雲はその問いかけに答えるように、その身体を抱きしめた。
了




