チャイム 12
十二
一片の雲のない青空が広がっている。
その青空をカーテンで覆い隠し、部屋は薄暗さを保っている。
そのなかで八雲は再び里美に『催眠治療』を施していた。
病室ではその様子を田宮とゆう子、そして河西がじっと息を潜めて見つめている。
落ち着いた静かな声で、八雲が里美の耳元にそっと語りかける。
「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう」
その声を合図に里美の目が開いた。
「や……八雲ちゃん……」
あどけない幼い子供のような声に見ている者たちはハッと息を呑んだ。
「繭美ちゃんだね」
「うん……」
「八雲ちゃんなの?」
里美の目が大きく見開いて八雲の顔を愛しそうに見た。それは『里美』とも『カスミ』とも違う人格に違いなかった。
「ああ……そうだよ。久しぶりだね」
「うん……なんか八雲ちゃん大きくなった……」
里美があどけなく笑っている。
その二人のやりとりに誰も何も言えないまま、じっと見守るしかなかった。
「君も大きくなった。ずっと捜してたよ」
「やっと見つけだしてくれたね」
「ああ……前に約束したからね。君がどこへ行っても僕が守るって」
「ありがと」
「ほら、見てごらん。君のことを心配して皆集まってきてるんだよ」
八雲の言葉に里美は周りを見回した。
「この人たち……知ってるよ。里美のお友達だよね」
ゆう子を指差しながら言った。
「そうだよ。みんな君のことを守ってくれたんだ」
その言葉に里美は身体を起こして小さく頭を下げた。
「みんな……ありがとう」
「繭美ちゃん……」
「なぁに?」
「僕は君を助けるためにずっと捜してきた。そして、これからもずっと君を守る。だから君はこれから君のなかにいる『里美』と『カスミ』、その二人に近づかなきゃいけない。わかるね?」
「うん……少しずつでいい?」
「いいよ。ゆっくりやっていこう」
八雲は繭美の目を覆い隠すように手をあてた。「さあ、目を閉じて。身体をゆっくり倒して」
八雲に言われるままに素直に里美が身体をベッドに倒して瞼を閉じる。
「これから一度また君は眠るんだ。そして、僕が三つ数えたら『里美』といれかわる。いいね……3……2……1」
パンと里美の顔の前で手を叩く。
「う……」
里美はゆっくりと目を開けた。
「里美さん?」
「はい……」
「気分は?」
「……良いです」
その表情は明らかにさっき話しをしていた『繭美』とは違っている。
「それじゃ、催眠から目覚めたばかりなので、しばらくはそのままでいてください」
そう言って八雲は視線を河西に向けた。
「これが『催眠』です」
「う……」
河西はその光景に言葉に詰まった。「とりあえず、早川里美のなかに別の人格があることはわかった……だが、いったい今回の事件はなんだったんだ? 斎藤正隆は昨夜、この病院の屋上から飛び降りて死んだ。あいつは何者だったんだ?」
河西の言葉に思わずゆう子はうつむいた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。八雲はチラリとゆう子を見て、それから里美に視線を移した。
「全てお話します。里美さんにもちゃんと聞いて欲しい」
「はい……」
里美はベッドに横たわったまま八雲の顔を見上げて答えた。八雲はそっと里美の手に自分の手を重ねると、河西へ顔を向け話し始めた。
「21年前、青森で生まれた双子の少女。その後、彼女たちは事故で両親を事故で亡くし、長野に住む祖父母に引き取られました。彼女たちが3歳の時のことです」
「うむ、それは我々も調べた」
八雲の言葉に河西が小さく頷く。
「ですが、それから一年後、病弱だった姉の繭美は死を迎えたんです」
「なに? 繭美は死んでるのか?」
「そうです。だが、二人を溺愛していた祖父母は繭美の死を受け入れようとはしませんでした。祖父の善一郎は痴呆が進んでいたこともあり、彼は里美を『繭美』として育てはじめたんです。そのために彼女は、『里美』と『繭美』の二人を演じることになりました。それが彼女の多重人格障害への第一歩です」
「だが13年前の事件では、繭美が加賀裕二を殺したと……」
「それも一つの暗示ですよ。繭美はおてんばで向こう気が強く、里美は大人しい。もともと一卵性の双子です。善一郎夫婦がそう周囲の人に話すことで村の人たちは皆、繭美の存在を疑わなかった。だから、加賀裕二に連れ去られた里美が、途中、『繭美』の人格に変わり加賀裕二を殺してしまった時も、里美と繭美が一人である、などとは誰も思わなかったんです。ただ、事件をきっかけに里美は繭美を演じることはなくなりました」
「繭美を親戚に預けると善一郎が言ったからか……」
田宮が言った。
「そう。彼女は事件の直後、誰にも行く先を告げずに長野を後にする。」
「それがなぜまた多重人格障害に?」
「一人の男が彼女の後を追ったからです。その男は中学生になった里美を見つけ、彼女のなかに今度はカスミという人格を作り出したのです」
「それは――」
「斎藤正隆ですよ」
「奴はなぜそんなことを?」
「おそらく13年前の事件への復讐でしょう」
八雲は言った。
「復讐?」
「あの男は13年前の事件で殺された加賀裕二の一歳年下の弟です。野中高文……それがあの男の本当の名前です」
「そんな……加賀裕二に兄弟はいないはずだ」
河西が手帳をめくりながら言った。
「腹違いの弟ですよ」
「腹違い?」
「加賀裕二の父親、加賀忠は村ではかなり力のある村会議員でした。そして、忠には妾が一人いたんです。それが斎藤正隆の母親です。あの事件の直後、それまでもあまり評判の良くなかった加賀忠は事件の責任を取る形で議員を辞職しています。おそらく正隆にとってはその全てが里美さんのせいだと感じたのでしょう。事件後、正隆は誰にも行き先を告げぬまま村を出ています。正隆は村を出た里美さんを追いかけたんです」
「何のために?」
「里美さんに殺人を犯させるためです。殺人を犯させ彼女を法の下で裁く、それが奴の目的です。奴がかけた暗示のために里美さんの精神状態はずっと不安定になっていた。ゆう子さんから聞いた話では、同窓会に行った帰りに事故を目撃したそうです。おそらくそれが一つのきっかけになって、カスミが目を覚ましたんでしょう。催眠による暗示をかけた時、何か一つのきっかけがキーになって、その暗示が目を覚まします。言わば心のなかにある『チャイム』のようなものです」
「それじゃ催眠で殺人を?」
「いえ、それは無理です。前にも言いましたが、催眠とは絶対的に相手を従わせるようなものではありません。催眠で殺人をお命令することはほぼ不可能です。奴がやったのは殺人をしたと彼女に思わせることです。そして、その瞬間の記憶はカスミを利用して失わせる。そうすれば、里美さんは自分が殺人を犯したと思いこみます」
「だが……カスミが言っていたことはどうなるんだ? カスミは繭美を見たと言っていたじゃないか?」
田宮は思い出すように言った。
「すいません……田宮さん。あれは僕がカスミにかけた暗示です。僕は田宮さんのところへ彼女を連れて行く途中、事前にカスミを呼び出し、彼女に暗示をかけたんです」
「それじゃ――」
「はじめてカスミを呼び出した時、彼女は自分が殺したと思い込んでいました。もちろん、それは正隆に受け付けられた暗示のためにそう思いこんだだけです。実際に小松英彦と小柳美幸を殺したのはおそらく奴でしょう。そして、高木を刺したのも。奴にとっては相手は誰でも良かったんです。おそらくずっとチャンスを伺っていたんでしょう」
「――ちょっと待ってくれ」
河西が頭を押さえながら言った。「それじゃ堂本が見たのは? あいつは繭美に襲われて里美さんを奪われたと言っていたぞ」
「それについても謝らないといけませんね」
「?」
「僕が彼に暗示をかけたんです。車のエンジンをチャイムに使って、彼に繭美という幻覚を見せました」
「いつ?」
「あなたが田宮さんと催眠室に入ったとき。僕と堂本さんは二人っきりでしたから。何かあったときは僕のマンションに逃げるように、里美さんに暗示をかけてありました。そして、堂本さんが車のエンジンをかけた瞬間、彼は繭美という幻覚を見て襲われたと思い込み、その隙に彼女は車を奪い逃げたんです」
「そのためにあの時私を呼び止めたのか……あんな短時間でそんなことを……それよりも、何のために……?」
「カスミという人格を封印する時間が欲しかったんです。カスミという人格はもともと斎藤正隆から彼女が自分を守ろうとして作り出してしまった人格です。そして、その人格がある限り彼女は救われない。里美さんが警察に捕らわれてしまっては、カスミという人格を消し去れなくなる。だから僕はカスミに暗示をかけ、繭美が生きているかのようにみなさんを騙しました」
「それじゃ行方不明になっていた四日間は――」
「僕が彼女を匿っていました。僕は彼女に催眠をかけ、カスミという人格消し去りました」
「八雲君……君はいったい何者なんだ?」
八雲に向かい田宮は訊いた。
「僕の父は一人、東京を離れて村で医者をやっていました。僕は時々遊びに行ってたんです。僕は繭美と知り合い親しくなりました。初めは僕も里美と繭美は別の存在だと思ってましたけどね。ある時、繭美が僕に教えてくれたんです。里美は一つの記憶しか持っていませんでしたが、繭美は里美の記憶も共有することが出来たんです。あの事件以来、僕も彼女のことをずっと追っていました。子供の頃に一緒に遊んだ繭美の姿を追い求めてずっと捜してきたんです」
「君はいつ里美さんを見つけ出したんだ?」
「半年ほど前です」
「半年前?」
「ええ……ただ、その時にはすでに彼女のなかの『繭美』にはロックがかけられてしまっていました。僕はそれからずっと彼女のことを調べ、『繭美』を目覚めさせるためのキーワードを捜してきたんです」
「高木先輩があなたを紹介してくれたのは――?」
「高木が里美さんと知り合いだというのは僕も知りませんでした。だから、彼からあなたたちの話を聞いたときは驚きました。もちろんチャンスだと思ったことは事実です」
「君は斎藤正隆の正体もずっと知っていたのか?」
田宮の問いかけに八雲は首を振った。
「里美さんに催眠をかけたのが野中高文だということは想像していました。ただ、それが斎藤正隆であることは昨夜までわかりませんでした。ただ――里美さんを陥れるためには必ずもう一度、催眠をかけるためにやってくるだろうと想像していました」
「あいつは昨夜、何のためにあそこに?」
「カスミに暗示をかけなおすためです。田宮さんが催眠を行った時、確実にカスミが犯行を自供しなければいけなかったんです」
河西の頭のなかに一瞬疑問が過ぎった。
小松英彦、小柳美幸はその道具に過ぎなかったのだろうか。二人の死の情景が思い出される。
(本当に斎藤正隆は里美に対して復讐しようとしたんだろうか……)
もっと細かく事件を洗い出さなければいけないような気がする。だが、その浮かび上がった疑問はすぐに消えていった。八雲の説明は不思議と河西の心の疑問をふっと忘れさせるような力があった。
(そう……この男の言う事なら正しいのだろう)
そんな気持ちになっている。
もう考える必要はない。犯人は死に、事件は全て終わったのだ。
なぜだろう、さっきから頭のなかでさっきから小さな炎が揺れているイメージが浮かび上がっている。
「あの人は私を利用したの?」
ぼそりとゆう子がつぶやいた。「あの人は私が里美の友達だから……だから、私と付き合ったんですか?」
「それは……」
八雲はうつむいた。
誰も何も答えられなかった。




