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チャイム  作者: けせらせら
15/17

チャイム 11.2

 午前二時。

 病院内はしんと静まり返っている。

 廊下の所々につけられた非常灯が微かな灯りとなっている。

 薄暗い弱々しい光のなか、一つの人影が病室に滑り込んだ。

 人影はドアを閉めるとその暗闇に慣れようとするように、部屋の中をじっとうかがった。そして、その目はベッドの膨らみをじっと見つめた。

 ゆっくりとベッドに歩み寄っていく。

「繭美……」

 小さな声で話し掛ける。

「う……」

「繭美……俺の声を聞け」

 男はベッドで横になっている里美の耳元にそっと語り掛けた。

「う……」

 里美が眉をしかめ、ゆっくりと瞼を開く。

「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう」

 男ははっきりとした口調で言った。

「うう……」

 里美は目を閉じると、顔をしかめて首を横に振る。

「ど……どうした? 繭美、なぜ目覚めないんだ?」

 男はもう一度耳元に口を寄せた。「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう」

 その時だった。

「無駄だよ」

 ぱっと部屋の明かりがつき、男は驚いて振りかえった。

 ドアの横に八雲の姿があった。

「なるほど。それがキーワードだったんだね」

 八雲はベッド脇に立つ斉藤正隆に言った。

「どういうことか説明してもらおうか」

 部屋の奥のカーテンが開き、河西と田宮が姿を現す。

「な、なぜだ?」

「八雲さんに言われたんだよ。今夜、真犯人が姿を現すからってね。そして、あんたが現れたってわけだ。斎藤さん、あんた何してるんだ? 説明してもらおうか」

 正隆は八雲を見た。

「な……なにを……」

「これまでもそうやって彼女の記憶を混乱させてきたんだろう?」

「いったい……これは……」

「彼女にあなたの声は届いていないよ」

「何をしたんだ?」

「もう一つの暗示をかけたのさ」

 八雲はゆっくりとベッドの里美に近づいていった。正隆はベッドから離れ、八雲を見つめた。

「暗示だと……?」

「ああ……今、彼女は軽い催眠状態にある。僕の声しか聞こえないんだ。彼女の意識を呼び起こす鍵を知りたくてあんたを罠にかけたんだ。なるほど『マタイによる福音書』の言葉か」

「おまえ……」

「あなたがやったことは全部わかってるよ」

 鋭い視線で八雲は正隆を睨んで、ゆっくりと近づく。

「な……」

「終わりなんだよ。全てはここで終わる! 逃げることは出来ない! あなたは、自らの血で全てを終わらせなければいけないんだ!」

 その言葉を聞いた瞬間、正隆は八雲を突き飛ばすとドアに飛びついた。

「待て!」

 河西が正隆に飛びついたが、それよりも一瞬早く正隆の身体は病室の外に飛び出していた。


   *   *   *


(ちきしょう!)

 廊下を走りながら正隆は心のなかで毒づいた。

(何でこんなことになったんだ)

 後ろから河西が追いかけてくる足音が近づいてくる。正隆は廊下を曲がると必死の形相で階段を駆け上がった。

(あいつ……いったい誰なんだ?)

 八雲という男の話はゆう子からも聞いていた。だが、ただ『催眠』にちょっと詳しいフリーライターとしか考えていなかった。

(キーワード……なぜ、そんなことまでも奴は知っていたんだ?)

 階段を二つ、三つ飛ばしながら駆け上がっていく。

 ふと、走りながら別の疑問が頭のなかに浮かびあがってくる。

(俺はなぜ逃げてるんだ? どこに逃げようとしてるんだ?)

 八雲の言葉を聞いた瞬間、無意識のうちに逃げ出していた。あの時、逃げずとも切り抜けることはいくらでも出来たはずだ。これではまるで自分の罪を自ら認めているようなものではないか。

 だが――

(これは俺の意志なのか?)

 足は止まらない。

 上に行っても屋上があるだけだ。追いつめられることはわかっている。本気で逃げるつもりならば、階段を見た時、下に向かわなければならなかったはずだ。それなのに咄嗟に階段を登ってしまっていた。

――ニゲロ! ドコマデモニゲロ!

 頭のなかに微かな声が聞こえている。

(なぜだ?)

 そもそもなぜ今夜、自分は里美のもとに向かったんだろう?

 カスミの記憶を操るため……だが、それは急ぐ必要はなかったはずだ。そもそもカスミには暗示をかけてある。焦ることはなかった。

(なぜ……俺は今夜あいつのところに行ったんだ?)

 何度も自分自身へ問いかける。だが、その答えが見つからない。

――ツカマルナ! ニゲルンダ!

 階段を駆け上がる音が響く。

――八雲……

 遠い昔、その名前を聞いたような気がする。誰だったろう。

「待て!」

 背後から鋭い声が聞こえてきた。河西の声だ。

 止まるわけにはいかない。

(そう、逃げつづけるしかないんだ)

 四階、五階、そして、屋上へ……

 不思議なほどに身体が勝手に動いていた。

 目の前に自由な世界が広がっている。

――逃げろ……逃げろ……逃げろ……

 頭のなかで声が聞こえている。

 風が頬に当たる。

 何も考えられなかった。

 ただ、無我夢中で柵を乗り越え、そして――飛んだ。

(八雲……そうだ)

 宙を舞いながらやっとその名前を思い出していた。

 頭のなかで小さな炎が揺れている。


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