チャイム 11.2
午前二時。
病院内はしんと静まり返っている。
廊下の所々につけられた非常灯が微かな灯りとなっている。
薄暗い弱々しい光のなか、一つの人影が病室に滑り込んだ。
人影はドアを閉めるとその暗闇に慣れようとするように、部屋の中をじっとうかがった。そして、その目はベッドの膨らみをじっと見つめた。
ゆっくりとベッドに歩み寄っていく。
「繭美……」
小さな声で話し掛ける。
「う……」
「繭美……俺の声を聞け」
男はベッドで横になっている里美の耳元にそっと語り掛けた。
「う……」
里美が眉をしかめ、ゆっくりと瞼を開く。
「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう」
男ははっきりとした口調で言った。
「うう……」
里美は目を閉じると、顔をしかめて首を横に振る。
「ど……どうした? 繭美、なぜ目覚めないんだ?」
男はもう一度耳元に口を寄せた。「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう」
その時だった。
「無駄だよ」
ぱっと部屋の明かりがつき、男は驚いて振りかえった。
ドアの横に八雲の姿があった。
「なるほど。それがキーワードだったんだね」
八雲はベッド脇に立つ斉藤正隆に言った。
「どういうことか説明してもらおうか」
部屋の奥のカーテンが開き、河西と田宮が姿を現す。
「な、なぜだ?」
「八雲さんに言われたんだよ。今夜、真犯人が姿を現すからってね。そして、あんたが現れたってわけだ。斎藤さん、あんた何してるんだ? 説明してもらおうか」
正隆は八雲を見た。
「な……なにを……」
「これまでもそうやって彼女の記憶を混乱させてきたんだろう?」
「いったい……これは……」
「彼女にあなたの声は届いていないよ」
「何をしたんだ?」
「もう一つの暗示をかけたのさ」
八雲はゆっくりとベッドの里美に近づいていった。正隆はベッドから離れ、八雲を見つめた。
「暗示だと……?」
「ああ……今、彼女は軽い催眠状態にある。僕の声しか聞こえないんだ。彼女の意識を呼び起こす鍵を知りたくてあんたを罠にかけたんだ。なるほど『マタイによる福音書』の言葉か」
「おまえ……」
「あなたがやったことは全部わかってるよ」
鋭い視線で八雲は正隆を睨んで、ゆっくりと近づく。
「な……」
「終わりなんだよ。全てはここで終わる! 逃げることは出来ない! あなたは、自らの血で全てを終わらせなければいけないんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、正隆は八雲を突き飛ばすとドアに飛びついた。
「待て!」
河西が正隆に飛びついたが、それよりも一瞬早く正隆の身体は病室の外に飛び出していた。
* * *
(ちきしょう!)
廊下を走りながら正隆は心のなかで毒づいた。
(何でこんなことになったんだ)
後ろから河西が追いかけてくる足音が近づいてくる。正隆は廊下を曲がると必死の形相で階段を駆け上がった。
(あいつ……いったい誰なんだ?)
八雲という男の話はゆう子からも聞いていた。だが、ただ『催眠』にちょっと詳しいフリーライターとしか考えていなかった。
(キーワード……なぜ、そんなことまでも奴は知っていたんだ?)
階段を二つ、三つ飛ばしながら駆け上がっていく。
ふと、走りながら別の疑問が頭のなかに浮かびあがってくる。
(俺はなぜ逃げてるんだ? どこに逃げようとしてるんだ?)
八雲の言葉を聞いた瞬間、無意識のうちに逃げ出していた。あの時、逃げずとも切り抜けることはいくらでも出来たはずだ。これではまるで自分の罪を自ら認めているようなものではないか。
だが――
(これは俺の意志なのか?)
足は止まらない。
上に行っても屋上があるだけだ。追いつめられることはわかっている。本気で逃げるつもりならば、階段を見た時、下に向かわなければならなかったはずだ。それなのに咄嗟に階段を登ってしまっていた。
――ニゲロ! ドコマデモニゲロ!
頭のなかに微かな声が聞こえている。
(なぜだ?)
そもそもなぜ今夜、自分は里美のもとに向かったんだろう?
カスミの記憶を操るため……だが、それは急ぐ必要はなかったはずだ。そもそもカスミには暗示をかけてある。焦ることはなかった。
(なぜ……俺は今夜あいつのところに行ったんだ?)
何度も自分自身へ問いかける。だが、その答えが見つからない。
――ツカマルナ! ニゲルンダ!
階段を駆け上がる音が響く。
――八雲……
遠い昔、その名前を聞いたような気がする。誰だったろう。
「待て!」
背後から鋭い声が聞こえてきた。河西の声だ。
止まるわけにはいかない。
(そう、逃げつづけるしかないんだ)
四階、五階、そして、屋上へ……
不思議なほどに身体が勝手に動いていた。
目の前に自由な世界が広がっている。
――逃げろ……逃げろ……逃げろ……
頭のなかで声が聞こえている。
風が頬に当たる。
何も考えられなかった。
ただ、無我夢中で柵を乗り越え、そして――飛んだ。
(八雲……そうだ)
宙を舞いながらやっとその名前を思い出していた。
頭のなかで小さな炎が揺れている。




