チャイム 11.1
十一
里美が姿を消して四日が過ぎた。
(いったい……何がどうなっちゃったの……?)
ゆう子は煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
白い煙が立ち昇っていく。
詳しいことを八雲に訊いてみても答えてはくれなかった。ただ、河西からは高木が何者かに刺されたこと、そして、里美が姉の繭美に連れ去られて行方不明になったとだけ教えてもらっていた。
里美が姿を消してすぐ、警察は早川繭美と里美を見つけ出すために緊急配備を敷いた。奪われたアコードはその夜のうちにJR渋谷駅の東口に乗り捨てられているのが見つかった。だが、二人の姿は四日経っても見つけられなかった。
高木のケガは大したことはなく、日々元気を取り戻してきているが、事件前後の記憶はなぜか曖昧なままらしい。
この四日の間に奇妙な事実がわかった。
警察が里美の部屋を調べてみると、部屋のなかからいくつかの盗聴器が発見されたのだ。だが、それがいったい何者によって仕掛けられたものかまでは調べることは出来なかった。
「おい」
ソファで横になっていた斎藤正隆が声をかける。
「え? なに?」
その声にゆう子は我に返った。
「煙草吸い過ぎだよ」
「そおかな……?」
ふと視線を落とすと、テーブルの上の灰皿にはすでに吸い殻の山が出来ている。
「里美ちゃんのこと考えてたのか?」
「うん……」
ぽつりとつぶやく。「どこ行っちゃったんだろ」
「まだ見つからないのか?」
「うん。今日も刑事さんから電話があった。あの子、私以外に親しい人っていないから、何かあれば私のところに連絡をよこすと思ってるみたい」
「双子の姉さんに連れて行かれたんだろ? だったら殺されたりはしないだろ」
「う……ん……」
「彼女に姉さんがいたとはな。本当なのかな」
「でも、刑事さんが実際にお姉さんを見たって言ってるわ」
双子の姉。
だが、そのこと自体本当のことなのだろうか。里美の口から今までそんな話は聞いたことがない。
今、警察は里美が子供の頃のことをしきりに調べているようだ。
――無理に思い出すことが余計つらい結果になることだってある。
あの日、八雲が言った言葉を思い出していた。
里美の過去。
それは里美にとっては封印しておいたほうがいいような辛い記憶なのかもしれない。
突然、ゆう子のバッグの中で携帯電話が鳴り出した。ゆう子は煙草を灰皿で揉み消すと、手を伸ばして携帯電話を取り出した。
「はい」
――日野さんですね。
河西からだった。
「ええ……何か?」
――早川さんが見つかりました。
「え?! あ……あの……無事なんですか?」
まさか『死体で』とか言われるのではないかとゆう子は恐る恐る尋ねた。
――ええ、大丈夫です。
「今、どこにいるんです?」
――鶴見中央病院です。とは言っても検査のために一応入院しただけで、身体には別状ありませんよ
「今から行ってもいいですか?」
――来ていただけますか?
「行きます」
里美に会いたかった。
「どうした?」
電話を切ると正隆が心配そうな顔をしてゆう子の顔を見た。
「里美が見つかったらしいの」
「本当か?」
「鶴見中央病院にいるらしいの。今から会いに行ってくる」
「俺も行くよ」
「でも……」
「俺だって何か役にたてることもあるかもしれない。それに、どっちかといえば俺はおまえのことが心配なんだ」
正隆はそう言って立ち上がった。
* * *
すでに診療時間を過ぎ、病院内に人影は見えない。
病院に着くと、ゆう子は思わず腕時計を見た。午後九時半。
夜の病院ほどひっそりと寂しい場所はないのではないかと、ゆう子はその通路を歩きながら思った。
付き添うように歩く正隆の手を、すがるようにぎゅっと握る。
キュッキュと自分たちの歩く足音が薄暗い病院内に響いている。
三階にあがると、病室の前のソファに座る河西と田宮、そして八雲の姿が見えた。ゆう子たちが近づくと河西は立ち上がった。
「わざわざ、すいません」
「里美は?」
「今、眠っています」
そう言いながら河西はちらりと正隆のほうに視線を向けた。
「あ……私だけじゃ不安なんで一緒に来てもらったんです」
「心配だったんでね」
「それより……里美はどうなんですか?」
ゆう子が河西に訊いた。
「身体に別状はありません」
「どこで見つかったんですか?」
正隆が口を挟んだ。
「それがね……夕方、恵比寿の交番にふらっと現れたそうなんです」
「恵比寿?」
「ええ。様子がおかしいので警官が名前を聞いたら、『早川里美です』と、その一言だけ告げたんだそうです」
「いったい今までどこに行ってたんでしょう?」
「さあ……まったくどうなってるのかわかりませんよ」
「早川繭美のことはどうなってるんです?」
田宮が立ち上がった。
「ああ……そうでした。そのことは先生たちにお話しておいたほうがいいでしょうね。せっかく青森まで行って調べてきたんですし……」
「青森?」
「ええ。彼女が生まれたのは青森県南津軽郡臼井町。その後、ご両親が事故で亡くなったことで父方の実家、長野県東築摩郡水上村に引き取られました。彼女が3歳の時のことです。それから後も山形、札幌、仙台とまるで何かから逃げるように転々としてきたようです」
「それで双子の姉というのは?」
「確かに戸籍上、早川繭美は存在していました。彼女たちが生まれた病院でも彼女たちのことを憶えていた看護婦もいましたしね」
「それじゃ、やっぱり――」
「ええ、早川繭美が存在していることは間違いないでしょう」
「……生きているんですか?」
ぼそりと正隆がつぶやいた。
「そう……戸籍上は生きてます。ただ――ある日を境に早川繭美は世間から姿を消してるんです」
「どういうことです?」
「十三年前、村である事件が起こりました。村議会の議員の息子である加賀裕二が早川里美を誘拐したんです。いたずら目的だったようです」
「彼女の言っていたことは正しかったんですね」
「はい。その結果、早川里美は無事保護され、加賀裕二は惨殺死体となって見つかりました。加賀裕二は発見された時、石で顔を潰されていたんです」
「それは繭美が?」
「さあ、そこまではわかりませんでした。ただし、これは事故として処理されていました。なかなか聞き出すのに苦労しましたよ。里美とその祖父母は事件後、逃げるように村を離れていますが、問題は、それ以後、彼女の双子の姉妹である早川繭美の存在は消えてしまったことです」
「消えた?」
「その時、里美の祖父は村を去る間際に近所の人にこう言ったそうです。『繭美はある人に預かってもらうことになった』と。おそらく彼女が言ったように、加賀裕二は繭美によって殺され、それを隠すために繭美をどこか別の場所に隠した、と考えるのが妥当でしょう」
「誰に預けられたんです? それは見つけられないのですか?」
河西は首を振った。
「それがどこの誰なのか皆目検討もつきません」
「それじゃ今回の事件はすべて早川繭美がやったということですか?」
正隆が河西に訊いた。
「……そう判断することも出来ます」
河西は微妙なニュアンスの言い方をした。
「それは……別の判断も出来るということですか?」
「そう……繭美が里美さんを連れ去ったことは、うちの堂本が証言しています。だからといって他の事件まですべて早川繭美がやったということにはならない。小松英彦、小柳美幸、そして高木博明……これらの事件の犯人は違う人間かもしれない……場合によっては早川里美の可能性も――」
「ちょっと待ってください」
田宮が口を挟んだ。「彼女がやったという証拠でも?」
「実は小柳美幸のバッグのなかから写真が残されていたんです。小松英彦と一緒にいる早川里美の写真です」
「なぜそんなものを?」
「さあ。ただ、小柳美幸はずっと小松英彦の身辺を興信所を使って探っていたようです。ひょっとしたら美幸は小松英彦のことを本気で好きだったのかもしれませんね。それに居酒屋の店員も二人が一緒だったところを見ている。小松英彦の部屋からも車からも彼女の指紋が検出されているんです。もちろん第二の殺人である小柳美幸の車のなかからもです」
「だからといって彼女が殺したとは限りません」
「もちろんまだ彼女が犯人だと断定しているわけじゃあありません。ただ、早川里美がもっとも重要な容疑者であることは間違いないんです。犯人が彼女であっても、彼女以外の人間であっても彼女が鍵を握っているはずです」
「高木先輩の状態はどうなんですか?」
ゆう子は河西に訊いた。
「幸い傷のほうはたいしたことはありませんでした。すぐに退院出来るでしょう。ただ、記憶のほうは相変わらずですよ。見たことのない男に刺されたとは言ってるんですが、どうも具体的な話になると曖昧なんです。最初は早川里美を庇っているのかとも思いましたが、どうやらそういうわけでもないらしい。事件のショックで一時的に記憶が無くなったという可能性もあります。それとも誰かが記憶を消したか」
ゆう子は思わず八雲の顔を見た。
記憶操作。一度ゆう子はそれを八雲が里美にやったところを見ている。そのゆう子の気持ちを代弁するかのように河西は八雲に向かって言った。
「確か救急車を呼んだのはあなたですよね。まさかとは思いますが……高木さんにまで催眠を使ったんじゃないでしょうね?」
「まさか」
吐き捨てるように八雲は言った。「俺が行った時、あいつは刺された後だったんですよ。そんな時に催眠を使って記憶を忘れさせることなんて出来るわけないでしょう」
「そうでしょうね」
河西はそう言いながらも、まだ疑っているような眼差しで八雲を見た。それから田宮に視線を移した。「先生、もう一度彼女に催眠をかけてもらえませんか?」
「何ですって?」
「もし、彼女が事件のことを憶えていないと言うのであれば、催眠によって証言してもらうしかないんですよ。そうすれば早川繭美のこともはっきりするでしょう」
「馬鹿な……警察の証言を引き出すために催眠を使うなんてこと出来るはずないでしょう。それに彼女は今、そんな状態じゃないんじゃありませんか?」
「もちろん、今すぐにとは言いません。彼女が回復した後のことです」
「ですが――」
その時、病室のなかから看護婦が姿を現した。
「早川里美の様子は?」
すぐに河西が声をかける。
「今はだいぶ落ち着いてます」
「面会出来ませんか?」
看護婦は顔をしかめた。
「今は大人しくしてあげたほうが……」
「もちろん。ただ、彼女を心配してこうして友達も来てるんですから。顔くらい見させてあげてもいいんじゃありませんか」
河西は食い下がった。
その言葉に看護婦は仕方無さそうに肯いた。
「少しだけですよ」
「わかりました」
河西が真っ先にドアを開け、病室に入っていく。皆、その後に続いた。
薄暗い病室の真っ白いベッドに里美が横になっている。
「里美……」
ゆう子は歩み寄った。
普段から白い里美の肌が、いつも以上に青白く見える。
その目は力なくぼんやりとゆう子を見た。
「……ゆう子」
「大丈夫?」
「うん……」
静かに肯く。
「早川さん……」
河西が言葉をかけた。思わずゆう子が河西を睨んだ。だが、そんなことなど気にもせず河西は続けた。「今までどこに?」
「……わかりません……」
小さな声でぽつりと里美が答える。
「では、早川繭美、あなたのお姉さんのことは?」
「……」
里美は小さく首を振った。
「憶えてないんですか?」
「ごめんなさい」
「いいかげんにしてください」
ゆう子の強い口調に河西は肩を竦めた。
「ですがねえ――」
言いかけた河西の肩をぐっと八雲が掴んだ。
「刑事さん……」
「何か?」
厳しい顔で河西は八雲を見た。
「ゆう子さんと二人きりにさせてあげましょう。きっと里美さんにとってはそれが一番良いはずです」
「だが――」
「私もそれが良いと思います」
田宮にまで言われ、河西は小さくため息をついた。
「そうですか……」
八雲は河西を連れると部屋を出た。田宮と正隆もあとに続く。
ゆう子は八雲の気持ちに感謝しながら、ベッド脇の椅子に座って里美の手を握り締めた。
* * *
「彼女をそっとしておいてあげたい。皆さんの気持ちはわかります。けどね、これは殺人事件なんです。今、我々に残された材料は彼女しかないんです」
病室を出ると、河西は憮然とした表情で田宮に向かって言った。
「ですが、今の状況で里美さんに催眠をかけるのは危険です」
と田宮が答える。
「危険?」
「彼女は精神的にも肉体的にも弱ってる。私は治療のためなら催眠を行いますが、ただ単に証言を欲しいがために催眠を行うのは問題があると思います」
「じゃあ、このまま彼女を放っておけとでも言うんですか? 残念だがそんなことは出来ない」
「そうじゃありません。いずれ彼女が回復した後に治療のひとつとしてやればいいと言ってるんです」
「それまで待てませんよ」
八雲は長椅子に座り、二人のやりとりを眺めている。
「催眠――やってみたらいいんじゃないでしょうか?」
ふいに正隆が割って入った。
「何ですって?」驚いたように田宮が正隆を見た。
「俺は医者じゃないのでよくわかりませんけど、警察のため……というよりも彼女自信のために、はっきりさせたほうがいいこともあるんじゃありませんか? 彼女が多重人格障害であるならば、その原因は過去に必ずあるはずです。あいまいなままにしておけば、さらなる人格が生まれかねませんよ」
八雲は黙ったまま正隆のことをちらりと見上げた。正隆は3人の顔を見比べながらさらに続けた。
「放っておけば第二、第三のカスミが現れるでしょう。そうなってしまってはますます彼女の治療は難しくなりますよ。今、肉体的に多少弱っているかもしれませんが、そのぶん心は表に出やすいのはありませんか?」
「失礼ですが、あなたは催眠というものがわかっていないようですね」
不機嫌そうに田宮は言った。
「やってみるのもいいんじゃないかな」
突然、八雲が口を挟んだ。
「八雲君……」
「その人の言うのも一理あるよ。それにもし田宮さんが断れば、この人たち他の人を連れてくるかもしれないよ」
八雲はそう言って河西のほうを見た。河西は小さく首を竦める。
「まあ、その可能性がないとは言えませんが……」
ちらりと田宮の様子を伺いながら河西は言った。そんな河西を見て、田宮は大きく息を吸い込んだ。
「わかりました。それなら私がやりましょう。一応、私はこれまでの事情を知っている。へたに彼女の状態を知らない医者が手を出すよりは安全に治療を行えます」
田宮はきっぱりと言った。「ただ、少し時間をください。今はまだ危険過ぎます。彼女がもう少し回復するまで待ってください」
「いいでしょう。けど、我々もそう長くは待てませんよ」
河西も肯いた。
その時、ドアが開き、ゆう子が病室から出てきた。
「里美さんは?」
「眠っちゃいました。すごく疲れてるみたい」
「何か言ってませんでしたか?」
河西がすかさず質問を投げる。
「いえ。何も」
ゆう子は河西に背を向けるようにしながら答えた。
「大丈夫か?」
ゆう子をいたわるかのように正隆が声をかける。
「うん」
「喉、渇かないか?」
正隆が小さく訊く。
「大丈夫」
「下に販売機があったから俺、買ってくるよ」
そう言うと、薄暗い階段をゆっくりと降りて行った。
「里美、すごく疲れてるみたい」
「多重人格障害っていうのはそういうものですから」
その田宮の言葉にゆう子は驚いて見上げた。
「多重人格? 里美が?」
「里美さんのなかには彼女以外にもう一人、『カスミ』という人格があるんです。知りませんでしたか?」
「ええ……それって治るんですか?」
「ちゃんと治療すればね」
田宮はゆう子に優しく答えた。
「俺も飲み物買ってきます」
ぼそりと八雲が言って立ち上がった。「何か欲しければ買ってきますけど」
そう言って三人を見回す。
「いや……」
三人が首を振ると、八雲は正隆が行ったのと同じ方向に階段を降りて行った。
* * *
自動販売機は受け付けのすぐ横の待合室のところに何台かが隣り合って並んでいた。
薄暗く、誰もいない待合室はひんやりと空気が冷たく感じる。
ゴトリと自動販売機の排出口にペットボトルのお茶が落ちる。
正隆はゆっくりとした動作でそのペットボトルの小瓶を取り出した。ペットボトルの蓋を開け一口飲んでから、ポケットからタバコを取り出した。
ぼんやりと里美のことを考える。
(多重人格障害か。どうするつもりなのかな?)
今は専門家である田宮がどう対処しようとしているのかが興味があった。河西が田宮を信頼しきっていることも、二人のやりとりを聞いていればわかる。
正隆はタバコの封を切って一本取り出した。
「火、貸しましょうか?」
その声に振り向くと、いつのまにか八雲が後ろに立っていた。その手には銀色のライターが握られ、弄ぶようにカチリカチリと音を鳴らしている。
「どうしたんです?」
「あなたと同じですよ。飲み物を買おうと思って」
八雲はそう言いながら正隆に近づいた。
(こいつは……八雲と言ったな)
八雲のことは里美が行方不明になった後、ゆう子からこれまで何度か聞かされていたが、実際に会うのは今日が初めてだった。
ぼんやりと正隆はその名前を頭のなかで繰り返した。どこかで聞いたような気がしたが思い出せなかった。
「ここって禁煙だったかな? まずいかな?」
「さあ、どうでしょうね。でも誰も見てませんよ」
「そうだね」
正隆は軽く笑いながら取り出したタバコを咥えた。
すかさず八雲がライターに火をつけ目の前にかざした。
「どうぞ……」
その八雲の目のなかにライターの火が映っているのが見えた。




