チャイム 10.3
催眠室のなかにメトロノームの音が響く。
リクライニングチェアーには里美が座り、目を閉じている。そして、その右脇には八雲が座り、部屋の隅には田宮が立ってその様子を眺めている。
すでに田宮には高木が刺されたことも含め、これまでの成り行きを説明してある。
八雲がメトロノームの音を止めた。
「これであなたは深い催眠状態に入りました」
八雲は里美に話し掛けはじめた。「あなたの名前は?」
「早川里美です」
「里美さんですね? そこにいるのはあなただけですか? その隣にもう一人隠れていませんか?」
「はい……」
顎を小さく動かして里美は答えた。「でも、私にはよくわかりません」
「構いません。では、里美さんはゆっくりと眠ってください。そして、その人と替わってください」
八雲はそう言ってから、少し間を置いてからさらに里美に話しかけた。「さあ、入れ替わりましたか? あなたは誰ですか?」
「……」
「正直に答えてください」
優しいがその口調は強かった。その問いかけに里美の口が動いた。
「……カスミ」
そして、その瞼が開く。その目は強い光を放ちながら八雲を見つめた。それは里美のものとは明らかに違っている。
部屋の隅でその様子を見ていた田宮の目が驚きの色に変わった。
「やっと会えましたね」
「私の存在を知っていたの?」
その話口調もいつもの里美のものとはやはり違っていた。
「ああ、予想はしてたよ。里美さんの記憶障害の原因は君だね?」
「そうね。私のせいで里美は過去を忘れなければいけなくなった。でも、私を作り出したのは里美だよ」
「うん。どうして里美さんは君を作り出したんだろう? 君はどう思う?」
「里美は逃げたかったのよ」
「何から?」
「お姉さんを殺したという自責の念から」
「お姉さんを殺した?」
その言葉をかみ締めるように八雲は訊いた。「里美さんにはお姉さんがいたの?」
「そうよ。双子だったの。『繭美』って書くの」
里美……いや、カスミは空中に名前を書いてみせた。
「里美さんはそのことは?」
「たぶん憶えてないと思うわ。繭美という存在を記憶から消して、その罪から逃れるために私を作り出したの」
「さっきお姉さんを殺したと言ったね。里美さんが繭美さんを殺したの?」
言葉を一つ一つ選ぶように八雲は質問を続けた。
「いいえ、あれはただの事故よ。里美が8歳の時、馬鹿なガキが里美を襲おうとして、山のなかに連れ込んだの」
「ガキ?」
「ええ、加賀裕二っていう高校生だったわ。近所でも嫌われてた村の議員の馬鹿息子」
「それで?」
「繭美がそれを追って山に入った。繭美は里美と違って気が強かった。一卵性双生児なのにあんなに性格が違うのも珍しいわ」
「繭美は里美さんを助け出せたの?」
「そうねぇ。一応は助け出したんだけど、途中、馬鹿息子に追いつかれて、繭美と馬鹿息子が足を滑らせて崖下に落ちたの。里美は何も出来ずにおろおろしちゃって。翌朝になって村の人たちが捜しに来るまでずっと泣いてたのよ」
「崖から落ちた二人は死んだの?」
「……」
「答えてくれないか」
「そうね……」
と少し考えるようにしてから答えた。「きっと死んだんだと思うわ。少なくとも里美はそう思った。だからこそ自分の罪の意識から逃れるために私を作り出したの」
「それじゃ実際には死んでいないってこと?」
「それは私にはわからない。でも、加賀裕二の葬儀はあげられたのに、繭美の葬儀はあげられなかった」
カスミが顔を歪ませた。
「繭美は見つけられなかったの?」
「違う。繭美も一緒に助け出された」
「『助け出された』? それじゃ繭美は今でも生きてるの?」
「わ、わからない」
カスミは慌てたようにどもった。
「崖から落ちた後、何があったんだと思う?」
「私がわかるわけないでしょ……ただ――」
「ただ?」
「崖下から運び出された加賀裕二の頭は……石で……叩き潰されてたの」
「繭美がやったのかな?」
「わからないわ!」
眉をひそめ、カスミは感情的に声を荒げた。八雲は自分自身を落ち着かせるように大きく息を吸った。
「それじゃ質問を変えるよ」
「……」
「君が里美さんに作り出されたのはいつ? 憶えてる?」
「事件のすぐあと後よ」
「たまには目を覚まして、入れ替わったりした?」
「ええ。たまにね」
「じゃあ、十年以上、そういう生活を?」
八雲の質問にカスミは首を振った。
「違うわ」
「どういうこと?」
「里美が中学生になったときに、うっかり私が顔を出したらそれがバレちゃったの」
「君の存在がバレたってこと?」
「うん」
「誰に?」
「近所に住んでたおじさん」
「それで?」
「おじいちゃんとおばあちゃんのところにやってきて、『治療しなさい』って」
「その人はお医者さん?」
「――だと思う。毎日、学校に帰るとその人が待ってた。そのうち、だんだん私が出て行けなくなった」
「じゃあ、君は今日までずっと眠りつづけてたの?」
「……違うわ。私が起きたのは今日じゃないわよ」
「いつ目を覚ましたの?」
「事故……同窓会の帰りに事故を見たんだ……その時……」
急にカスミの歯切れが悪くなってきた。
「その時、何があったの?」
「……」
カスミはいやいやをするように首を振った。
「何か嫌なことでも?」
「違う……でも……でも……そんなの有り得ない」
「答えてくれないかな。何を見たの?」
カスミの目が脅えている。ゆっくりと口を動かしそして、声を出した。
「あいつがいたんだ!」
「あいつ?」
「繭美だよ。あいつは死んだはずなのに! 私と同じ顔をして……あの時と同じあどけない表情で……あいつは生きてた! それに里美は脅えた……里美が脅えることで私は顔を出すんだ」
吐き出すようにカスミは言った。
「それでその後はちょくちょく顔を出したのかな?」
「……うん……」
「小松英彦に会った時は?」
びくりとカスミは身体を震わせた。「君は顔を出した?」
「うん……」
「何があったの?」
「あの男、里美に薬飲ませて襲おうとしたんだ。里美は脅えて……私に入れ替わった。でも、私にも何も出来なかった。薬のせいで体が動かなかったんだ。でも、あいつが私を助けてくれた」
「あいつって?」
「繭美……」
「もしかして……今日も君は里美さんと入れ替わった?」
「うん……」
カスミは小さく肯いた。
「今日、何かあったか教えてくれる?」
「……」
「僕たちは里美さんを守りたいんだ。そのためには本当のことを知らなきゃいけない。さあ。全て答えて」
八雲はカスミを促した。
カスミは視線をちらりと部屋の隅にいる田宮へと動かし、すぐに戻すと話しはじめた。
「小柳美幸って女が昨夜電話してきたんだ……小松英彦に会ったことを警察にバラすって……里美を脅して金を取るつもりだったんだよ。だから私は入れ替わってそいつと約束をしたんだ。2時に会おうって……会ってきちんと話をつけるつもりだった」
「それで? 会ったんだね?」
「ああ……でも、途中で喧嘩になっちゃって……」
「なぜ喧嘩に?」
「だって私が小松英彦を殺したわけじゃないんだ。脅されて金払う必要ないだろ? そう言ったら、あいつ怒り出したんだ。で、結局、喧嘩別れになって私は車降りて帰ってきたんだ……そしたら、高木先輩に会ったんだ」
「高木のことを刺したのは君?」
「違う! チャイムが鳴ったんだ」
「チャイム?」
「ああ……それから後のことは私も知らない……里美も私も……よく憶えてないんだ」
「繭美とは今日は会わなかった?」
「……わかんないよ……」
さっきから繭美の話をするたびに声が震える。それほどに怖れているのだろうか。
「ありがとう」
「私をどうするつもりだい?」
つっかかるようにカスミが訊いた。
「君も里美さんの一つの人格だ。これからゆっくり考えていこう。」
そう言うと八雲はカスミの目の上に手を置いた。「さあ、目をつぶって」
「……」
「さあ……これから三つ数えるよ。カスミ、君は再び眠りにつくんだ。そして、里美さんが目を覚ます。3……2……1……はい」
パンと里美の顔の前で八雲は手を叩いた。びくんと身体が震え、里美が目を覚ます。
「……」
里美は自分の居場所を確かめるかのように首を動かし周囲を見回した。
「気分はどお?」
「……すっきりしています」
里美の口調が元のおとなしいものに戻っている。
「少し身体を休めるために、このままゆっくりしていてください」
八雲はそう言って立ち上がった。田宮も立ち上がると、二人で連れ立って部屋を出た。
* * *
ドアを閉めると田宮は口を開いた。
「解離性同一性障害か」
『解離性同一性障害』、一般的には『多重人格障害』と呼ばれている。ひとりの人に、明瞭に区別される2つ以上の同一性、または人格状態が存在する病態で、それぞれの人格状態は、同一性、記憶、および意識の統合の失敗を反映している。より受身的で情緒的にも控えめな人格状態と、より支配的、自己主張的、保護的、または敵対的で、時には性的にもより積極的、開放的な人格状態という、対照的な2つの主要な人格状態を持つことが多く、その他に小児や児童、思春期の人格を持つのが普通だ。
「なるほど、君が催眠治療をやろうとする理由がわかったよ」
田宮はドアの閉まった催眠室のほうに視線を走らせながら言った。催眠室は防音設備になっているため、診察室での会話は催眠室にいる里美には聞こえない。
「警察がへたに手を出すと治療がやりにくくなるんで、先日は一時的に彼女の記憶を誤魔化しました」
「これからどうするつもりなんだ? 警察は間違いなく彼女を容疑者の一人として追ってるんじゃないか?」
「だから田宮さんに立ち会ってもらったんです」
八雲はそう言ってちらりと田宮の顔を見た。
「おい……俺に犯罪の片棒を担がせるつもりか?」
「さっきの催眠の結果でもわかるでしょう。彼女は殺人などやっちゃいませんよ」
「そりゃそうかもしれないが……だが、彼女がやっていないという証拠もない」
田宮は厳しい表情で言った。
「さっきのやりとりが何よりの証拠でしょう」
「警察がそんなものを証拠にとりあげると思うかい?」
「今、見つけなければいけないのは彼女の双子の姉、早川繭美の存在です」
「見つけ出せるのか?」
「さあ」
「うーん……それじゃあ彼女を助けられないだろう」
田宮は頭をかかえた。
「早川繭美を見つけ出せるかどうかは警察次第ですよ」
八雲がそう言った時だった。
「それは誰のことです?」
その声に八雲たちは振り返った。いつの間に現れたのか、河西と堂本がドアを開け入ってきている。
「河西さん……でしたね」
八雲は河西に顔を向けた。
「八雲さん、あんたにも高木博明の件で話を聞かなきゃならないようですね」
「……高木の状態はどうなんです?」
河西はそれには答えようとはせず、診察室を見回した。
「早川里美はどこです? ここにいるんでしょう?」
「催眠室です」
田宮が奥のドアを指差した。
「また催眠治療ですか?」
「ええ……彼女の症状は意外と重いようです」
田宮は答えた。
「早川里美に話を聞きたいんですが……」
「今は治療が終わった直後なので――」
「そうも言っていられないんですよ」
田宮の言葉を制して河西は言った。
「高木のことを言ってるんですか?」
八雲が河西に向かって言った。
「その通りです」
「高木を刺したのは彼女じゃありませんよ」
「なぜそんなことが言えるんですか?」
「僕が彼女を見つけた時、彼女はリビングで震えていました。これは前から気づいていたことですが、彼女は血に対して異常なほどに恐怖心を感じています。そんな彼女が人を刺し殺すなど不可能です。高木は何と言ってるんです? それほど深い傷じゃなかったはずだ。あいつが証言すればはっきりするでしょう?」
「確かに高木さんは早川里美に刺されたことは否定しています」
「だったら――」
「それがどうにも記憶が曖昧でしてね」
「曖昧?」
「彼女に刺されたことは否定するものの、事件前後のことをあまり憶えていないようです。突然部屋に入ってきた男に刺されたというようなことは言ってるんですが、その風貌も顔も覚えていないというんです。どうにも詳言が不可解なんですよ」
「高木が嘘を言ってるっていうんですか?」
「そういうわけじゃありません。それに彼女には、そのこと以外にも訊きたいことがあるんです」
「何ですか?」
「小柳美幸という女が殺されました。小松英彦と関わりがあった女性です。殺される直前、小柳美幸は友人に小松英彦のことで人と会う約束があると話していたそうです。おそらく早川里美さんでしょう。もう彼女を放っておくわけにはいかんのですよ」
八雲と田宮が顔を見合わせる。
「小柳美幸……」
思わず田宮はその名前をつぶやいた。ついさっき里美の口から聞いた名前だった。
「どうしました、先生? 何か知ってるんですか?」
田宮はどう答えるべきかを迷った。八雲は黙ったままだ。
「ちょっとね……」
「どうして知ってるんです?」
「……」
「先生! こいつは殺人事件なんですよ!」
河西が詰め寄った。
「さっき早川里美さんから聞いたんです」
田宮は仕方なく答えた。
「早川里美から?」
「小柳美幸はどうやって殺されたんです?」
八雲が口を挟んだ。じろりと河西が睨む。
「国道から外れた路地で車のなかで絞め殺されていました……小松英彦の時と同じようにね」
「二人とも彼女が殺ったっていうんですか? 女の力でそんなことが出来ますかね」
「――だが、それは早川繭美にしても同じだろう?」
思わず田宮が言った。
「いったいその早川繭美っていうのは何者です?」
まるで問いただすように、河西は眉をしかめて田宮の顔を見た。
「……早川里美の双子の姉だそうです。さっき彼女の口から聞きました。彼女は多重人格障害なんです」
「多重人格?」
「ですから早川里美に聞いても、明確な答は得られませんよ。早川里美は事件現場には確かに存在しています。ただ、そこの部分の記憶は持っていません。我々がさっき聞いたのはもう一つの『カスミ』という人格です。そのカスミの言葉によると、双子の姉の繭美こそが真犯人らしいんです」
「馬鹿なことを……」
田宮の言葉に河西はうなった。
「信じられないとは思います。けれど――今、調べなければいけないのは早川繭美の存在だと思いますよ」
田宮は意を決めたように、河西に向かってきっぱりと言った。それから田宮は八雲に顔を向けた。「さっきの話、刑事さんに聞かせてもいいね」
八雲は仕方無さそうに肯いた。
田宮は河西にさっきの催眠治療の内容を詳しく話して聞かせた。田宮の話が進むにつれ、河西の表情が変わっていく。八雲は何も言わず、ジッと何かを考えるように河西や堂本の表情を伺っている。
全ての話が終わった時、河西は低く唸った。
「そんなことが……」
「ですから早川里美にいくら質問したところで無駄なんですよ」
「今、早川里美は催眠室にいるんですね」
「刑事さん――」
「わかってます! ただ、彼女が現場にいたという事実がある限り、私もほうっておくわけにはいかんのですよ!」
河西は催眠室のドアを開けた。田宮もその後に続いた。八雲だけはその場に残り、まるでそれを監視するように堂本も残った。八雲はさっきからポケットから取り出したライターをカチリカチリと手の中で遊ばせている。
河西が催眠室のなかに入ると、里美がリクライニングチェアーに横たわって眠っているのが見えた。
「早川さん」
河西が声をかけると里美は目を開けた。
「あ……刑事さん……」
その表情が暗くなる。「いったいどうしたんですか?」
「あなたにお話を聞かせてもらいたいんですよ」
「話? 英彦君のことですか? でも……私何も知りません……」
里美は困ったような声を出した。
「ええ……ただ、いろいろとあなたにも聞かなきゃならないんです」
傍にいる田宮の顔を見ながら河西は言いづらそうに言った。「一度、署のほうへ来ていただけませんか?」
「はい……」
素直に里美は肯いた。
「出来れば先生も一緒に来て頂けませんか?」
河西が田宮の顔を見た。
「……いいですよ」
里美はリクライニングチェアーから降りると、足元に置かれていたバッグを持ち、三人は催眠室から出た。
診察室では相変わらず八雲がライターに火をつけたり、消したりを繰り返している。
「連行するつもりですか?」
八雲の言葉に河西は目元をきつくした。
「事情を聞くだけです。あなたにもお話を聞かせてもらいますよ」
「警察に行く前に話しておきたいことがあるんですけどね」
「なんです?」
「ちょっと彼女の前じゃ言いにくいですね……」
八雲が里美をちらりと見て言った。
厳しい顔で河西は八雲を一瞥すると、堂本に視線を向けた。
「早川里美さんを重要参考人としてお連れしろ」
「……」
堂本は黙って肯くと、里美を連れて部屋を出た。
「話って言うのは?」
「早川繭美さんのことですよ」
「その話なら署に行ってからでいいでしょう」
「さっきの話をあなたが信用してるのかどうかを聞きたいんです」
「……」
河西は困ったように額に手を当てた。
「警察にとって、里美さんを犯人として逮捕してしまうほど簡単なことはないですからね」
「私は彼女を真犯人だと思ってはいない。もし、本当に早川繭美が事件の真犯人だとすれば、我々はちゃんと探し出す!」
八雲の言葉に河西は思わず声を荒げて言い返した。
「……」
「警察が信用出来ませんか?」
「……ま、それが本当ならいいですけどね」
ぽつりと八雲が壁にかかってる時計を見ながらつぶやいた。
「それじゃ行きましょうか?」
河西が八雲と田宮を促す。
――その時だった。
キキーーーーーー!
突然、車の急発進するような音が聞こえてきた。
河西はハッとして、走り出した。
部屋を飛び出すとエレベータを待たずに非常階段を駆け下りる。八雲と田宮もその後に続いた。
ビルを出た瞬間、暗闇のなかに道路脇に転がっている堂本の姿があった。
「堂本!」
河西は駆け寄った。「どうした?」
「や……やられました……」
河西に抱き起こされ、堂本が低くうめくように言った。その腕は自分の喉元を苦しそうに押えている。
「どうしたんだ?」
「あの女です……早川繭美です」
「何だと?」
「里美……と同じ顔……後ろから襲われました……あれは繭美だと思います」
苦しげに堂本は言った。
「繭美だと? 里美は?」
「すいません。車ごと――」
「連れ去られたのか?」
「……はい……すいません……」
堂本を抱きかかえながら、河西は悔しそうに車が走り去った闇を見つめた。




