チャイム 10.2
どこへ行こう……
里美は街をさ迷っていた。
まだ陽は高く、頭上には青空が広がっている。だが、頭のなかには相変わらずモヤモヤとした雲が広がっている感じが続いていた。
小柳美幸に言われるままに車に乗ったところまでは憶えている。そして、車のなかで美幸がいろいろと小松英彦のことを話していたことも、ところどころは記憶に残っている。だが、その後美幸とどんな話をしたのか、どこで別れたのかは思い出すことが出来ない。
気づいた時、里美はこの人の波のなかをぼんやりと歩いていた。自分がどこをどう通ってここまで歩いてきたかも思い出せない。
(私、どうしてしまったんだろう……)
歩道橋にのぼり、忙しそうに行き交う人々の姿をぼんやりと眺める。
――あんたが英彦を殺したのよ!
美幸という女の言葉を思い出していた。
確かに美幸はそう言った。
(私が英彦君を……?)
――あの日、あんたが英彦の車でアパートに行ったこと、私、知ってるんだから
(私が……?)
何もわからなかった。
だが、美幸は英彦の車の助手席に乗る里美の写真を突き出した。
(写真……)
なぜ、そんな写真を美幸が持っているのか……それを考える以前に里美の頭は混乱してしまっていた。
逃げなきゃいけない。
里美はその一心で美幸の車を飛び出した。
だが――
(どこへ行けばいいの?)
自分が英彦を殺したかもしれないという思いに里美は押しつぶされそうになっていた。
「里美ちゃん!」
突然、声をかけられ、里美ははっとして振り返った。紺のスーツを着た高木博明がそこに立っていた。
「先輩……」
「やっと見つけたよ。いったいどうしたんだ? 八雲の奴がずっと心配してるよ」
「八雲さん?」
「ああ、俺のとこにまで電話よこして捜してくれって騒いでた」
「それじゃ先輩も私のことを――?」
「まあね」
「ごめんなさい」
「いいさ。俺もたまには会社サボるのもいいと思ってね。早く八雲のところに行こう」
八雲なら助けてくれるかもしれない。小さな希望の光が心のなかに差し込んだ気がする。
(でも――本当にそんなことしていいの?)
もし、美幸の言っていたことが本当ならば、自分は英彦を殺しているかもしれない。もし、助けを求めたりしたら八雲にまで迷惑がかかるかもしれない。
「とりあえず連絡して安心させてやらないと――」
そう言ってポケットから携帯電話を取り出した高木の手を里美は思わず押さえた。
「ま……待ってください」
「どうしたの?」
「八雲さんには……連絡しないで」
「なぜ? あいつ、里美ちゃんのことすごく心配してるよ」
それはわかっている。
「これ以上あの人に迷惑かけられない」
「あいつは迷惑だなんて思ってないよ」
「でも、ダメなんです……これ以上、私に関わったら……あの人が……」
里美の目から涙が溢れ出した。
「そう……」
高木は里美の思いを受け止めるように、携帯電話をポケットに戻した。
今は落ち着かせたほうがいい。高木は里美を見てそう思った。「じゃ、とりあえず俺のところにおいでよ」
「え?」
「ゆっくり話をしよう」
「でも……先輩……仕事は?」
「大丈夫。今日はもう早退してきたんだ。何も心配いらないよ」
高木はそう言って微笑んで見せた。
(私を捜すために?)
優しい高木の言葉に里美は頷いた。
* * *
散らかった小松英彦の部屋をぐるりと見回しながら、河西はずっと考えつづけていた。
(いったいこの部屋で何があったんだ?)
この部屋からは指紋が多数発見されている。すでに河西は内密のうちに早川里美の指紋も手に入れ、それがこの部屋から見つかった指紋の一つと一致することも確認していた。あの夜、居酒屋で目撃された女が早川里美であることはほぼ間違いないだろう。
「彼女、やっぱり嘘をついていたってことですよね」
堂本が背後から声をかけた。
「嘘か……」
確かに里美は『高校を卒業してから一度も会っていない』と言った。つい数日前に同窓会で会っているにも関わらずだ。
嘘だとしても、そんな下手な嘘をつくだろうか。
それにあの時の顔は明らかに嘘をついているような顔ではなかった。自分の言葉に自信を持って答えていたように見える。
それならどういうことだろう?
(忘れてしまった?)
ひょっとして里美は小松英彦に会ったことを本当に忘れてしまっているのではないだろうか。
「もう一度問い詰めてみますか?」
「ああ……」
もし、本当に記憶からなくなってしまっているのだとすれば、問い詰めたところで里美から真実を聞き出すことは出来ないだろう。それにもし、里美がこの部屋に来たからと言って、彼女が小松英彦を殺したとも考えられなかった。
被害者の顔を潰すというような犯行を若い女性が出来るとも思えない。もっと別の人間が存在しているような気がしていた。ただ、いずれにしても早川里美がここに来たことは疑うことのない事実だ。一度、事情を聞いておく必要がある。そして、その彼女に催眠治療を行ったといっていた八雲にも。
(八雲か)
不思議な雰囲気を持った男だった。
話をしているだけで、心のなかを覗かれているような気がしてくる。
その時だった。
堂本の携帯が鳴り出した。
「はい――」
河西は携帯電話を好まず、捜査本部からの連絡は常に堂本に入る仕組みになっていた。
堂本の表情が変わっていく。
「どうした?」
堂本は電話を切ると、その真剣な眼差しを河西に向けた。
「小柳美幸が殺されました。目白の公園脇の車中で死んでいるのが見つかったそうです」
「小柳美幸? ああ……小松英彦の元の彼女か……」
河西の頭のなかに派手な姿の美幸の顔が浮かんできた。「死因は?」
「絞殺だそうです。やはり首の骨を折られていたそうです」
「よし、すぐに現場に向かおう。それと早川里美が今どこにいるか確認しろ」
河西はそう言いながら部屋を出た。
もっと早く早川里美の身柄を押さえるべきだったと後悔していた。
* * *
川口市にある高木のマンションに着くと、高木は里美を大きなクッションの上に座らせキッチンへ飛び込んだ。
「さあ、飲んで。暖まるよ」
キッチンから戻ってくると高木はそう言ってテーブルの上にコーヒーを置いた。
「すいません」
里美はそう言って頭を下げた。
いくぶん落ち着いてきているが、まだ何かに脅えたような目をしている。
里美をこの部屋に入れると高木はキッチンに隠れ、すぐに八雲に連絡をいれていた。里美は八雲に迷惑かけたくないと言っているが、今はそんなことを言ってる場合じゃない。
――引き止めておいてくれ。
おそらく今ごろ八雲はこっちに向かっていることだろう。
高木は黙ってコーヒーを口にする里美を見つめた。むしろ今は余計なことを詮索しないほうがいい。八雲からも『今はそっとして彼女に何も考えさせるな』と言われている。
「私……」
突然、里美が口を開いた。「人を殺したかもしれないんです」
さすがにその里美の言葉に高木は息を止めて里美を見た。
「誰を?」
「高校の同級生」
「それはどういうこと?」
高木は思わず聞き返した。
「わかんない……でも、私が殺したって……」
「誰かにそう言われたの?」
「……はい……」
「……誰に?」
大丈夫だろうかと心配しつつも高木は里美に訊いた。
「美幸って人……英彦君の恋人だって言ってました」
「英彦君……って、小松英彦のこと?」
高木も英彦のことは知っていたし、新聞で事件のことも読んでいる。
「はい」
小さく里美は頷いた。
「そっか……でもさ、そんなの気にすることないんじゃないかな。その人は何か事件のことを知っているの? ただ、適当に君がやったと思い込んでるだけじゃないの?」
一つ一つ言葉を選びながら声をかけた。
「でも……その人、私が英彦君の車に乗ってる写真持ってたんです……私、ぜんぜん憶えてないんです……最近、何かあってもすぐに忘れちゃう……」
里美はそう言って頭をかかえた。
考えれば考えるほど、頭のなかに靄がかかってくる。
「里美ちゃん――」
その時、チャイムが鳴った。
(八雲だ)
高木はホッとして立ち上がった。「ちょっと待ってて」
(八雲なら何とかしてくれる)
高木はすぐに玄関口に急いだ。
* * *
その電話がかかってきた時、ゆう子は嫌な予感がした。
マナーモードに設定されている携帯電話はバッグのなかで振動を繰り返している。一瞬、無視しようかどうしようかを迷いながらも、ゆう子は電話にでた。
「はい――」
――河西です。
やはり電話に出なければ良かったと後悔した。目の前にあるパソコンのディスプレイではゆう子が作ったゲームキャラクターが軽やかに踊っている。
「なんですか?」
ゆう子はぶっきらぼうに訊いた。
――日野さん、今、どちらにいらっしゃいますか?
「会社です」
――今日はずっと会社に?
「そうです。いったい何なんですか?」
イライラしながら答えた。ゆう子は河西という刑事をどうしても人間的に好きにはなれなかった。
――小柳美幸が殺されました。
『殺された』という言葉には少し驚いたが、ゆう子にとってそれは聞いたことのない名前だった。
「誰なんですか? それ」
――小松英彦の別れた彼女らしいです。
「……」
――会ったことは?
「あるわけないでしょう」
まだ自分のことを疑っているのだろうか。
――やっぱりねえ
明らかにがっかりしたような声だ。
「いいかげんにしてください」
――すいません……あ、けど早川さんは小柳美幸と知り合いのようですよ。
「え? どうしてです?」
――小柳美幸の手帳のなかに彼女の携帯の番号が書いてあったんですよ。
河西の言葉にゆう子はギョっとした。
「……里美はなんて言ってるんです?」
――それが連絡が取れないんですよ。会社は午後から退社してるらしいんでね……どこか彼女が立ち寄りそうなところご存知じゃありませんか?
「……いえ……」
ゆう子は口篭もった。
学生の頃もよほど体調が悪いときでない限り、里美は早退などしたことはなかった。
(どこへ行ったの……?)
胸騒ぎがする。
* * *
ドン……という音がどこかから聞こえた気がして、里美はハッとして顔をあげた。
いつの間にか高木の姿が見えない。
いったいどこへ行ってしまったのだろう。
「先輩……?」
ふらりと里美は立ち上がった。
テーブルの上のコーヒーカップから湯気が立ち上っている。
(先輩……)
ほんの数分前まで目の前で話をしていたはずだ。ついさっきまでの記憶までもが途切れ途切れになっている。
嫌な予感がしている。
(嫌だ)
ぐるぐると部屋が回る。
精神的な不安は体のバランスまでも大きく乱し始めていた。
気持ちを落ち着けようと、大きく息を吸ってからゆっくりと足を踏み出した。
「先輩……」
不安で心臓の鼓動が激しくなる。
ゴソリと玄関口で音が聞こえた。
「先輩?」
恐る恐るドアを開け玄関口を覗く。すると高木がドアのほうに体を向けて、俯きがちにその場に蹲っているのが見えた。
「先輩?」
里美は高木に近づいていくと、そっとその肩に触れた。高木の体がガクリと揺れ、仰向けに倒れた。
「キャァーーーーーーーー!」
里美は思わず悲鳴をあげた。
高木の腹の辺りに一本のナイフがにゅっと突き刺さっているのが見えた。白いワイシャツが血で真っ赤に染まっている。
「せ、先輩……」
思わず里美は飛びのいて目をそむけた。高木の生死を確かめなければいけないと思いながらも、足がガクガクと震えて近づくことが出来ない。まともに高木のほうに目を向けることすら出来ず、里美は這うようにリビングのほうへと逃げていった。
(どうしよう……どうしよう……)
ソファの陰に蹲り、自分の体を抱きしめる。自らの心臓の音が大きく鳴り響いて聞こえる。
このまま高木を放っておくわけにはいかない。
(警察……ううん、救急車を呼ばないと……)
そう思って動き出そうとした瞬間――
「里美さん!」
その声にハッとして顔を上げると、いつの間に現れたのかそこに八雲の姿があった。
「八雲さん……」
「大丈夫かい?」
そっと八雲の手が里美の肩に触れる。
「あの……高木先輩が――」
「わかってる。大丈夫だよ。まだ息はしてる」
そう言いながら八雲はリビングを出ると玄関口に倒れている高木に近づいていった。里美はゆっくりとその八雲を追って立ち上がった。八雲は倒れた高木の横にしゃがみ込むと、脈を図りながらポケットから携帯電話を取り出した。「もしもし! 救急車をお願します!」
その八雲の姿を見つめながら、里美はゆっくりと足を踏み出した。
(私と一緒にいたからだ……もしかしたら先輩のことも私が……)
自分のことが怖かった。
次の瞬間、里美は思わず部屋を飛び出していた。
「里美さん!」
里美を呼ぶ八雲の声を背中に受けながら里美は走っていた。
* * *
すでに空は真っ赤に染まりはじめている。
家路に向かう人々の波が駅へ向かっている。
その波に逆らうように里美はぼんやりと歩いていた。
(私……どこに向かってるんだろう……)
夕陽が顔に当たる。
今の時間まで、自分がどこで何をしていたのか記憶になかった。
(美幸……さん……)
(高木先輩……)
(どうしちゃったんだろう……私)
美幸に会ったことも記憶から消えはじめ、そして高木のこともあれが現実のものなのかどうかがわからなくなっている。
まるでずっと夢のなかをさまよっている気がしてくる。
自分の頭のなかがおかしくなってしまったようで、里美は怖かった。
「里美さん!」
突然、ぐいと肩を掴まれ、里美は驚いて振り返った。
八雲の姿がそこにあった。胸元がわずかに血で汚れている。おそらく高木を抱き起こした時に付いたものだろう。
里美はその血の跡を直視出来ず、思わず視線を落とした。
「八雲さん……」
「捜したよ」
「……ごめんなさい」
「いいんだ……大丈夫かい?」
優しい声で八雲は言った。
「はい……」
里美はうつむいた。「あの……高木先輩は?」
「さっき救急車で病院に運ばれていったよ。命には問題ないと思うよ」
「私がやったんでしょうか?」
「どうしてそんなふうに?」
「私、何も憶えてないんです。ずっと濃い霧のなかを歩いてるような感じがして……教えてください……私が高木先輩を刺したんでしょうか?」
里美は訴えるように言った。
「確かに君はとても不利な状況にいると思う。警察も君を捜しているだろう。でも、僕は君がやったとは思えないんだ」
さっきから八雲は里美を決して放さないとでも言うように、里美の腕を握りつづけている。
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
「君はそんなことが出来るような人じゃない」
「でも――」
「今からもう一度催眠治療をしてみないか?」
「え……」
「君の心のなかに事件を解く鍵が隠されてると僕は思ってる。そのためには君を催眠をかけ、君の心に直接話しかけてみたい」
「それでわかるんですか?」
八雲は静かに頷いた。
「少し急いだほうがいいかもしれない。さっき田宮さんにお願いして催眠室を貸してもらうように話してあるんだ。どうだい?」
「はい……」
この人なら助けてくれる。
八雲を信頼するしかなかった。




