チャイム 9
九
朝日がカーテンの隙間から飛びこんでくる。
斎藤正隆はベッドに横になりウトウトしていた。
浅い眠りのなかでこれまでの一週間のことを思い出し、そして、これからの一週間を考える。
これがいつもの週末の朝の過ごし方だった。
だが、突然のチャイムが正隆の眠りを妨げた。
「ん……」
正隆は目を覚ますと、軽く頭をあげて部屋を見まわした。
チャイムがもう一度鳴る。
(そうか……ゆう子はいないんだったな)
昨夜、ゆう子が里美のアパートに泊まりに行ったということを正隆は思い出した。正隆はジーンズを履き、ソファの上に脱ぎ捨てておいたシャツを羽織ると、大きく伸びをしながら玄関に近寄っていく。
「はい。どちらさん?」
ドア越しに答える。
「警察の者ですが……」
(警察?)
正隆はやや警戒しながらドアを開けた。もともと正隆が一人でいるときは鍵をかけたことはない。
「はい」
ドアの向こうに男が二人立っているのが見えた。
「突然、お邪魔してすいませんね」
男はぐいとドアを大きく開けた。
「今、警察って言った?」
「ええ」
男が警察手帳を指し示す。「北港署、河西です」
もう一人の若い刑事も名前を言っていたが、正隆は興味なさそうによそ見をしながら大きく欠伸をした。
「はぁ……何か? 何か事件でもありました?」
「ここは日野ゆう子さんの部屋ですね?」
「そうですよ。二人で住んでます」
「今日、日野さんは?」
「昨夜から帰ってないですよ。友達の部屋に泊まりに行くって言ってましたから」
「あなたは?」
「斎藤正隆……同居人って言えばいいですかね?」
「ああ、日野さんの同棲相手ですね」
『同棲相手』というところに妙にアクセントを強めて河西は言った。
「まあ……そうだけど……それで?」
「どんなお仕事を?」
「俺?」
「そうです。教えてもらえますか?」
「塾の経営をやってます」
「経営? お若いのにすごいですね」
「そんな大層なもんじゃありませんよ。小さな塾ですから。刑事さんお子さんは? もし良かったら刑事さんのお子さんもどうです?」
惚けたように正隆は言った。
「いや、ウチは結構。ウチの子は塾に通うほどの勉強もしてないんでね。ところで日野さんから事件のことはお聞きになっていますか?」
「事件って?」
河西の言葉に正隆の顔がわずかに強張った。
「先日、彼女の高校の同級生で小松英彦という男が殺されたんです」
「殺された? そりゃあ穏やかな話じゃないですね」
「聞いてないんですか?」
「別に一緒に住んでるからって相手の全てを知ってるわけじゃありませんよ。まさかゆう子が容疑者になってるんじゃないでしょうね?」
「いや、容疑者だなんてとんでもない。ただ、我々は被害者の周辺をいろいろと調べているだけですよ。どこに事件解決の糸口が転がっているかわかりませんからね」
「それで?」
「事件は水曜の夜に起こっているんですが――」
「水曜の夜? ああ、あいつのアリバイを知りたいわけですね。あの日は……部屋にいたんじゃないかな。ま、夜は大抵部屋にいるけどね」
「――なるほど。じゃあ問題ないですねえ」
そう言いながらも河西は正隆の表情の変化を見逃さないように見つめている。「そうそう、泊まりに行った友達っていうのは……」
「早川里美っていう高校の同級生ですよ。彼女とは卒業してからもずっと友達で、専門学校も一緒でしたから」
「早川里美ですか」
河西の額に深いしわが浮かび上がった。
* * *
里美とゆう子は八雲と約束していた十一時過ぎに『田宮サイコクリニック』のドアを開けた。
待合室は閑散として、ひんやりとした空気が部屋を包んでいる。冷えた空気は不思議と澄んでいるように感じる。
その壁には田宮洋平の写真が掛かっている。
田宮のことは二人とも何度かテレビのワイドショーで見たことがある。八雲からその名前を聞いた時には驚いたものだ。
「八雲さん、まだ来てないのかしら……」
ふと、ゆう子がつぶやく。
「でも、ドアの鍵は開いてたし……奥かな……」
里美はそう言いながら、診察室とプレートの貼られているドアをノックした。
すると、すぐにドアが開き――
「はい」
八雲が顔を出した。八雲は里美とその後ろに立つゆう子の顔を見てニッコリと微笑んだ。
「あ、おはようございます」
里美は頭をさげた。「よろしくお願いします」
「こちらこそ。日野さんも今日はありがとう」
「いえ――」
「それじゃ、こっちへ来てもらえますか?」
八雲に促され、二人は診察室へと入っていった。
「ここでやるんですか?」
里美は部屋を見回した。
「いえ、ここは普通の診察室。患者さんと話しをする場所ですよ。催眠を行うのはこの奥の『催眠室』です」
八雲はそう言いながらさらに奥のドアを開けた。
里美とゆう子が中を覗き込んだ。
小さな六畳程度の部屋には厚めの絨毯が敷かれ、窓には遮光カーテンが取り付けられている。その真ん中にリクライニングチェアーが、そして部屋の隅に小さなテーブルがありその上にメトロノームが置かれているのが見えた。
「こういうところは初めて?」
八雲に聞かれ、里美は首を振った。
「ええ……」
だが、そう答えてからわずかに首を捻る。
「どうしたの?」
「……いえ、なんとなく前にもこんな感じの部屋に入ったような気がするんです」
「そう」
一瞬、八雲は何か考え込むような仕草を見せたが、すぐに優しげな表情に戻った。「それじゃ、そんなに緊張はしないね。里美さんはそこに座ってください」
八雲に言われるままに里美はリクライニングチェアーに座った。
「私は?」
ゆう子の問いかけに、八雲は診察室からパイプ椅子を二つ持ってくると一つをゆう子に手渡した。
催眠室のドアを閉めると外の音がまるで聞こえなくなった。防音設備が取り付けられているらしい。
八雲は遮光カーテンを引き、外からの光を締め出した。
白く光る蛍光燈の薄く柔らかな光が部屋を包む。
「すいませんが、彼女の隣に座っていてあげてください」
そう言って八雲自身、彼女の右となりにパイプ椅子を置いて座った。ゆう子もまた、里美の左となりにパイプ椅子を置き座った。
「よろしくね」
と、小さく里美の口が動き、ゆう子は小さく頷いた。
「それじゃ、はじめましょうか。では目を閉じてください」
その言葉に里美は大きく息を吸い込み目を閉じた。緊張からか胸の前に組んだ手はきつく力がはいっている。
八雲は立ち上がると部屋の隅にあるメトロノームを持ってくるとそれを足元に置き、針を揺らした。
カッチカッチとメトロノームの音が小さな部屋にリズムを刻み始める。
緊張感のある空気にゆう子は息を飲み、八雲の動きに見入った。
八雲は再び里美の隣に座ると静かに話し始めた。
「メトロノームの音が聞こえますね」
静かで柔らかな声に里美は目を閉じたまま頷いた。
八雲は続けた。
「あの音を聞いているうちにあなたはやがて催眠状態に入っていきます。そして、それは次第に深い深いものになっていきます。それはあなたにとって深いくつろぎを与えます。とてもリラックスしていきますよ」
ゆっくりと、そして、柔らかく八雲は語りかけていく。
「この音が聞こえなくなったとき、あなたは深い催眠状態に入ります」
そう言いながら八雲は里美の様子を見ながらメトロノームの針を止めた。
ゆう子はその姿をじっと隣で見つめた。
里美の身体がリラックスしているのが見ていてもわかる。さっきまで力を込めて握っていた手からはすっかりと力が抜けている。
八雲はそっと里美の額に手をあてた。
「これからあなたに質問をします。ただし、僕が額に手を当てたとき以外、あなたは何も聞こえません」
ちらりとゆう子に視線を向けてから八雲は続けた。「さあ、あなたの名前を言ってください」
八雲の言葉に里美の口が開く。
「早川……里美」
力みのない里見の声。
「あなたは何歳ですか?」
「……21」
八雲は里美の額から手を離し、ゆう子に顔を向けた。
「これで里美さんは催眠状態に入りました」
「私の声は聞こえてるんですか?」
小さな声でゆう子は聞いてみた。
「いえ、さっき暗示をかけたように、今は僕が彼女の額に手を当てたとき以外は何も聞こえません。これであなたが何を話しても大丈夫ですよ」
「え?」
「何か僕に話したいことがあるんじゃありませんか?」
どきりとした。ゆう子は八雲に英彦が殺された事件について相談してみたいと考えていたからだ。
「なぜ……?」
「ここに入ってきた時から、そういう顔をしていましたよ」
静かな声で八雲は言った。「もし里美さんに関わるようなことなら、僕も聞いておいたほうがいいんでね」
優しくも大人びた八雲の表情にゆう子は――
(この人なら本当に里美を助けてくれるかもしれない)
と思い、全てを話すことにした。
ゆう子は英彦と里美の関係や、英彦が殺された事件のことを手短に八雲に話した。八雲は表情を変えずにゆう子の話に耳を傾けた。
「どうすればいいんでしょうか?」
「日野さんは里美さんが犯人だと思ってるんですか?」
「いえ……そんなことは」
「訊いてみますか?」
そう言って目を閉じて眠ったように座っている里美にちらりと視線を向ける。
「そんな……」
「真実を聞いたほうが日野さんも安心出来るでしょう?」
「え、ええ……でも」
「怖いですか?」
「……はい」
ゆう子は素直に頷いた。
「でも信じてるんでしょ? なら、大丈夫ですよ」
八雲は再び里美の額に右手をあてた。ゆう子は震えるのを抑えるように拳を握った。
「里美さん、聞こえますね」
と、そっと八雲が里美に声をかける。
「はい……」里美がゆっくりと頷く。
「あなたは小松英彦という男を知っていますか?」
「はい、知っています」
「最近、会いましたか?」
「はい」
「いつ会いました?」
「水曜日の……夜に……」
「どこに行きました?」
「居酒屋に……」
「その後は?」
「……」
ふいに里美が眉をしかめる。
「話したくないのですか? 大丈夫。僕を信用してください。さあ、答えて」
「よくわからないです。でも……たぶん……英彦君の部屋だと思います」
「そこで何がありました?」
「……」
「話してください」
やわらかく八雲が促す。
「……彼に……襲われました……」
言葉に詰まりながら里美は答えた。その里美の目から涙がジワリと滲み、雫となって零れ落ちた。
八雲はポケットから左手でハンカチを取り出すと、そっと里美の涙を拭い取った。
「その後は?」
「……わかりません」
「憶えていないんですか?」
「はい」
「では、あなたは小松英彦を殺しましたか?」
八雲の言葉に、見ていたゆう子の手が震える。
(違う……里美じゃないはずだ……)
ゆう子は息を飲み、祈る思いで里美の口元を見つめた。
「答えてください」
八雲に促され、里美の口が動く。
「いいえ……私……知りません」
その言葉にゆう子は全身の力が抜けていくような気がした。里美を見る八雲の目が優しく微笑んでいる。
「ありがとう」
すっと里美の額から手をはずし、ゆう子の顔を見た。「良かったですね」
「本当なんですよね?」
「大丈夫。この状態で嘘をつくことは不可能です。里美さんは殺しなどやっていません。そして、何も知っていません」
八雲ははっきりと言い切った。
「――はい」
「ただ――」
と、八雲は表情を厳しくした。「警察は信用しないかもしれませんね」
「ええ……」
ゆう子は河西の顔を思い出した。確かに警察は催眠によって導き出した答えなど信用しないかもしれない。
「記憶を変えてしまいましょうか」
八雲がぽつりとつぶやいた言葉にゆう子は驚いた。
「それって――」
「里美さんが小松英彦に会ったという記憶を消してしまうんです。会う約束はしていたけれど、それは翌週に延期になった。そうしてしまえば彼女が苦しむこともありません」
「でも、そんなことしても……いいんでしょうか?」
八雲の言葉にゆう子は戸惑っていた。
「それが彼女のためならね」
「でも……警察にはバレませんか?」
「いずれバレるかもしれませんね。けど、すぐにはバレることもないでしょう。ひょっとしたらその間に事件が解決する可能性もある。それに何よりも彼女にとって小松英彦の記憶は持っていないほうが良いような気がします」
そう言った八雲の目は迷ってはいなかった。八雲はゆう子の答えを待たずに、すぐに里美の額に手を当てた。
「これからあなたの間違った記憶を正してあげます。あなたは僕の言葉に従い、間違った記憶を正しいものに置き換えます。いいですね」
「……はい……」
素直に里美は返事をする。
「あなたは小松英彦と会いましたか?」
「……はい」
「いいえ、それは間違いです。あなたは小松英彦とは会っていない。小松英彦と会う約束は来週に延期になりました」
「延期?」
「そうです。火曜の夜、小松英彦からの電話で『飲み会』が延期になったことを聞かされたんです。だから、あなたは小松英彦には会っていない」
「英彦君には会ってない」
里美が八雲の言葉を繰り返す。
「小松英彦は高校の同級生です。そして、あなたは高校を卒業して以来、彼とは一度も会っていない。それだけのつきあいです」
「……それだけ」
ゆう子は唖然としてその様子を眺めた。目の前で里美の記憶が変わっていく。その八雲の力にほんの少し怖くなった。
「それじゃ、僕がこれから三つ数えてからあなたの額から手を離します。そうしたら、あなたは目を覚まします。そして、今起きてる事は覚えていません。いいですね?」
「はい……」
「では、1……2……3」
八雲は手を離した。
やがて、里美の目がゆっくりと開いていく。
「気分はどうですか?」
「なんか……すっきりしてます」
里美が八雲に答え、ゆう子に視線を向けた。「どうしたのゆう子……なんか怖い顔してる……」
「え? そ、そんなことないよ」
ゆう子は慌てて笑顔を作ってみせた。
* * *
里美とゆう子は途中、ファーストフードで昼食を済ますと里美のアパートに戻った。
その二人を待ち構えていたのは、河西慎一郎と若い刑事だった。二人はドアの前に立ち、里美の帰宅を待っていたようだった。
アパートの階段を登ったところでゆう子はその二人に気づき、思わず立ち止まった。
「……日野さん」
河西がゆう子に気づき手をあげた。
「河西さん……」
仕方なく近づいていく。里美は不思議そうにゆう子を見た。
「知り合い?」
それにゆう子が答えるより先に河西は警察手帳を里美に向けた。
「北港署の河西といいます」
「堂本です」
若い刑事も同じように警察手帳を出し名乗った。
「警察?」
里美が驚いた顔で二人の顔を見上げた。
「お二人はお友達ですか?」
河西はゆう子と里美を見比べながら訊いた。
「高校の同級生です。どうせそのくらい調べてあるんでしょう?」
わざとらしく尋ねる河西のやりかたにむっとしながらゆう子は言った。
「まあ……そう嫌わないでくださいよ。我々もこれが仕事ですから」
河西は笑った。「日野さんがいるということは……里美さんに小松英彦のことは――」
「私が話しました」
「そうですか。それじゃ話は早いですね」
河西は里美に顔を向けた。「日野さんから聞かれたと思いますが小松英彦が先日、自分のアパートの部屋で殺害されているのが先日見つかりましてね」
「昨夜、ゆう子が教えてくれました」
「そこで彼と親しかった人たちから話を聞かせていただいているんです」
河西は探るような目で里美に話し掛けた。河西は部屋のドアの前に立ち、まるで里美が部屋に逃げ込めないように立ちふさがっているように見える。
「私、彼とはそんな親しかったわけじゃありませんけど」
「でも、彼と連絡を取り合ってたんでしょ?」
「連絡……といっても二度ほど電話が来ただけです……」
「どんな内容です?」
「飲みに行こうっていう誘いの電話でした。それだけです」
「行ったんですか?」
「……」
一瞬、里美の目がきょとんとした顔に変わる。
「行ったんですか?」
河西はもう一度訊いた。
「いえ……本当は水曜日の予定だったんですけど……急に予定が変わって来週ってことになったんです」
すらすらと里美が答えるのをゆう子は不安げに見詰めた。八雲の催眠によって里美はすっかり英彦と会ったことは忘れてしまっているらしい。
「そうですか……」
「水曜の夜は何されてました? 木曜日は会社を休んでますよね」
若い堂本が河西の背後から口を挟んだ。すでに里美の会社の人間にも話しを聞いてきたようだ。
「えっと……水曜は五時に仕事を終わって……家にいましたよ。木曜に休んだのは具合が悪かったので……」
「いつもそんな早く仕事を終わられるんですか?」
「水曜日はノー残業日って会社で決まってるんです。だからよほど忙しくない限りは定時で帰れるんです」
「小松英彦のアパートへは行った事はありますか?」
河西の言葉に再び里美はきょとんとした顔つきをした。「早川さん?」
「え……ああ、ありません」
里美は答えた。
不思議そうな顔で河西は里美を見つめた。
「失礼ですが……友達が殺されたというのに、それほど驚いてはいないようですね」
「いえ、ゆう子から昨夜聞いたときにはびっくりしました。でも、彼とは高校を卒業して以来会っていないし、さっきも言ったようにそれほど親しかったわけじゃないので……」
「そんなもんですか」
河西は難しい顔になった。
「何かわかったんですか?」
ゆう子が河西に訊いた。
「いえ……実は彼の財布のなかから居酒屋のレシートが見つかりました。日付は先日の水曜の夜。で、店員に聞いてみたところ、一人の店員が小松英彦のことを憶えてましてね。小松英彦は女性と二人連れだったらしいんですよ。ただ、30分もしないうちに女性のほうが具合悪くなって抱きかかえるようにしながら帰っていったそうなんです」
「その女性っていうのは?」
「まだわかりません。今、捜しているところです」
河西はさっきから里美の顔を見つめている。だが、里美はたいした興味も持たないように一向に表情を変えない。
当てが外れたかのように河西は頭を掻いた。
「もうこの辺でいいですか? 私、部屋に入りたいんですけど」
里美が河西に訊いた。
「え……ああ……すいませんね」
河西は仕方なさそうにドアの前から身体を避けると、里美はバッグから鍵を取り出しドアを開けた。
「それじゃ」
軽く頭を下げると里美はなかへ入ろうとした。
「あ――」
追いすがるように河西が慌てて声をかけた。
「なんでしょう?」
「失礼ですが、今日はどちらへ行かれたんです?」
探るような視線で二人を見る。
「それは――」
その質問にゆう子はどう誤魔化そうかと考えた。だが、ゆう子が答えるよりも早く――
「お友達のところで催眠治療を受けに行ってきたんです」
ドアから顔を出して里美がさらりと答えた。
「催眠治療? どこか悪いんですか?」
「いえ、そういうわけじゃありません。実は私、子供の頃のことがあまり思い出せないんで、催眠治療で思い出せるんじゃないかって思いまして」
「それはどちらの病院です?」
「『田宮サイコクリニック』で……あ、でも催眠治療をやってくれたのはお医者さんじゃないんです。八雲さんっていう人にお願いしたんです。それじゃ」
ぺこりと頭をさげると里美は部屋のなかに入った。慌ててゆう子も後に続いた。
* * *
「どう思います?」
車に戻ると運転席に座った堂本が助手席の河西に声をかけた。「あの日、小松英彦が会ったのはあの二人のどちらかなんじゃないですかね?」
「俺もそう思ってたんだけどな……」
河西は言葉を濁した。
「居酒屋の店員に面通しさせましょうか? もし、あの店員が見たのが二人のうちのどちらかだとすれば十分な証拠になるんじゃないですか」
「店員も女の顔をそこまではっきりと記憶していないと言ってる。いいかげんな証言で逮捕しても、その後が面倒になる」
「でも――」
「それにな……俺にはあの二人とも嘘をついてるようには思えないんだ……」
長年の経験で相手が嘘をついているかどうかは判断出来る。だが、昨日の日野ゆう子も今日の早川里美といい、決して嘘をついている顔ではなかった。
ただ、少し気になるのは――
(あれはどういう表情なんだ?)
質問するたびにほんの少し見せる早川里美のきょとんとした表情。
その表情が妙に気になっていた。
「まあ、接点は少なすぎますね」
早川里美、日野ゆう子の二人とも高校を卒業して以来、先日の同窓会までまったく接点がない。小松英彦を殺さなければいけないような動機は見つけられない。
何より河西が二人の犯行とは思うことが出来ないもう一つの理由があった。
河西が二人に黙っていたことがある。
それは小松英彦の殺され方だった。
小松英彦は細いロープのようなもので首を締められ、さらに首の骨までも折られていた。だが、それだけではなかった。顔が潰されていたのだ。バスルームから血痕が見つかった事から、おそらく殺された後にバスルームに運ばれ、そこで顔面を石のようなもので叩き潰されたのだろう。
(いったい何のために?)
河西にはそれがわからなかった。
顔は潰されていても、被害者の身元がわからなくなるほどではない。
考えられるとすれば――
(怨恨……)
そして、狭い洋服ダンスに押し込められていたことを考えれば女の力で出来るような犯行でないことは確かだ。
事件の夜、居酒屋で小松英彦が女性と一緒だったという情報を聞いた時も、河西はその女性が直接の犯人とは考えていなかった。そういう意味では早川里美も日野ゆう子も、河西の考えていた容疑者の枠からは外れている。
だが、どこか気にかかる。無関係ではないと刑事の勘が告げている。
「確かにな……」
「これからどうします?」
堂本がキーを差し込み、エンジンをかけた。アコードの静かなエンジン音が身体に伝わってくる。
「八雲って言ってたな」
「ああ、催眠治療とか言ってましたね。『田宮サイコクリニック』とか……行ってみますか?」
堂本がポケットから出した手帳を確認しながら答えた。
「うん。あとで一応、調べてみるか……その前に小松英彦に金を貸してたと言ってた女がいたな」
「小柳美幸ですね。小松英彦の別れた彼女らしいですね」
「まったく女癖の悪い男だな……」
「まったく」
堂本が相づちを打つ。
小松英彦を調べれば調べるほど、女関係にだらしがない男だということがわかってくる。中には薬を使ってレイプされたと訴える女まで出てくる始末だ。
「あの女のところにもう一度行ってみるか」
河西はそう言ってシートベルトを締めた。
「はい」
アクセルを踏みこむと、アコードは滑らかに動き出した。
* * *
河西たちの乗った車がアパートの敷地から出ていくのをゆう子はそっと窓から見送っていた。
「行ったみたいね」
そう言って窓から離れるとゆう子は視線を里美へ戻した。
「そう」
里美はたいして興味もなさそうに、帰り道に買ってきた服を袋から取り出し眺めている。
「里美、大丈夫?」
思わずゆう子は訊いた。
「何が?」
「……催眠のせいかな……どっか今日の里美は雰囲気が違う気がするの」
「そお? 頭がすごくすっきりしてるの。長い間胸のなかに溜まってたモヤモヤがやっと消えたような感じがするの」
明るい顔で里美は答えた。そう言われてみると確かに里美は清々しい顔をしているように見える。
小松英彦のことを記憶から消したせいだろうか。
(でも……これで本当にいいの?)
ゆう子の胸のなかに一抹の不安がこみあげていた。
その時、部屋のチャイムが鳴った。
その音にゆう子ははっと我に返った。
「はーい」
里美が玄関に駆け寄っていく。催眠のおかげか里美の動きがいつもよりも軽快に見える。
「こんちは」
聞き覚えのある声にゆう子は玄関口を見た。
斎藤正隆だった。その姿を見て、ゆう子も玄関口へと歩いていった。
「どうしたの?」
「警察が来なかったか?」
「うん、さっき帰って行った。どうして知ってるの?」
「朝、俺のところに刑事が訪ねてきたんだ」
「ホント?」
「殺人事件だって?」
「……うん」
「どういうことか後でちゃんと説明しろよ」
そう言いながら正隆は靴を脱ぐ。「それで? 催眠治療、どうだった?」
「見てのとおりよ。すっごいすっきりした顔してるでしょ」
笑いながらゆう子は里美を指差した。
「へえ、すごいね。そういや、『田宮サイコクリニック』ってテレビとかに出てる田宮洋平のやってる病院だろ?」
そう言ってカーペットの上に腰を降ろす。
「そうそう……私も今日になって気づいたの。待合室に先生の写真とか飾ってあった」
「俺も一回そんな有名な先生に会ってみたかったなぁ」
どうやら正隆は田宮洋平が催眠治療をやったと思っているらしい。
「あ、それなんだけどね――」
ゆう子は催眠治療をやったのが田宮ではないことを説明しようとした。だが、その瞬間、正隆のポケットの携帯電話が鳴り出した。
「あ……ごめん」
正隆は立ち上がると、携帯電話をポケットから取り出して耳に当てながらキッチンに出ていった。
「彼、誤解してるみたいね」
里美も正隆が誤解していることに気づいたらしく、クスリと笑った。
「まったく早とちりなんだから」
「でも、せっかくだからそういうことにしておこうか?」
「え?」
「有名な先生に診てもらったって思わせとくのも面白いじゃない」
「――そうね」
そう言った時、正隆が携帯電話をポケットにしまいながら戻ってきた。
「ごめんごめん――で、さっき何か言おうとした?」
「ううん、べつに」
ゆう子はわざとらしく笑顔を作ってみせた。
* * *
週末の休みが終わっていく。
頭のなかが清々しい。
まるで春の風に吹かれ高原に寝転がっているほどに心地よい気分だった。
里美は買い物袋を手にぶら下げ、近所のスーパーから帰ってくる途中だった。
『催眠状態』のときに何を訊かれたのか、そして何を言われたのかは憶えてはいない。だが、そんなことは今の里美にはどうでも良かった。
催眠から目覚めたときの気分はそれまでのものとはまったく変わっていた。
一日過ぎた後も、里美の心は晴れ晴れしていた。
――また来週ね
本格的な『退行催眠』は、また来週行う事になっている。
早くも里美は来週の催眠治療を心待ちにしていた。きっと治療を続ければ、いつかは記憶の奥に隠れていることも思い出せることだろう。だが、その里美の気持ちを踏みにじるかのようにバッグのなかの携帯電話が鳴った。
携帯電話に表示された番号はまるで知らない物だった。
「はい」
それでも里美は電話に出た。
――ねえ、早川里美ってあんた?
里美が電話に出るなり、その声はぶっきらぼうに言った。
若い女の声だ。
その失礼な言い方に思わず里美は眉をしかめた。
「ええ……あなた、誰です?」
――あたし、美幸って言うんだけど……あんたさぁ、英彦に会ったんじゃないの?
「え? 英彦? 英彦君のことを言ってるんですか?」
里美は思わず立ち止まった。
――この前、あいつ言ってたんだよね。『俺はあいつと付き合うから』って
「そんなの私知りませんよ」
――でも、会ったんでしょ?
「いえ……会ってませんよ」
――別にあたしは警察じゃないんだから、そんな嘘つかなくたっていいんだよ。
「嘘なんてついてませんよ」
――あたしさぁ、あの日あんたと英彦が一緒にいるところ見てるんだよね
この人は何を言っているんだろう……。
里美は美幸という女の言っていることがわからなかった。だが、さっきまでの心の清々しさは消え去り、今は大きな不安が黒い煙のように頭のなかにかかっている。
(頭が痛い)
里美は額に手を当てた。
「あなた……何言ってるの?」
――あんた、英彦の車に乗せられてアパートに連れていかれたでしょ? 知らないとでも思ってるの?
「……知らない」
――惚けたって無駄よ。別に黙っててあげてもいいんだけどさ。でも、タダってわけじゃねえ
電話口で女は嫌らしく笑った。
「ふざけないで!」
――そんなこと言っていいの?
(頭が痛い……)
目眩がする。
手が震える。
一瞬、頭のなかで、誰かの声が聞こえた気がした。




