チャイム 1
私はドコ?
私の身体はここにあるけれど……
私の心はドコ?
あの日、姿を消したもう一人の私。
でも、あなたはいつも私の傍にいる。
もう一人の私……
この身体はあなたのもの
私の心はあなたのもの
一
秋の冷たい風が田んぼの淵のすすきを揺らしている。
すでに稲の刈り入れはほぼ終わり、ところどころにわずかに杭にかかった稲穂が見えるだけだ。
高速道路からつながる国道は行楽帰りの家族連れの車で動きようのないほど混みあっていた。早川里美と日野ゆう子の乗る白いMRワゴンもそのなかにあった。今年の春、ゆう子が専門学校を卒業して就職する時に、父から買ってもらったものだ。
車外は北からの風でわずかに冷たく感じるが、車内は秋の日差しを浴びてぽかぽかと暖かく感じられる。だが、ハンドルを握るゆう子にとってはその心地よさよりも、目の前に続く車列の心地悪さのほうが強く感じられるらしかった。
「まったく何やってるのよ!」
ゆう子はいら立ちを隠そうともせず、ハンドルを持つ手をぎゅっと握ってクラクションを二、三度響かせた。すぐ前を走るワゴン車のなかで、若いカップルらしい男女がうるさいとでもいうように後ろのゆう子たちをちらりと振り返った。もちろんそんなことくらいで流れがスムーズになるはずがないことくらいゆう子もわかっている。
「そんなにカッカしないでよ」
対照的に里美はいくぶん落ち着いた声で、いら立つゆう子を宥めるように言った。
里美は幼い頃に両親を亡くし、その後育ててくれた祖父母もすでになく、今は都内で一人アパートを借りて暮らしている。
決して自分がのんびりした性格だとは思わないが、短気なゆう子と比べると十分大らかといえるかもしれない。化粧も薄く、丸顔にぱっちりした目のためか、21歳になった今でも時々、高校生に間違われることがある。
二人は昨日、実家のある静岡で開かれた高校の同窓会に出席した帰り道だった。
高校を卒業して三年が過ぎる。去年の成人式には二人とも出席しなかったので、同級生たちとはほぼ三年ぶりの再会だった。殊に長年育ててくれた祖母を失い、身寄りの無い里美は静岡に帰るのは高校卒業以来初めてのことだ。
二人は高校を卒業後、コンピュータ関係の専門学校に二年通い、今年の春に就職したばかりだった。専門学校に行くことを決めたのは里美が先だった。高校二年の時に祖母を失い、一人になった里美にとってそのまま家に残る理由はなかった。
ゆう子はもともとは服飾デザイナーになるのが夢だったのだが、家族に反対され里美と同じ専門学校に通うことに決めたのだった。そのため、専門学校を卒業するときも里美は比較的簡単に就職先を決めたが、ゆう子はもう一度デザイナーになるための勉強をするかどうかを卒業するギリギリまで悩んでいた。だが、結局、都内にある会社にゲームプログラマーとして就職することになった。ゆう子の両親が服飾デザイナーになうことを反対していたのは、一人娘であるゆう子に家に残って欲しいという思いからだったようだが、ゆう子は両親に反発するようにわざと家から離れた専門学校を選び、高校卒業してすぐに家を出た。両親が車をゆう子に買い与えたのは実家に頻繁に帰ってきて欲しいという思いからだったようだが、それに反してゆう子は年に一、二度程度しか帰ろうとはしなかった。
「もう……」
ゆう子はまたもクラクションを鳴らした。「イライラするなぁ」
「落ち着いてよ、ゆう子」
「どうしてこんな田舎の一本道で渋滞してるのよぉ」
指を小刻みにハンドルに叩きつけるようにしながらゆう子は相変わらず真正面をきつい目で睨んだ。目が大きく眉のはっきりとした顔立ちのゆう子の顔は、黒いストレートのロングという髪型も手伝って、やけに大人っぽく見える。普段、子供っぽく見られがちの里美にとっては大人っぽいスーツを着こなすことの出来るゆう子の容姿は羨ましく見えた。ただ、ゆう子の性格はというと男まさりで小さな軽のMRワゴンに乗りながらも一度アクセルを踏みこんだならば決して緩めないようなところがあった。ついさっきまで高速道路をびゅんびゅん飛ばし続けていたためか、ある程度の渋滞は里美にとっては心地の良い感じすらしていた。
「焦ったってどうしようもないよ。ゆっくり行こうよ」
「里美って気が長いわね」
ゆう子はため息をついた。
「私は普通。ゆう子が短気過ぎるのよ。イライラしてみてもどうせ渋滞が解消されるわけじゃないんだもん。同じ時間過ごすなら楽しくしてがほうがいいじゃないの」
里美はそう言うとカーステレオのボリュームを少し高くした。里美の好きなゴスペラーズの綺麗なメロディーラインが車中に響き、シートから身体のなかにリズムが伝わってくるようだ。
「そりゃそうだけど……」
「それにしてもみんな変わってないね」
昨日の同窓会のことを思い出して、里美はぼんやりとつぶやいた。
「誰のこと言ってるの?」
意地悪そうな目でチラリと里美に視線を向けながらゆう子は笑った。その目の奥でゆう子がもっと別のことを言おうとしていることが里美にはすぐにわかった。
「何よ、その言い方」
「確かに小松君は昔からかっこよかったものねぇ」
からかうようにゆう子は言った。
「誰が小松君の話をしたのよ。私はみんなのことを言ったのよ」
ゆう子は里美が今でも小松英彦のことを好きなのだと誤解しているようだ。
実は、ゆう子は知らないことだが、高校二年の夏、ほんの数週間の間だけ里美は英彦とつき合ったことがあった。だが、すぐに英彦が隣のクラスの子ともつき合っていたことが発覚し、里美は英彦と別れることになった。その後、英彦は里美とよりを戻そうと何度か電話してきたが、里美は相手にしなかった。
――もともとあいつとは別れるつもりだったんだ。
英彦はそう説明したが、どういう気持ちであれ二股をかけたことには変わらない。それにほんの数週間ではあったが、英彦と付き合うなかで、英彦がいかにいい加減な性格かを里美は十分に感じ取ることが出来た。英彦と別れることに何の迷いもなかった。
今、英彦は都内のK大学に通っているらしい。昨日の同窓会でもほんの少し話をした程度だったが、その性格の軽さは高校の時よりもさらに輪がかかったような気がする。
そんな事情もあって、今では英彦に対して特別な思いなど持っていなかった。
今となっては何もかも懐かしい思い出だった。
「それにしてもいったい何してんのかしら。まったく腹立つなあ!」
ゆう子は再び前方の車の列を眺め腹立たしげにつぶやくと、煙草を一本くわえ火をつけた。白い煙りが車内にその匂いとともにふわりとたなびく。
煙草を吸わない里美にとっては車内で吸われるというのはどうにも耐えられないものだったが、今のゆう子の心情を考えて黙ることにした。里美はそっとハンカチを取り出すと口許に押し当てながら窓の外を伺った。
少しずつ車が流れていく。
「あらぁ……やっぱりかぁ」
ゆう子が驚いたような声をあげた。
「どうしたの?」
「おかしいと思ったのよね。いくら行楽シーズンだからってこんな田舎の一本道で渋滞なんてしてるはずないのよ」
そう言ってゆう子はカーステレオのスイッチを止め、前方の様子を眺めた。
「どうしたの?」
「事故みたいね。ほらあそこ」
「事故?」
ゆう子の言葉に里美はゆう子の指さす方向を見た。遥か前方、向かって左側の路肩にパトカーと救急車が見える。その隅にすでに車種もわからないほどのスクラップと化した白い軽自動車が見えた。他に事故の関係車両が見当たらないところをみると、あの軽自動車単独での事故だろう。
「だっさーい! こんな一本道でよく事故なんか起こせるわね」
ゆう子はその状況を見て声をあげた。
とろとろと少しずつ車は流れ、しだいに事故の惨状がはっきりと見てとれるようになっていった。
救急車の頭に乗っかっている赤いサイレンが事故を生々しく伝えている。
(いやだな……)
子供の頃からパトカーや救急車のサイレンが聞こえる度、得体の知れない怖さに襲われる。あの赤い光が人の命を奪い去っていってしまうように思えるのだ。里美にとってあの赤いサイレンは死神が舞い降りるための着地点のように思える。
その時、里美とゆう子を乗せた白いMRワゴンはどの車よりもその事故現場に近づいていた。
道路には割れたガラスの破片が散乱している。
「うわ……悲惨」
ゆう子は煙草を灰皿に押し付けた。
里美は眉を潜めながらも、警察官や救急隊員が忙しなく動き回る様子を眺めていた。軽自動車の運転席側はぐしゃりと潰されている。どうやら車の中には運転手がまだ取り残されているらしく、その潰れたドアを隊員たちが電動カッターで切り開こうとしている。
(あ……)
ふと里美の目が一点に止まった。
隊員たちの陰に隠れ、潰れた車の脇に一人立つ女性の姿が見えた。
事故の関係者なのだろうか。ぼんやりと事故にあった車を見つめている。それはまるでその風景とはまったく異質な存在のように思えた。
その女性は白い膝下までのワンピースを着て、髪は腰まで長く、その肌は透けるほど白い。
その顔を見た時、里美はハッとした。
(あれは――)
まるで鏡でも見るほどに、その女性は自分に似ているように思えた。
(カスミ)
突然、頭のなかにその名前が浮かび上がった。
(え……誰……?)
自分でもなぜその名前が頭のなかに浮かんだのか、里美にはわかなかった。もちろんその女性の事など里美が知るはずもない。
里美達の乗るMRワゴンが事故現場の横を通り過ぎる。
次の瞬間、その女性が里美のほうへ視線を向けた。
じっと女性の黒い瞳が里美に注がれている。その瞳はあまりに深く、里美は心を吸い込まれてしまうような錯覚に陥った。
それはほんの一瞬だった。
その時、バンという大きな金属音とともについにドアが破られ、潰れた白い軽自動車から、救急隊員の手によって血に全身を染めた男の体が引きずり出された。
担架に乗せられる一瞬、里美はその男の顔をはっきりと見てしまっていた。頭から足の先まで、全身がぐっしょりと血で濡れている。
「やだ……」
思わず目を伏せた。だが、すでに里美の頭のなかには血で染まった男の姿が焼き付けられてしまっていた。それはほんの一瞬の出来事で、男はすぐに担架に乗せられ、救急車のなかに吸い込まれていった。
恐る恐る顔をあげると、ついさっき脇に立っていた女性の姿も消えている。
救急車のサイレンがたちまち鳴りはじめる。ゆう子は仕方がなさそうに車をピタリと端に寄せた。救急車がその脇を通り、前方へと進んでいく。しかし、いかに車を寄せてみても渋滞を巻き起こしている状態ではなかなか救急車も進むことは出来ない。いつまでもいつまでもそのサイレンのけたたましい音が聞こえてくる。
里美は目を閉じると耳をふさいだ。それでも微かに指の隙間からサイレンの音が聞こえてくる。
「このまま救急車の後ろをついていけば一気に遅れを取り戻すことが出来るわね」
ゆう子はそんな冗談を言って笑って里美のほうを見た。里美は頭を低く落とし、耳を塞いで振るえている。
「里美? どうしたの?」
里美の様子に気づいたゆう子は驚いて声をかけた。
「……サイレンが……」
「サイレン?」
ゆう子はハッとした表情になった。里美が救急車のサイレンの音を怖がることはゆう子も知っている。「待ってね――」
そう言うとすぐにステレオのスイッチを再びいれて音量をぐんとあげた。なんとかサイレンの音はリズミカルな音楽でかき消された。里美もややホッとした顔をみせて耳から手をはずした。けれど、それもほんの一瞬だった。
聞こえるはずのない救急車のサイレン音が、ステレオから流れる音楽に混じって強く聞こえてくる。
体がびくりと竦み上がり、再び手で耳を塞ぐ。
「里美……」
再び力一杯耳をふさぎ、目を閉じて歯を食いしばっている里美の姿を、ゆう子は驚いて見つめた。これまでも遠くから聞こえてくる救急車のサイレン音に里美が怖がって耳をふさいでいる姿を何度も見てきている。しかし、これほどまでに怯える姿を見るのは初めてのことだ。
「大丈夫?」
ゆう子が里美に声をかける。
だが、誰よりも心のなかに湧き上がってくる恐怖心に驚き、脅えているのは里美自身だった。これまではどんなにサイレンの音が怖いと感じても、それを直接に自分とつなぎ合わせて考えたことはなかった。これまではたとえサイレンが聞こえてきても、それは自分とは関係のないものだと言い聞かせ、一時的に恐怖から逃れることが出来た。しかし、今日はそんなことが出来ないほどに恐怖が心の底にしっかりと根をおろしてしまっている。
まるで死神が自らの頭上の上に降り立ってしまったようなこの感覚。
(なぜ? いったい私どうしちゃったんだろう……)
事故を目の当りにしてしまったからだろうか。事故にあったあの男の血に染まった顔を見てしまったからだろうか。それとももっと別の何か他の理由があるというのだろうか?
それは里美にもわからなかった。今のこの状態では考えることも出来ない。サイレンがステレオから流れでる音楽をかい潜り、懸命に耳をふさぐ里美の手の隙間をくぐり抜け、彼女の心の奥までも侵入してくる。まるでその音全てを里美の体に染みわたらせようとしているかのように。
やがて、渋滞の車は少しずつ両側へと流れ、そのけたたましい恐怖の音を鳴らしながら救急車はしだいに遠ざかっていった。
「里美? 里美!」
サイレンがすっかり消え去るのを確かめるとゆう子は里美の体を揺すった。肩まである栗色の髪がサラサラ揺れる。
里美は恐る恐る顔をあげた。
ちらりと脅えきった里美の視線がゆう子の顔を横切る。
「もう大丈夫。もう救急車なんか行っちゃったよ!」
里美の尋常とはいえない脅えかたに、ゆう子はどこか怖いものを感じ取っていた。ゆう子は里美の右手を持って激しく揺さぶった。その里美の腕の冷たさがゆう子をぞっとさせた。ゆう子の力に里美もやっと白く染まった腕を外した。
「……もう行ったの?」
里美は怯えた子供のような目でゆう子に聞き返した。体がまだ小刻みに震えている。
「うん。もう大丈夫。ね? もう聞こえないでしょ」
なぜこの子は救急車のサイレンごときにこれほど脅えるのだろう。そう思いながらもゆう子は優しく話し掛けた。
「……うん」
里美は力なく頷いてから弱々しくもニコリと微笑んで見せた。「やだね、なんでこんなに怖いんだろ」
すっかりサイレンの音は消え去っている。再び車がスムーズに流れ始めた。
里美はほっとため息をついた。
ふと、頭のなかにさっき見た女性の姿が思い出された。
(あれは……誰?)
心のなかに不安が渦巻きはじめていた。




