低気圧
大抵、雨が降るといつもそうなる。眼球と脳の境目みたいなところから頸の辺りにかけて、しかもそれは上の方を遠回りしながら来る。それもなぜか左だけ。
梅雨の空気はただでさえ嫌なのに、この頭痛がもっと嫌にしてくれる。
すぐに止みそうだと思ったから、雨宿りなんかしてみたけれど、かれこれ三十分は経っている。もう諦めて濡れながら帰ったほうがいいのかも知れないけれど、これで帰ったら負けのような気がする。あたしは雨なんかには負けない。
雨がアスファルトを絶え間なく鳴らす音のなかに、時たま車が水を蹴散らしていく音が混じる。まぁ音楽っぽくなくもないかな。だからというわけではないけれど、なんとなしに出てきたものを口ずさむ。
何故かあたしの前で止まった足音があった。ちょっとしてもまだそれは動かない。
早く行ってよ。もう。
眼をやると、頭痛が跳ねた。
「何?」
思わず刺すように言葉が出てしまった。
あたしはこの男が嫌いだ。剃ればいいのに、いっつもあごに無精ひげをぶら下げて、やる気のない顔をしているし、授業中、制服の内ポケットに手を突っ込んでごそごそやっているから、何かと思って見てれば袖にイヤホンを通して、さり気なくラジオなんか聴いちゃって。
「お前、何やってんだ?」
何してようとあたしの勝手でしょうが。
「だれか待ってんのか?」
「別に」
あたしの話を聞いているんだか聞いていないんだか、後ろを、ふ、と振り返ってからまたこっちを見てからこう言った。
「傘無いんだったら入っていくか?」
もうこれ以上あたしの頭痛を悪化させないで。お願いだから。友達でも、ましてや恋人同士ってわけでもないのに一本の傘に一緒に入ろうだなんて、何考えてんのよ。でも多分、この雨は止みそうに見えるけど止まない。このままずっとここにいても仕方ないし、早いところ帰って頭痛をなんとかしたい。
「…あんたあたしん家知ってんの?」
「いや。どこ?」
「図書館の近くだけど」
「…あぁ。ちょうど本返そうと思ってたところだ」
こいつが本なんか読むなんてにわかには信じがたい。ま、どうでもいいけど。あたしは鞄を持って腰を上げた。
人と並んで歩くのは難しい。単純に、あたしがそれを苦手なだけかも知れないけど同じ歩調で、適度な距離で歩くのは骨が折れる。まして傘から出ないように、となると至難だ。
梅雨の雨は蒸し暑い。さっきからぶつかっている肩が熱くてたまらない。しかも頭痛のある左側。
さっきからずっと無言で歩いている。こいつはべらべらと喋るようなやつではないし、あたしはこいつが嫌い。そうなるのは自然なのだろう。相変わらずイヤホンでラジオを聞いていやがるし。
嫌いといっても、別に何かあったわけでもなく、ただこいつを見ているとイライラするだけ。何かもどかしいような、変な気分になる。何か、小突いてやりたくなるような、そんな感じ。
ふと眼をやると、こんなに近くであるいているから、片方だけはずして、肩にかかっているイヤホンからかすかにラジオの音が途切れ途切れに聞こえてきた。
「し――梅雨は嫌ですね〜。―――かが―きなんですけどねぇ。やはり―んはそん――。そうそう、雨と――ば、遣らずの雨、な―て言葉がありまして、――恋しい人を――なんて意味だそうです。素敵ですね〜」
一番大事な部分が聞こえなかった。遣らずの雨ってどういう意味? とか聞きたいけれど、盗み聞いてたなんて思われたくない。聞くのは止めておこう。
触れていた肩がさらに密着した。ここは左に曲がるのに、こいつは直進しようとしてたらしい。直進したって、図書館にはつかないのに。道間違えるほどラジオに夢中になるなっての。
「あぁ。悪い」
「別に。ねぇ。何借りたの?」
「なにが」
「本」
「……え〜と、あれだ。…こころ」
「ふ〜ん」
「なぁ、家まだか?」
「もう着くよ。あの団地の奥から二番目」
やっと家に着く。今までで一番長く感じたような、短く感じたような。そういえば雨はだいぶ小降りになった。もう傘もいらない程に。
「ん。じゃぁな」
こいつに礼を言うのはすごく抵抗がある。
「…ぁ、ありがとぅ……」
「ん?」
一回で聞けよ。あぁ、小突いてやりたい。もういいや。
「ん〜ん。なんでも。じゃぁね。バイバイ」
あいつはあたしの方へ、じゃぁな、と手を一回翻すと、傘を畳んで、来た道を歩きだした。そっちは図書館とは逆だよ、と言おうとした瞬間、頭の中で何かが引っかかり、それが取れるといつものイラっとした感じが頬の辺りをくすぐるように走った。
何が「丁度本を返そうと思っていたところ」だ。
小さくなっていくあいつの背中に、ぼそ、と言ってやった。
「ばーか」
そういえば、雨が止んだからか、頭痛は消えていた。
消えてしまった頭痛がちょっと名残惜しい気がした。