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人間は死に臆病な生き物だ。
所詮、生誕と破滅の機械的な連鎖でしかない時の経過に、感情があるばかりに執着し、恐怖を覚えるのだから滑稽に違いない。
だが、その愚拙な思考に恐怖を覚えるからこその人間であり、生誕と破滅の機械的な連鎖に、ご都合主義な価値観で意味を装飾し、満足するからこその人間なのだろう。
ゆえに、人間ならば誰しもが、死後を想像したことがあるはずだ。
無垢な例を挙げれば『閻魔大王様が天国行きか地獄行きかを判決する』。冷淡な例を挙げれば『万物は輪廻転生にて蘇生する』。悲愴な例を挙げれば『死後は無となって消滅する』。など、各々の価値観でもって、死後の解釈と結論に至ることだろう。
かく言う僕は輪廻転生の理論をご都合主義で解釈していて、自殺した後は愛嬌のある猫にでも転生して、飄々とした態度で純粋無垢な美少女から愛でられようと鼻を膨らませていたのだが(変態的嗜好)、生憎死後の現実は僕の想像と相当に異なっていたらしい。
事実、僕は困惑した。
頭蓋骨に強烈な衝撃を受けて意識が断絶した次の瞬間、意識が蘇ると舞台が学校から公園に変貌しているのだから現実離れも甚だしい。
公園。それも町の裏道に設置されるようなこぢんまりとした公園。遊具はそれぞれ端のほうに設置され、僕はその公園のど真ん中で直立していた。
僕は急な舞台の変貌に数秒ほど硬直したのち、事態の異常さを認識して辺りを見回す。
なぜ僕はこんな公園にいる!? 学園の屋上から飛び降り自殺を敢行した僕が、なぜこんな質素な公園にいる!? そもそもこんな裏道や質素な公園、東雲町(僕の住んでる町)には存在しないじゃないか!!
非現実的な展開と現実的な空間との差異が、僕の胸中に揺さぶりをかける。
ふと脳裏に過ぎった懸念から、僕は頭部を、頭蓋骨を入念に触ってみるが、傷とおぼしき外傷は見受けられない。心臓が高鳴るのを感じながら、続けて全身の外傷の有無を確かめるが、やはり傷とおぼしき外傷は見受けられない。
僕は戦慄した。
あれ程の高度から飛び降りて無傷であるという現実に戦慄しているのではない。
あれ程の高度から飛び降りれば死傷が当然という事実に戦慄しているのだ。
無傷という非現実的な現実が、僕の死を鮮明に証明していた。
僕は自殺んだ。だとすれば、ここは死後の世界。死後が輪廻転生でなく死後の世界に直結していたのはこの際構わないとして、これが本当に死後の世界なのか?
僕は焦燥の最中、再度周囲を見回してみる。
やはり眼前に広がるのは質素な公園。裏道を出ればある程度空間も広がるのだろうが、この世界は現実に忠実すぎる。天国にしては現実的すぎて、地獄にしても現実的すぎる、以前と微塵の差異も感じられない現実そのものの世界。本当にこれが、死後の世界なのだろうか。
不意に『自殺した際に意識不明の重体に陥り、夢を見ているんだ』という思考が脳裏を過ぎり、無我夢中になって頬を叩き続けるが、頬の痛みが現実を証明するばかりだった。
結局、死後の世界は現実同様の世界なのか!? 何度自殺のうが現実的な世界が反復されていくだけなのか!? 真の輪廻転生とは無間地獄のことだったのか!?
昂ぶる焦燥に呼吸を荒げながら空を見上げると、朝日の位置が自殺前と近似することに気づき、公園の端に設置された時計に目をやる。
早朝六時きっかりを示す指針を見て、僕は呆然と嘆息した。
現在時刻は死後の世界も同様か。現実に忠実な限りだよ。
焦燥することさえ億劫に感じた僕は、その場に蹲り、裏道を無為に眺め続ける。
正直、輪廻転生なんてご都合主義な理論を妄信していても、胸中の片隅では無になって消滅することを懸念し、覚悟していた。だから実際のところ、自殺を敢行した後も死後の世界で意識が現存している事実に、僕は心底安堵を覚えていた。
僕はとんだ臆病者だ。
自殺した分際で、意識が消滅しなかった事実に歓喜している。
自殺した分際で、残した母親に懺悔の感情を抱いている。
自身の自殺に、微塵ながら後悔を宿している自分が、情けなくてしかたがない。
自身の自殺に、微塵ながら懺悔した自分の身勝手さが、愚かすぎてしかたがない。
死後の世界に不満足を覚える自分が馬鹿馬鹿しく思えて、僕は唇を噛み締めた。
僕は何をのぼせているんだ。自殺なんて絶望的な堕落と究極的な敗北に他ならない選択を選んだ分際で、何を不満足など覚えているのだ。ご都合主義な輪廻転生が叶わなかったことが不満足か。死後の世界が現実的だったことが不満足か。のぼせるなよ。あれだけ悲観的になって自殺を所望したくせ、いざ自殺すればその顛末に不満足を覚えるなんて、僕は馬鹿か!?
ご都合主義な展開を羨望する自身の感情が許せなかった。
傲慢を隠せない自身の感情が腹立たしかった。
所詮、僕は身勝手な性質なのだ。臆病なくせに傲慢な性質なのだ。
僕が自身に憤りを覚え、全身を震わせていたその時だった。
公園の前の裏道を、確かに謳歌学園の制服を着た少女が横切ったのだ。
謳歌学園の秋及び冬場の制服は、男女揃って藍色のブレザーであるため、そう間違えることはない。僕は自身の制服を確認した後、裏道を横切る少女に再度目をやって確信する。間違いない。あの制服は謳歌学園の制服だ。
謳歌学園の制服なのだが……僕は首を傾げる。肩までかかった栗色の頭髪に、溌剌とした風貌。雰囲気的に僕同様、三年生かと推測するが、疑問が僕の脳裏を過ぎる。
僕は謳歌学園にて三年間の学園生活を送ってきたわけだが、学園で彼女の姿を見た覚えがない。三年間も通っていれば見覚えくらいあって当然なわけだが、事実として僕は彼女を見た覚えがないのだから疑問が残る。
それに、最近の謳歌学園に自殺者など出ていないことも懸念を煽ったが、蹲っていては現状把握の希望である彼女が裏道を通り過ぎてしまうため、僕は慌てて公園を駆け抜け、裏道を歩く彼女の前に立ち塞がった。
「わわっ!! いきなり誰!? 颯爽と立ち塞がらないでよ……ん?」僕が軽く息を切らすなか、彼女の表情が精彩に彩られていく。「君の制服、謳歌学園の制服じゃん!! うわぁ、謳歌学園でも遂に二人目の自殺者が出たんだね。この道三十年のあたしもある意味感激しちゃったよ」
なぜだろう。初対面にも関わらず、声に聞き覚えがあるというか、雰囲気が懐かしいというか、不思議な感覚。加えてなぜ僕が自殺者だとわかったのかなど、幾つか疑問が残る台詞だったが、それに逐一疑問を問いかけていては話が進まないため、僕は自身の疑問を問いかける。
「出会い頭に唐突で悪いけど、尋ねたいことがあるんだ」
「気軽にどうぞぉ。わかる範囲で答えませうっ」
「この世界は現実世界じゃないんだよね」
「答えませう。この世界は現実世界じゃぁございません」
「ならやっぱり、この世界は死後の世界なんだよね」
「答えませう。この世界は死後の世界じゃぁございません」
「え……!?」僕が驚愕するなか、彼女は納得した様相で頷いた。
「なるほどね。君、自殺にたてほやほやの新米くんってわけだ」図星を突かれて言葉に詰まる僕を見て、彼女は微笑みながら再度頷く。「別に恥ずかしがることじゃないよ。むしろ、自殺直後の心理状態で『死後の世界』という結論に到達出来ただけでも君は優秀さ。死後の世界って結論も半分は正解みたいなもんだしね。うんっ、君は優秀だぁっ」
「賞賛どうもありがとう。だけど死後の世界じゃないならば、ここは何の世界なんだい?」
「死後の世界は本当に惜しいよ。この世界は死後の世界より少しだけ不平等な世界なんだ。そう、この世界は死んだ人間には到達出来ず、自殺んだ人間のみが到達出来る、『自殺後の世界』なんだから」彼女は満面の微笑みを浮かべると両手を広げ、続けてみせる。
「数多き自殺者を代表して、君の自殺を祝そう! 自殺世界へようこそっ!!」
「自殺……世界」僕が反芻するのを受けて、彼女は補足を加えてくる。
「そう。この世界は言わば背徳者の掃き溜めで、人間失格の集いなんだ。だから悲観的な感情を覚える必要はない。自殺世界の人間は皆、自殺者の気持ちがわかるから」
軽快な調子で彼女は微笑んだが、僕の表情がほころぶことはなかった。
「そうか、それは素晴らしい世界だね」適当な相槌を打ち、数秒ほど沈黙した後で、僕は言葉を継ぐ。「君が誠意を持って答えてくれたからこそ、僕も正直に答えたいことがある。だけどそれは、君たち自殺者の尊厳を侮辱する言葉であり、自身の自殺者失格を確定する言葉に違いない。それでも君は、僕の腑抜けた戯れ言を聞いてくれるかい?」
「君って謙虚なんだね」彼女は肩を竦めて苦笑する。「謙虚な戯れ言なんて戯れ言になってないよ。ちゃんと『腑抜け』って罵ってあげるから安心してほざきなさいや」
彼女の謙虚な優しさに感謝を覚えながら、僕は自殺者失格の戯れ言をほざいてみせる。
「母親を残して自殺したことが心残りなんだ。挙げ句には自殺が最良の選択肢だったのか懸念を覚えるんだから、自分が情けない……!!」呼吸を荒げて僕は言葉を継ぐ。「意志の薄弱な僕を腑抜けだと罵ってくれ!! 自殺を懐疑する僕を愚かだと罵ってくれぇッ!!」
「君は腑抜けだ」彼女は冷淡な口調で僕を罵る。「でも、愚かじゃあない」
意外な返答に僕が呆然とするなか、彼女は言葉を継ぐ。
「確かに心残りを覚える君の意志の薄弱さは腑抜けに違いない。だけど、自殺を懐疑することは間違ってないよ。確かに自殺は敗北的な行為だ。だけど、本当の敗北者は、自殺を懐疑出来なくなった人間さ」言って、彼女は自らに親指を立てる。「あたしのようにね」
僕が言葉に詰まるなか、彼女は溌剌とした微笑を浮かべてみせる。
「君、謳歌学園の生徒なんだよね」僕が頷くと彼女は言葉を継ぐ。「何年生?」
「三年生だけど」
「そりゃ運命的な話だね」彼女は聖母のごとく微笑んだ。
「同学で同級のよしみだ。君の鬱憤晴らしの話相手になってあげるよ」
「遠慮するよ。鬱憤晴らしが苦手で自殺した性質なもんでね」
「遠慮するなよ。自殺者なんて皆、鬱憤晴らしが苦手なんだぜ」彼女は聖母のごとき微笑みをそのままに続ける。「数多くの自殺者を見てきたからわかる。君は感受性が敏感なもんで、自身の本質を隠してきた人間だろう?」
決まりが悪くなった僕が視線を逸らすと、彼女は「図星なんだね」と苦笑した。
「君の心は限界なんだよ。せっかく自殺を経験したことだし、心機一転、自分に正直になったらどうだい。あたしはもちろん、自殺世界に君の本質を馬鹿にする人間なんていないから」
彼女の寛大な勧奨に感謝を覚えながら、それでも臆病な僕は唇を噛み締める。
「でも……」曖昧な返事を漏らした直後だった。
「自分に嘘をつくなよ!!」彼女の怒号が裏道に響き渡る。
「心残りに思うくらいだ。君は母親に恵まれていたんだろう」激情のままに彼女は続ける。「親の愛情に恵まれた人間がなんで自殺するんだよ!! そんなの自業自得じゃないか!!」
激情を吐き捨てて冷静さを取り戻したのか、彼女の表情が青褪めていく。
「……ごめん」彼女が猛省するなか、
「ううん」僕は首を横に振ってみせた。
「僕は臆病だから、むしろ良い刺激になった。おかげで目が覚めたよ」
正直、相当な傷心を覚えたが、得意のお道化で誤魔化してみせる。
「それより、僕の話相手になってくれるんだろう!? だったらこんな空気じゃ鬱憤晴らしにならないぜ!!」
最初は戸惑った彼女も「そうね」と言って、得意の微笑みを浮かべてみせる。
「きっぱりすっぱりごめんなさい!! それじゃ続けて鬱憤晴らしといってみよう!!」