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第七章 コリジョン・ハック

アクロポリスの街並みは、歩けば歩くほど不快だった。


清潔で、静かで、秩序正しい。それ自体は悪いことではないはずだ。しかし、ここを歩く人々の瞳が、どこかを向いているようで、実際には何も見ていない。挨拶をする。微笑む。道を譲る。

 すべてが「規約通りの正しい行動」として実行されており、そこに個人の意志という不確定な変数が介在しているかどうかが、カイには判断できなかった。


判断できない、というのはカイにとって極めて稀なエラーだ。


カイは人間を「計算可能な変数」として扱うことに慣れていた。だがこの街の住人たちは、変数としての揺らぎが、不気味なほどに欠落している。均質すぎて、読めない。読めないのではなく、読み取る価値がない――そちらのほうが正確かもしれない。


ボルグが小声で言った。

「……こういう街で生まれた人たちって、外の世界を知らないんですよね」

「そうだ」

「かわいそう、と思いますか?」

「思わない」


カイは前を向いたまま、冷淡に答えた。


「この街の人間にとって、ここが世界の全部だ。知らないものを欠如とは呼ばない」

「……カイさんは、冷たいですね」

「冷静だ」

「同じですよ、その言い方」


セリアが小さく笑った。一瞬だけだったが、確かに、喉を鳴らすように笑った。ボルグがそれを見て、嬉しそうな顔をした。カイは、その小さな変化に気づいていない。


「カイ」ノアが静かに言った。「中央演算ノードへのアクセスポイントまで、あと二百メートルです。ただし――」


その言葉が終わるよりも早く、空に投影された偽物の青空が、断末魔のように明滅した。

 次の瞬間、警告を示す真っ赤なグリッド線が、白亜の街全体を蜘蛛の巣のように覆っていく。理想の秩序を謳った街並みが、一瞬にして、巨大な電子の檻へとその貌を変えた。


【システム矛盾:婚姻データの不整合を検知】


エラーメッセージが、イリスの管理デバイスに絶え間なく流れ始める。


「……ッ!? な、何よこれ! 私の権限は有効なはずでしょ!?」


イリスが、自分の管理デバイスを必死に、叩き壊さんばかりに操作しながら叫んだ。


「当然だ」カイが走りながら答えた。「俺が仕込んだのは『論理爆弾ロジックボム』だ。一定時間が経過すれば、データの不整合をあえてシステムに露呈させるように組んである。……いつまでも、仲睦まじい夫婦を演じている時間は、俺たちにはないんでな」

「最初からそのつもりだったわけ!?」

「当然だ。非効率な茶番は終わりだ」

「この外道!!」


街の上空から、球体のボディに巨大な単眼を持つ監視機センチネルが、重力に従って次々と降下してきた。その単眼から放たれる青いレーザーが、カイたちの座標を、吸い込まれるように正確にロックオンしている。


街の人々が足を止めて振り返る。穏やかな微笑みが、一瞬だけ、ノイズのように崩れた。規約に定められた「異常発生時の行動」に従い、彼らは速やかに、および無機質に建物の中へと避難し始める。その動きさえも、徹底的に整然としていた。


カイはそれを横目に見ながら走った。この街の人間は、パニックさえも「規約通りに」行う。恐怖も、怒りも、演算の果てに排除されている。完璧な秩序の中に生きているはずなのに――いや、だからこそ、何かが根本から欠けている。


「『アイズ』の第二段階起動ね……!」イリスが剣を抜いた。その手は、怒りとは別の何かで微かに震えている。「こうなったら、いくら私の夫設定になっていても無駄よ! 物理的な排除プロセスが始まるわ!」

「なら好都合だ。お前のその剣、俺たちの逃走経路を確保するための盾として使わせてもらうぞ」

「使わせてもらう? あんたのために戦う義理はないわよ! ここに残って釈明すれば――」

「できない」


カイが、遮るように断じた。


「お前のアカウントには、俺たちの侵入を『権限内で許可した』という消えないログが残っている。婚姻データが不整合だと露呈した今、システムはその記録を『審問官が意図的にバグを招き入れた』と解釈する。……残って釈明したところで、証拠ログは書き換えられない。お前はすでに、消去対象の『共犯記録』を持った汚染データだ」


イリスの顔が、一瞬で血の気を失い、蒼白になった。

 否定できない。カイの言う通りだ。自分の権限でゲートを開け、自分の管理デバイスに婚姻成立の記録が刻まれている。どんな言い訳も、ログという名の真実の前では意味をなさない。


「……っ、あんたのせいで……!」

「俺のせいだ。だから言っている――今は、生き残るために逃げろ」


イリスは一瞬だけ、奥歯が砕けるほど歯を食いしばり――それから迫りくるセンチネルに向かって、死に物狂いで剣を構えた。


白銀の剣閃が、重い空気を切り裂く。

 イリスの一撃が、センチネルの一体を正確に貫いた。機械の核が砕け、青い火花を散らしながら路地に落下する。しかし路地の奥から、また新たなセンチネルが、数式の増殖のように湧いてくる。


その動きを見て、ボルグが反射壁を展開した。

 迫ってくるセンチネルが放つレーザーが、ボルグの盾に触れた瞬間、そのまま跳ね返って発射源の機体に直撃する。センチネルが自分のレーザーで自分の核を焼かれ、派手な音を立てて墜落した。


「おっ、効いてる!」ボルグが、驚きと興奮が混ざった顔で叫んだ。

「当たり前だ。それがお前の正しい使い方だ」カイが走りながら、息を切らすこともなく答えた。「ただし、今は全力を出すな。次の局面で、リソースを温存しておく必要がある」

「はい!」


セリアが黄金の光を最小限に絞りながら、接近してくる機体の腕を鉄パイプで叩き飛ばす。ステータスを抑えているため一撃の威力は落ちているが、その分、スピードが異常なまでに上がっていた。カイのHP管理ハックを信じきった上での、命懸けの判断だ。


「チッ……数が多いわね」イリスが舌打ちした。「ディノ! あんた、砲台でしょ! さっさと撃ちなさいよ!」

「む、無理です! ドット視界に致命的なエラーが出て……画面が真っ赤で、何も見えません! 敵の数、百体……二百体……増え続けてます!」


ディノは杖を抱えてパニック状態で震えていた。アクロポリスの圧倒的な物量と、警告色の赤がドット視界を塗りつぶし、彼の脳の処理能力を限界まで圧迫している。センチネルの数が増えるほど、赤いマーカーが密集して、もはや個別の標的を識別できないほどの高負荷だ。


「カイ、このままでは包囲を突破される確率は九十八パーセントを超えます。……代替案を」


ノアが淡々と、宣告するように告げる。彼女の周囲には防衛用のデータ障壁が展開されていたが、センチネルの放つ消去レーザーによって、削り取られるようにじりじりと後退していた。


「分かっている。……路地を左だ。行き止まりの壁まで、全力で走れ」


カイの指示に、全員が戸惑いながらも、もはや抗うことなく従う。


「行き止まりじゃない! あんた、正気!? ここで袋叩きに遭えって言うの!?」


イリスが叫びながら、迫りくるセンチネルの群れを剣で薙ぎ払う。


その間にも、ボルグが盾を掲げてセリアを守り、セリアが黄金の光を抑えながら接近してくる機械の腕を鉄パイプで弾き飛ばす。二人の呼吸は、言葉なしで、不気味なほどに合っていた。

 曲がった先には、高さ十メートルを超える、アクロポリス特有の強固な白石の壁がそそり立っていた。


背後は絶壁。前方は数百の殺戮機械。どこからどう見ても、完全なる「詰み」の光景だ。

 ディノが真っ青な顔で言った。

「カイさん、本当に行き止まりです……! ドットビューでも、このマップには出口が存在しません……!」

「出口は、今から俺が作る」

「そんな……出口って、作れるものなんですか!?」

「この世界では、な」


ボルグが振り返ってセンチネル의 数を数えようとして、諦めた。とにかく多い。反射壁を展開しても、全方位から来られれば物理的な数に押し切られるのは時間の問題だ。


「カイさん、早くしてください! あと――」

「黙れ。今、計算している」


カイは真っ白な壁に掌を当て、視界の隅で高速の演算を開始した。脳が、かつてないほどに熱を持ち始める。


「イリス、お前は世界が『正しくそこにある』と信じている。壁は硬く、決して通り抜けられない物理的障壁だと。……だが、俺の目には違う」


カイの声は、走り続けてきた後とは思えないほど、冷たく静かだった。


「この世界はただの記述コードの集合体に過ぎない。……壁が硬いのは、そこに『衝突判定コリジョン』というフラグが設定されているからに過ぎないんだ」

「何を言って……!」

「システムは、物体が重なることを嫌う。重なればエラーが出るからだ。……なら、その『重なりを検知する機能』だけを、この領域から一時的に切り離してやればいい」


カイの指先から、黒いノイズが壁へと汚染のように伝播していく。石の表面が、熱に浮かされたように波打って揺らめいた。

 ボルグが目を凝らした。壁の色が変わっているわけではない。形が変わっているわけでもない。しかし、そこにあるはずの「確かな硬さ」が、霧のように薄れいくのが、直感で分かった。見えているものが、根本から信用できなくなっていく、足元が浮くような感覚。


ディノが端末に目を落としたまま言った。

「……コリジョン判定のフラグが消失しています。壁のオブジェクトデータは存在しているのに、物理的な干渉を定義する部分だけが……」

「分かるか?」

「ゲームで言うと、マップの見た目は残っているのに、当たり判定だけ消したバグ状態です。こういう場所って、壁の中を歩けたりするんですよ」

「その通りだ」


カイの指先が、最後の一打を刻む。実体を持っているはずの石の質感が、まるで水面に映る幻影のように、透け始めた。


[ SET Entity.StaticObject.Wall_Acropolis: CollisionDetection = FALSE ]

[ DEFINE Space_A_to_B: Collision = NULL ]


「……実行エンター


「何して――」


イリスの言葉が終わるよりも早く、カイは迷うことなく、石の壁の中に足を踏み入れた。

 彼の体が、硬いはずの石の中に、底なしの泥に沈むようにして吸い込まれていく。


「何してる、早く来い! 判定が復活するまであと十秒もないぞ!」


壁の中から、カイの上半身だけが突き出した奇妙で、不気味な光景。彼は仲間に向かって怒鳴った。


「う、うおおお! 壁が、壁が透けてる!?」


ボルグが盾を抱えて壁に突っ込む。抵抗感なく、その巨体が壁の向こう側へと吸い込まれた。続いてセリアも、嫌悪に顔を歪めながら壁を通り抜けていく。


「わっ、わっ……冷たい……!」ディノが目を瞑ったまま壁に飛び込んだ。「肺の中に、冷たい石が入り込んでくる感じがします……!」

「気のせいだ。死ぬ気で通り抜けろ」

「気のせいじゃない気がしますけど……!」


ノアが音もなく、壁を透過するように通過する。彼女は物理的な実体を持たないため、コリジョン判定の影響をほとんど受けない。


「イリス、お前はどうする? 規約ルールに従って、ここで一人、正義の機械たちに解体されるか?」


カイが、壁の向こう側から、白々しいほどに冷静な手を差し出す。

 イリスは、迫りくるセンチネルの冷たい赤い光と、壁から突き出たカイの、しかし確かにそこに存在する手を見比べた。


「……っ……、本当、大っ嫌いよ、あんた!!」


イリスは絶叫し、その手をもぎ取るように取った。


壁の中を通り抜ける感覚は、ひどく、吐き気がするほど不快だった。

 肺の奥にまで冷たい石のデータが入り込んでくるような、生理的な嫌悪感。視界が真っ白に塗りつぶされ、自分の存在の輪郭が溶けて消えていくような恐怖。

 イリスは思わず、カイの手を砕かんばかりに強く握りしめた。


次の瞬間、彼女の視界が一変した。

 そこは、アクロポリスの華やかな表通りとは正反対の、暗く、湿った「管理用通路」だった。


背後の壁を振り返ると、そこはすでに元の、何も通さない強固な石壁に戻っている。壁を叩くセンチネルたちの鈍い衝撃音が、遠くからかすかに響くのみだった。


「……通り、抜けた……? 物理法則を……完全に無視して?」


イリスは、自分の手がまだカイの手を、汗ばむほど強く握っていることに気づき、弾かれたように引き払った。

 そして、自分の手のひらを見つめた。傷はない。体のどこにも、異変はない。ただ、存在したはずの壁が今は背後に何事もなく立っていて、自分はその中を歩き抜けた――その逃れられない事実だけが、脳に刻まれている。


世界が「正しくそこにある」という確信を、イリスは審問官になったその日から、聖典のように持ち続けてきた。師ゼノスはそれを「規約への絶対的な信頼」と呼んでいた。

 だがあの壁は、確かに存在していたのに、カイの指先一つで何の意味も持たなくなった。


(……定義が消えれば、壁は壁ではなくなる)


その絶望的なまでの自由の感覚が、体の奥底に重く沈んでいく。


「無視はしていない。……システムの仕様を、最大限に利用しただけだ。これを『コリジョン・ハック』と呼ぶ。……どんなに強固な檻も、判定という記述がなければただのホログラムに過ぎない」


カイは、息一つ乱すこともなく、光の届かない通路の先を見据えた。


「イリス。お前の信じている世界の『壁』は、あんなにも、あっけなく消えてしまう。……正義も、規約も同じだ。少しだけ視点を変えれば、それはお前を縛り付ける鎖ではなくなる」

「……黙りなさい」


イリスは、暗闇の中で顔を熱く赤らめ、そっぽを向いた。

 彼女は自分の手を見た。カイの手の、あの確かな感触が、まだ熱を持って残っていた。壁を通り抜ける、消滅しそうな恐怖の中で、その感触だけが、はっきりと生きていた。


審問官として受けたあらゆる過酷な訓練の中に、「壁の中で誰かの手を強く握る」という想定は、当然ながら、どこにも定義されていない。

 それが何を意味するのか、イリスは考えることを、本能的に避けた。


「……私はまだ、あんたを許したわけじゃないんだから。……この街から出るまでは、便宜上、仕方がなく協力してあげるだけよ」

「それで十分だ」


カイはそれ以上何も言わず、ノアから送られてきた通路のマップを脳内に展開した。


「ここを通れば、アクロポリスの中央演算ノードへ、最短で到達できる。……リアナの所在を特定するのも、そこだ」


その言葉を聞いた瞬間、一行の空気が、張り詰めたものへと変わった。

 ボルグが盾を握り直し、セリアの目が、研ぎ澄まされた剣のように前を向く。ディノが震える手で端末を確認し、ノアが演算のギアを一段上げる。


リアナ。その名前が出るたびに、カイ以外の全員が、自分たちがなぜ、この不潔な地獄にいるのかを思い出す。

 カイだけが、それを見て何も言わなかった。仲間の反応を計算に入れながら、しかし何かが喉元で不快に詰まったように、次の言葉がすぐには出てこなかった。


「……カイさん」ボルグが暗闇の中で、静かに小声で言った。「リアナさんって、どんな人なんですか?」

「……なぜ、今それを聞く」

「なんとなく、です。カイさんが人の名前を、ああいう風に……大切そうに言うのを初めて聞いた気がして」


カイは、少しの間、沈黙した。


「……普通の人間だ」

「普通、って?」

「歌うのが好きで、余計なことを心配して、自分より他人を先に考える。……それだけの、非効率な人間だ」


ボルグは少し考えた。「それって、カイさんと全然違いますね」

「……だから、俺が行く必要がある」


セリアが前を向いたまま、低く言った。「……その子が心配で、あんたはずっと、自分の脳を焼き続けてきたんでしょ」

 カイは、答えなかった。しかし、否定もしなかった。


「……あんたが誰かのために、冷徹な計算以外の何かで動けるなら」セリアは続けた。「まあ、悪くない理由だわ」


通路の重苦しい空気が、一瞬だけ、柔らかく揺れた気がした。

 イリスは、前を歩くカイの背中を、穴が開くほど見ていた。肩幅は細く、頼りなげだ。歩き方は一定で、機械のように無駄がない。


どこから見ても「計算だけで動く非情な軍師」に見える。しかしさっき、ボルグの問いに、ほんの数秒だけ間を置いたあの瞬間を、イリスは見逃していなかった。

 完璧に計算している人間には、ああいう「人間的な間」は生まれない。


(……演算エラーだ。きっとそうに違いない)


イリスはまた、自分に呪文のように言い聞かせた。


一行は、光の届かない管理用通路を、カイを先頭に、それぞれの想いを抱えて進み始めた。

 イリスは、自分の信じてきた世界の形が、カイというたった一人のバグによって、音を立てて崩壊していくのを感じていた。だが、それと同時に、自分を窒息させていた重苦しい規約という名の衣が、少しだけ軽くなったような――そんな恐ろしい錯覚さえ抱いていた。


リアナを救うためのチェックメイトまで、あと四手。

 アクロポリスの深部、世界の心臓部へと、エラーコードたちの不規則な足音が、静かに響き渡る。



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