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エピローグ リンゴのタルトと本物の空

それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。

 カイは時折、あの狂気じみた塔を登り詰めた日々を計算しようとする。三ヶ月。数字にすればあまりにも短いが、それは既存のどの数式でも測りきれないほどに、濃密で長い時間だった。一人の人間が、一人の人間として生まれ変わるのに、十分すぎるほどの。


中央統制塔は、その機能を完全に停止し、今ではただの巨大な鉄の墓標として、広大な草原の真ん中にそびえ立っている。

 登る者も、管理する者も、もう存在しない。ただの巨大な鉄の塊が、夕暮れに長く、橙色の影を落としている。かつて世界のすべてを冷徹に支配していたものが、今は名もなき草花に囲まれて黙り込んでいる。カイはその光景を遠目に見るたびに、胸の奥から込み上げる、小さく、穏やかな笑いを堪えることができなかった。


世界から「規約プロトコル」という名の強制力は消滅した。

 空は自らの意志で雨を降らせ、風は気まぐれに街を駆け抜け、人々はシステムに与えられた役割ではなく、自分自身の意志で、今日食べるものを、今日隣に歩く人を決めるようになった。


当然、混乱はあった。理不尽も、絶えない争いも。規約がなくなれば、人間はもっと自由に、もっと深く傷つけ合えるからだ。

 それでも――世界は自由だった。誰かに定義された清潔な自由ではなく、泥を啜りながら自らの手で掴み取った、剥き出しの自由。


デウスが恐れた「感情による混沌」は、確かにそこにある。だが同時に――笑い声も、涙も、理不尽な怒りも、爆発するような喜びも、すべてがそこにはあった。計算式には決して現れない、本物の「生」の脈動が。


復興が進む、活気に満ちた小さな街の片隅。

 新しくオープンした小さなカフェのテラス席で、一人の少年が不機嫌そうな、けれどどこか充足した顔でテーブルを見つめていた。


「……遅いぞ。もうに20分も待っている。効率的な接客とは到底言えないな」

「うるさいわね! 今、最高においしいタルトを焼いてるんだから、黙って待ってなさい!」


店の中から、怒鳴り声に近い、けれど弾むような返事が飛んでくる。


エプロン姿で厨房から現れたのは、かつての白銀の審問官、イリスだった。

 今は、この街で一番人気の(および一番店主の口が悪い)カフェの主として、忙しく、けれど生き生きと立ち働いている。


彼女が今、ここに生きて存在しているのは――ゼノスが最後に遺した術が、消去光の侵食を完全に止めきれなかった彼女の命を、文字通り首の皮一枚で繋ぎ止めていたからだった。

 目覚めるまで三日。その間、カイは片時も彼女のそばを離れなかった。リアナに「カイくん、少し休んで」と促されても、「計算上、この座標が最も効率的だ」と不器用に言い張って。


目を開けた瞬間、カイが何も言わずにそこにいた。イリスは「……なによ」と呟き、カイは「……計算通りだ」と応えた。二人とも、それ以上は何も言わなかった。それで十分、世界のすべてが説明できていた。


「……はい、お待たせ! 特製リンゴのタルトよ。カイ、あんた、感想は『おいしい』以外は、即座に規約違反(禁止)なんだからね」


イリスが、少し照れくさそうに、けれど誇らしげに皿を置く。

 不揃いに切り分けられたリンゴ。少し焦げ目のついた生地。形も大きさも、てんでバラバラだ。「管理されていない」ということが、これほどまでに豊かな形を取るのかと、カイは思った。


だが、そのタルトからは、かつての完璧すぎる偽物の世界では決して味わえなかった、香ばしくて温かな匂いが立ち上っていた。かつて死線を彷徨う通路の片隅で、二人で分け合ったあの一切れのリンゴの味。イリスは、その記憶をここまで、大切に持ってきたのだ。


「……カイくん、食べてみて。イリスさん、朝からずっと頑張ってたんだよ」


隣に座るリアナが、柔らかな、慈しむような微笑みを浮かべてカイを促した。

 彼女はもう、世界の苗床ではない。白銀に褪せていた髪には少しずつ、あの日と同じ栗色が戻ってきていた。


感情を取り戻すにはまだ時間がかかると、医師は冷徹に告げた。けれどリアナは「大丈夫。カイくんがそばにいるから」と笑った。カイがいつものように「計算外だ」と呟くと、彼女はまた、楽しそうに笑うのだった。


「……ああ。……いただきます」


カイがタルトを一口、口に運ぶ。

 甘い。および、心地よい苦味。不揃いで、焦げていて、どこをどう切り取っても「完璧」な設計図からは程遠い。

 だが――今まで食べたどんな最適化された栄養素よりも、温かかった。


「……どう? 感想は?」


イリスが、期待と不安を隠しきれない瞳で覗き込んでくる。


「……計算外だな。……こんなに不完全なのに、今まで食べたどんなものより、最高だ」


カイの言葉に、イリスはパッと顔を輝かせ、それからすぐに、耳まで赤くしてそっぽを向いた。


「……ふん。当たり前でしょ、私が丹精込めて作ったんだから」


その時、カイの胸ポケットに入っていた小さな端末が、ピコーン、と小気味よい電子音を立てた。画面には、かつてノアだったデータの断片が、楽しそうにフォントを踊らせている。


『……糖分摂取による幸福指数の上昇を確認。……カイさん、私の分も、データとしてサンプリングしておきました』

「……ノア。お前、こっそりつまみ食いをしたな?」

『……規約のない世界ですから。自由を享受しているだけです』


カイは端末を見つめ、一瞬だけ、慈しむように目を細めた。

(お前は生きている。ちゃんと、俺たちの隣にいる)

 それだけを心に刻んで、タルトの続きを慈しむように口にした。


テラスの向こうでは、復興作業にあたるボルグが、巨体を揺らして豪快に笑っていた。

 かつてスクラップ・バレーで膝をつき、泥を舐めていた男が、今は瓦礫を素手で片付けながら、住人たちに「大丈夫ですよ」と頼もしく笑いかけている。隣にいた子供が「ボルグ様、すごーい!」とはしゃぎ、ボルグは真っ赤になって大きな頭を掻いた。


先日、ボルグは「ミラに会えました」と、涙を流しながら報告してきた。生き別れていた妹が、遠くの街で生きていた。

「なんて言ったの」とイリスが聞くと、彼は「……ごめんなさい、って。そしたら、ミラが泣きながら僕をぶってきました」と言った。

「それで?」

「……ありがとうって、言ってくれました」。

 そう言って、大男は子供のように声を上げて泣いた。カイは「計算通りだ」と応えた。ボルグはそれが、自分への一番の褒め言葉であることを知っていた。


その少し先では、セリアが子供たちに木剣を教えていた。「構えが甘い!」「腰が引けてる!」という鋭い怒鳴り声が響く。

 子供たちは半泣きになりながらも、その背中を追って目を輝かせている。セリアは鬼のような顔をしているが――その首元には、もう、何もない。あの青い小石のペンダントは、もうそこにはなかった。


カイはそれに気づいて、少しだけ目を伏せた。

 ある日、セリアはひび割れたペンダントを見せてくれた。


「妹が守ってくれたのよ」と言う彼女の声は、かつて死を渇望していた頃とは、まるで別人のように穏やかだった。「アリア、ありがとう」と小さく呟き、彼女はカイをじっと見た。「……あんたも、ありがとう。悪魔さん」。カイが「礼には及ばない」と素っ気なく返すと、セリアは「本当に、最後まで感じが悪いわね」と快活に笑った。


今は首に掛けてはいないが――彼女はそれを、魂の一部として持っている。それはセリアがアリアと共に、新しい生を歩んでいる証だった。


さらに向こうの広場では、ディノが子供たちに囲まれていた。

 新しく作ったゲームのデモ機を、子供たちが奪い合うように覗き込んでいる。ゲームには六人の不揃いなキャラクターが登場するという。


「カイさんのキャラ、めちゃくちゃ強いよ。でも、イリスさんのキャラは最強なんだ」


ディノは誇らしげに語る。コンテナで架空の友人を描き続けていた少年は、今、本物の友人の顔を描き直していた。規約のない世界で、ドット絵の解像度を自らの意志で選べるようになった彼は、高解像度の現実を、少しずつ、自分の足で直視できるようになっていた。


「……カイさん」


ふいに、リアナが静かに告げた。


「……空、見てみて」


カイはゆっくりと顔を上げた。

 そこには――本物の空が、無限に広がっていた。


夜明けの空。東の地平から鮮烈な橙色が滲み出し、消え残る星々と複雑に溶け合っている。計算された欺瞞のテクスチャではない。どこにも「正解」はなく、色の境界線は曖昧で、雲の形を定義するアルゴリズムすら存在しない。


かつてカイは、偽物の青空を見上げて「反吐が出る」と唾を吐いた。体温のない完璧さに絶望していた。

 今は――。


「……きれいだな」


ただ、それだけを、心の底から言った。


イリスが、カイの横に静かに腰を下ろした。リアナの反対側に。三人で、不揃いな夜明けを、ただ黙って見つめていた。


「……そうね」とイリスが呟いた。「……不揃いで、焦げてて、どこにも正しさなんてないけれど」


カイはイリスを見た。イリスもカイを見た。

 二人の手が、テーブルの上で――微かに、触れ合った。


イリスは気づきながらも、手を引かなかった。カイも気づきながら、その温かさを動かさなかった。リアナはそれを見て、誰よりも優しく微笑んだ。


沈黙が流れる。かつてエラー領域で雨に打たれ、泥にまみれていたあの時の沈黙とは違う。あの沈黙は絶望だったが、今の沈黙は、ただ――穏やかで、温かかった。


「さて」


カイは静かに立ち上がった。


「……次は、何を攻略しに行こうか」


イリスが呆れたように、けれど愛おしそうに笑う。リアナが「カイくんらしいね」と鈴を転がすように笑う。


テラスから見渡せば、世界はまだ不便で、理不尽で、未完成な混沌に満ちている。規約が消えた世界は、手探りで、傷つくことも多い。けれど、そこには確かに温かさがあった。修正されていない、誰にも定義されていない、ただの「今」が、そこにある。


それが――未修正アンパッチドの世界。

 完璧じゃない。バグだらけだ。けれど、そのバグの中にしか、本物の「愛」という名の熱は宿らない。


カイは新しい一歩を踏み出した。

 振り返れば、テーブルの上には食べかけのリンゴのタルト。不揃いで、焦げていて、どこも完璧じゃないけれど。


それが、この世界で最高のご馳走であることを、カイはもう、知っていた。


計算不能な、しかし輝かしい明日の向こう側へと。


~『エクスプロイト・クロニクル』~ おわり





[ System_Log: 2026.04.24_07:47 ]

[ Status: World_Unpatched / Connectivity: Logic_Ghost ]

[ Pending_Request: Send_Failed ]

[ >> ????????????????: Patch_Pending... "V_Target_Reacquired" ]




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