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第二章 死の間際の騎士道

沈黙の礼拝堂は、祈りが腐った場所だった。


かつてはここで、敬虔な信者たちが規約ルールの加護を求めて頭を垂れていたのだという。だが今やその面影は、崩れた祭壇の残骸と、壁に生えた青黒い苔の中に埋もれていた。

 入り口の石造りの扉は片方が蝶番ごと外れ、斜めに傾いたまま放置されている。その隙間から差し込む薄明かりが、内部に澱む埃をうっすらと浮かびあがらせていた。


カイは迷いのない足取りで、薄暗い礼拝堂に足を踏み入れた。


冷気が、肌を刺すように全身を包む。湿った石の匂い、腐敗しかけた木材の臭気。

 そしてその奥には――電子的な死臭とでも呼ぶべき、データが崩壊する際に発生する特有のノイズが、微かな不快感となって漂っていた。祭壇の跡には何かの残骸が積まれ、かつて飾られていたであろう彫像は頭部だけが床に転がり、虚空を見つめている。


「……カイさん」


後ろからついてきたボルグが、巨体を縮めるようにして囁く。


「あの、本当にあんなところに人がいるんですか? ここ、死人の匂いがしますよ」

「死人の匂いか」


カイは振り返らずに答えた。


「効率的な表現だな。だが、お前が探しているのは死人ではなく、死ねない女だ」

「し、死ねない……?」


ボルグが眉をひそめる。カイは答えない。


地下へと続く螺旋階段を、カイは迷わず下りていく。一段ごとに冷気が質量を増し、重く肺に流れ込む。壁に手をつけば、石の表面に浮いた水気が指先に冷たく染みた。

 ボルグがキョロキョロと周囲を窺いながら後に続く。その巨体は、狭い石段に明らかに不似合いで、両壁に肩をぶつけながら降りていくしかなかった。石段を踏みしめるたびに、くぐもった重い音が地下空間に反響する。


最下層の独房に辿り着いた時、カイは足を止めた。

 重い鉄格子の向こうに、人影がある。


鉄格子はかつて何かを閉じ込めるために作られたのだろうが、今は錆が全体を侵食し、鍵穴には腐食した金属が詰まっている。扉を開ける必要はそもそもない――この女は逃げる力もなければ、逃げようとする意志も、もはや持っていないはずだ。スラムの情報屋が売った情報の通りだった。


かつては白銀の鎧を纏い、高潔な理想を掲げていたはずの騎士――セリア・シルヴァ・ランスロットは、今や錆びついた鎖と血と泥に汚れたボロ布を纏い、冷たい石壁にもたれかかっていた。


壁には、無数の刻み跡がある。

 爪で引っ掻いたのか、石の粉が周囲に散らばっている。近づいて見れば、それは執念の塊のような文字だった。同じ文字が、幾度も幾度も、血の跡と重なり合って刻まれている。


ア・リ・ア。


人の名前だ、とカイは即座に判断した。誰かの名前を、この女は何百回、何千回と壁に刻み続けた。爪が割れ、指先が血に染まるまで刻んだのだろう。今はもうその力さえ残っていないのか、傷だらけの指先は放置されたまま、力なく地面に投げ出されていた。


セリアの肌は死人のように蒼白で、その瞳からは一切の光が失われている。

 だが、首元に下がったペンダントだけが、薄暗い中でもかすかに光を放っていた。丸みを帯びた川石で、どこかの川で誰かが拾ってきたような、素朴なもの。しかしその深い青は澄み渡り、この薄暗い独房の中で、一点だけ場違いなほど穏やかな優しさを持っていた。


彼女に課せられた規約ルールは、戦士としての誇りを根底から破壊するものだった。


【規約:瀕死の栄光デッドエンド・グロリア

対象の現在HPが最大値の十パーセント以下である場合、すべての基礎ステータスを一万倍に強化する。ただし、それ以外の状態においては、全ステータスを九十パーセント減少させる。


一見すれば、逆境で真価を発揮する英雄の力に見えるかもしれない。だが実態は、残酷極まりないシステムからの嫌がらせだ。

 HPを十パーセントという極限の状態に保ち続けることなど、人間には不可能だ。わずかな自然回復で十パーセントを超えれば力は赤子同然に墜ち、わずかな追撃、あるいは環境ダメージを受ければ即座に「消去デリート」が確定する。


死の淵で一生怯えて暮らすか、さっさと消えるか。システムが彼女に命じているのは、そのどちらかだ。


「……また、誰か来たのね」


セリアが、乾いた砂を噛むような声で言った。瞳はカイの姿を捉えているが、焦点は合っていない。


「私の無様な姿を見て、優越感に浸りに来たのかしら」

「優越感?」


カイは鉄格子の前に立ち、首を傾けた。


「そんな非生産的な感情は持ち合わせていない。俺は、お前を『最強の剣』として買い取りに来ただけだ。セリア、お前を追放した騎士団を――その頂点に立つヴァルザクとやらを、その歪な力で否定したくないか?」


セリアの瞳が、かすかに、だが確実に動いた。

 ヴァルザクという名前に反応したのだ、とカイは観察した。感情が戻ったわけではない。ただ、どこか深い記憶の底にしまいこんでいた何かが、一瞬だけ表面に浮上した。


「ふふ、最強……?」


乾いた、自嘲の笑いが漏れた。


「冗談はやめて。私は、ただの壊れた人形よ。剣を振るうどころか、立ち上がることさえ……今の私には……」


カイは右目の奥で演算回路ロジック・パスを駆動させ、青白い光を帯びさせながらセリアの規約データを瞬時に解析した。数列が網膜に展開される。


現在のHP――十二パーセント。

 規約の発動条件を、わずか二パーセント上回っている。これでは基礎能力は九十パーセント削られたまま、指一本動かすのさえ苦痛なほど弱体化しているはずだ。


「ボルグ」


カイが、後ろに控えていた巨漢を呼んだ。


「その辺に転がっている鉄屑で、あいつの肩を突け。死なない程度にな」

「えっ!?」


ボルグが素っ頓狂な声を上げた。


「そんな、カイさん、相手は女性ですよ! それにこんなにボロボロなのに……!」

「命令だ。あいつのHPを十パーセント以下に削り、規約ルールを強制起動させる必要がある」

「で、でも……!」

「ボルグ」


カイの声が、一段低くなった。静かで、冷たく、有無を言わせない。10章以降のカイが見せる、あの絶対的な圧力を伴って。


「俺は今、お前に感想を求めていない。計算上、必要な手順だと言っている」


ボルグは泣きそうになりながらも、カイの冷徹な視線に射すくめられ、拾い上げた鉄屑の切れ端を、震える手でセリアの肩に押し当てた。


セリアはボルグを見た。その目には、拒絶も懇願もなかった。ただ疲れていた。どこまでも深く、救いようのないほどに疲弊した目だった。

 それがボルグの心を、刃よりも鋭く貫いた。


ただそれだけの、弱い、頼りない衝撃。

 しかし現在の彼女にとっては、それで十分だった。


「……っ……」


セリアの体が、糸の切れた人形のように崩れ、地面に倒れ伏した。


「……ああ……殺して……。もう、この屈辱は……嫌なの……」


掠れた、消え入りそうな声が冷たい石床に吸い込まれていく。


「死なせない。お前を『生きたまま死の淵に固定』してやる」


カイは鉄格子の前でしゃがみ込み、セリアの目の前で指先を空中に走らせた。


カイが構築しようとしているのは、極めて不安定で、かつ完璧なリソースの均衡だ。かつての法学者や術式師なら、恐ろしくて手を出さない禁断の領域。


微弱な「継続ダメージ」の発生と、それをコンマ数ミリ秒後に相殺する「即時回復」の同時発動――ダメージと回復、その差分を完全にゼロに保つことで、HPを「十パーセント」という境界線上でフリーズさせる。

 理論上は成立する。しかし少しでも計算がずれれば、彼女は即死する。許容誤差は、ゼロ。


脳が急速に熱を帯びる。10章以降のカイが何度も味わうことになる、あの焦熱の負荷。カイはこめかみに軽く触れ、演算を限界まで加速させた。


[ IF Current_HP <= 10% THEN Loop( Force_Damage 1 + Instant_Heal 1 ) ]


「……実行エンター


セリアの全身が、一瞬だけ激しく痙攣した。

 彼女の肌の表面で、微細な赤い火花と青い光が交互に爆ぜ、打ち消し合う。


次の瞬間。

 地下監獄の空気が、質量を伴った圧力となって爆発した。


「……っ、な、何だ、この圧迫感は……!?」


ボルグが堪らず後ずさりし、自分の盾の陰に身を隠した。


セリアの全身が、黄金にも似た、不浄で、それでいて強烈な光に包まれた。死人のようだった彼女の四肢に、絶対的な力が漲り、周囲の石壁がそのプレッシャーだけで悲鳴を上げ、無数の亀裂を走らせる。


ステータス一万倍。

 それは、一個の生命が持っていい出力を遥かに超えていた。


「……あ……力が……あふれてくる……。私の、体が、熱い……!」


セリアが、ゆっくりと立ち上がる。重い鎖は飴細工のように容易く千切れ、彼女の指先が軽く壁に触れるだけで、数百年耐えてきた堅牢な石材が粉々に砕け散った。

 首元の青い小石ペンダントが、黄金の光を受けてきらりと、決意を宿したように輝く。


カイは、その光景を静かに見届けた。


「セリア。お前は今、この世界で最も『死に近い最強』だ。お前の命、俺が完璧に管理してやる。その代わりに、お前の剣を俺に預けろ」


セリアは、地面に落ちていた錆びた鉄パイプを、まるで名剣でも扱うかのようにしなやかに拾い上げた。彼女が軽くそれを振るうだけで、空気が悲鳴を上げて切り裂かれ、真空の刃が独房の天井を真っ二つに分断した。


「……あんた、本当に悪魔ね」


セリアの瞳に、かつての騎士としての気高さとは違う、狂気にも似た「生」の光が宿った。


「私を、地獄の縁で踊らせるなんて。……でも、悪くないわ。この、すべてを壊せそうな感覚は」

「契約成立だ」


カイは一瞥もくれず、階段を登り始めた。


「ボルグ、行くぞ。盾と剣が揃った。次は、この階層を支配する『正義の傲慢』を、オーバーフローで叩き潰しに行く」


地下を出て、礼拝堂の石畳を踏んだ時、セリアは立ち止まった。

 先を行くカイの背中を見ながら、ぼんやりと壁の一点を見つめる。


自分が何百回、何千回と刻んだ名前のことを、考えていた。

 アリア。妹の名前。


かつてアリアは、川辺でこの青い石を拾ってきた。「お姉ちゃんにあげる」と言って、泥に汚れた両手で大切そうに差し出した小さな手を、セリアは今でも鮮明に覚えている。

「綺麗でしょ、川でみつけたの」と、誇らしげに笑っていたあの顔。


その妹は今、もういない。

 規約に縛られた聖騎士団の「正義」が、彼女から未来を奪った。


ヴァルザクという名前を、あの冷徹な少年の口から聞いた時、胸の奥で何かが、熱く、痛く動いた。それが怒りなのか悲しみなのか、長い時間感情を凍らせていたセリアには、もはや判別がつかない。ただ、まだ動くものが自分の中に残っている――それだけは、確信できた。


セリアは首元のペンダントを、祈るようにそっと握りしめた。

 冷たい石の感触。川の水に磨かれた、滑らかな丸み。


(アリア。……見てて)

(どんな形であれ、私はまだ生きている。この悪魔の使い走りであっても、倒れるわけにはいかない)


「何してる、セリア。置いていくぞ」


カイの声が飛んでくる。振り返ることもなく、ただ前を向いたまま、効率だけを求めて歩きながら言う。


「急いで。次の標的まで、最短ルートで三十分かかる計算だ」

「……分かったわよ」


セリアは手のひらを開き、ペンダントをもう一度確かめてから、歩き出した。

 鉄パイプを肩に担ぎ直し、カイの後に続く。


礼拝堂を後にした三人は、スクラップ・バレーの外縁部を目指して歩き始めた。

 先頭を行くカイ。その後ろにセリア。最後尾に、少々窮屈そうに巨体を揺らしながら、ボルグ。


奇妙な三人組だった。目的も、事情も、これまで歩いてきた道も、何一つ重ならない。それでも今は同じ方向を向いて歩いている。廃材の影から誰かの視線を感じるが、カイは意に介さない。セリアも気にしない。ボルグだけが、少し肩を窄めながら歩いている。


「あの……セリアさん」

「何」


素っ気ない返答。セリアは前を向いたまま、鉄パイプをくるくると指で弄んでいる。


「すみませんでした。さっき、その、鉄屑で……」

「いいわよ、別に」

「でも、あんな細いもので女性を……」

「だから、いいって言ってるの」


セリアがようやくボルグを振り返り、値踏みするように見上げた。長身のセリアよりさらに頭ひとつ以上大きい、圧倒的な巨躯。


「……あんた、その規約、本当に動けないの?」

「は、はい。攻撃されたら、その場所から動けなくなります。規約が、座標を固定して……」

「なのに、カイについていくの」

「……カイさんが、助けてくれたので」


セリアはボルグの目を見た。怯えた、しかし何かを必死に掴もうとしている。10章以降の彼らが共有することになる、あの切実な目。


「……ふうん」


短く言って、また前を向く。

 ボルグは一瞬きょとんとしてから、少しだけ肩の力を抜いた。怒られなかった、と安堵したような表情で。


「悪魔の手駒になるのがそんなに嬉しいのか、あんたも大概ね」


「セリア」


カイが前から声を飛ばしてきた。振り返ることもなく、ただ一歩一歩を計算された歩幅で進みながら言う。


「無駄口は体力を消費する。お前のHP管理は俺がしているが、余計なリソースを使われると計算が狂う」

「……うるさいわね、悪魔」


セリアは舌打ちしたが、口を噤んだ。

 その口元には、ほんの僅か――自分でも気づかないほど僅かに、笑みの欠片が浮かんでいた。


白銀の聖域に向かう前に、カイは一度足を止め、脳内のコンソールを整理した。

 駒は二つ。盾と剣。


次の標的――聖騎士団長ヴァルザクが持つ「聖域の増殖ディバイン・グロース」の規約は、正攻法では絶対に突破できない。攻撃を受けるほど強くなる規約など、常識的には詰んでいる。


だが。

 カイの脳内に、冷たく澄んだ、だが確かな破壊の数式が展開される。


(整数の上限。この世界のシステムが数値を処理する際の「型」――そこに穴がある)


常識的に考えれば終わりだ。しかし規約の隙間を読む限り、一つだけ、地獄へと続く道がある。残酷で、完璧で、誰も思いつかないような道が。


カイはちらりと後ろを振り返った。

 盾は、大きな手に石ころを握りしめたまま歩いている。剣は、肩に鉄パイプを担いで首元のペンダントを指先で確かめながら歩いている。


どちらも、カイの計算に組み込まれた「欠陥品デフレクター」。使える限り使い、必要がなくなれば――そこまで考えて、カイは脳の過熱を感じ、思考を断ち切った。


今は次の戦術だ。感傷は効率を濁らせる。


「行くぞ」


カイはフードを被り直し、歩き出した。

 背後では、盾が重い足音を立てて従い、剣が静かに、黄金の光を身に纏って続く。


リアナを救うためのチェックメイトまでは、まだ程遠い。

 だが、駒が、着実に揃い始めた。



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