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第十九章 規約を超えた愛

仲間たちが命を賭して切り開いた、わずか三十秒の空白。

 カイとイリスが飛び込んだ最上階『聖域』は、これまでの階層とは一線を画す異質な空間だった。


そこには壁も天井もなく、ただ無限に広がる幾何学的な光の海の上に、クリスタルのように透き通った巨大な演算回路が、世界の心臓の鼓動のごとき重低音を響かせながら鎮座していた。


ここが――世界の頂だ。

 カイは一瞬だけ、その眩暈のするような空間を見渡した。スクラップ・バレーの泥の中から見上げた、あの遠い空の答えがここにある。一人では、決して辿り着けなかった場所。


カイの胸の中には今、ボルグの「不屈」、セリアの「熱」、ディノの「現実」、ノアの「存在」、およびイリスの「愛」が、重い楔となって打ち込まれている。それを引き摺って、俺はここまで来たんだ。


その巨大な回路の、最も純粋で、最も残酷な光が収束する中心点。

 無数の光の糸に絡め取られ、瞳から意志の光を失ったリアナが、宙に浮いた状態で静止していた。彼女の存在そのものが、世界を「初期化リセット」するための巨大な変数の苗床にされていた。


栗色だったはずの髪は白銀に褪せ、肌は透けるように白い。感情という名の生体エネルギーを吸われ続けた無惨な証拠。三ヶ月――それが人間でいられる限界だと、ノアは言っていた。


だが、その輪郭だけは、カイの網膜に焼き付いたあの日のままだ。

 この三ヶ月、カイはリアナを「目的」と呼び、計算の末に救うべき「命題」として扱ってきた。だが今、目の前に横たわる彼女の体温を失った顔を見て、カイは痛感した。


これは計算なんかじゃない。最初から、ただの、どうしようもない執着だったのだ。


「……リアナ!」


カイが叫び、駆け寄ろうとしたその瞬間。

 一筋の鋭い閃光が、カイの足元を無慈悲に切り裂いた。白銀の光が弾け、空間そのものに罅が入るような、圧倒的な質量を持った「正しさ」の波動が聖域を支配した。


「……そこまでだ、バグの汚染者。そして、我がもっとも誇り高き弟子であったイリス」


光の中から現れたのは、絶対的な「白」の法衣を纏った男。イリスにとっての神の代行者、最高位の審問官にして、彼女に規約ルールのすべてを叩き込んだ師、ゼノス。


「お師匠様……」


イリスの声が、肺の奥から震えた。絶対的な正義と信じ、追いかけ続けてきた背中。その威圧感は、これまでのどんな敵よりも重く、彼女の魂を屈服させようと覆いかぶさる。七年間。ゼノスの下で正義を信奉してきた記憶が、怒涛のように意識の表面を覆い尽くしていく。


「イリス。まだ間に合う。その男を斬り、汚染されたデータを我が手で清めさせてくれ。そうすれば、お前の罪はすべて『修正フィックス』され、再び審問官としての光を取り戻すことができる」


ゼノスが静かに、一点の乱れもない所作で手を差し出す。世界の正解そのものを提示しているような、抗いがたい聖なる説得力。


イリスは、その白く、冷たい手を見つめていた。

 かつての自分なら、迷わずその手を取っていただろう。ゼノスの指し示す方向こそが「世界のあるべき姿」だと信じて疑わなかったからだ。


だが今――その手は、凍りついた氷細工のように遠く見えた。規約の正しさが持つ冷徹な重さより、カイの隣で、あの泥濘の中で感じた「温かさ」の方が、今のイリスには比較しようもなく重かった。


「カイ! 行って! ……リアナを、救いなさい! ……こいつは、私が……私の過去に、決着をつけるわ!」


イリスは叫び、カイの背中を、魂を込めて力強く押し出した。

 その手の、焼けるような熱さ。


「……イリス! ……わかった、信じているぞ! 必ず、倒せ!」


カイは背後で爆ぜる魔力の衝突を一瞥し、中央の演算ポッドへと疾走した。背中に残ったイリスの手の温度が、カイの心臓を物理的に叩いていた。


走りながら、カイは確信していた。あいつは今、もう「演算エラー」という言葉で自分を誤魔化していない。規約の番人だった女が、ただの「好き」という、世界で最も非論理的な感情一つで神に刃を向けている。それが何より――誇らしく、嬉しかった。


脳内では、ノアが命を賭して遺した「バックドア」が、沸騰せんばかりに熱を帯びている。


「ノア……聞こえるか。お前の遺したこの扉、俺が最後までこじ開けてやる」


返事はない。だが、扉は開いている。「I was here.」という彼女の宣言が、今もここにある。

 ボルグの咆哮、セリアの皮肉な笑み、ディノの澄んだ瞳、およびノアの光。六人分の命の重さが、カイの足を地面に叩きつけていた。だから、俺は、止まれない。


一方、イリスとゼノスは、静止した空間の中で互いの殺気を削り合っていた。


「……お師匠様から授かった技の数々、覚えていますか」


イリスが、折れかけた剣を正眼に構え直し、静かに問うた。


「覚えているとも。お前は優秀な生徒だった。判断の速さ、規約への忠実さ――すべてにおいて、申し分なかった」

「……あの頃、私たちはこの世界のための『駒』なんだと教えられてきました。……私も、そう信じて、自分を殺して生きていた」


ゼノスは沈黙した。かつてイリスを何度も絶望させ、膝を折らせた、あの「沈黙」。だが今、その沈黙はイリスの皮膚を掠めることさえできなかった。


「……今も、信じるもののために死ぬことは厭いません。でも――守るべきものが、変わったんです」


イリスの瞳に宿る紫色の光は、ゼノスの放つ「正解の白」よりも、ずっと鮮烈で、ずっと不純な、人間臭い輝きを放っていた。泥の中で拾い上げ、傷だらけの手で掴み取った、本当の自分の色だ。


「……お前は理解していない。あの男、カイが求めているのは救済ではなく破壊だ。バグに恋をしたところで、最後にはお前も共に消去される運命にあるのだぞ」

「……恋……?」


イリスの動きが、一瞬だけ、戸惑うように止まった。


「恋などという不純な感情に飲まれるとは。愚なりなり、イリス」


ゼノスの声には怒りすらなかった。ただの「哀れみ」。それが――かつての教え子を、心底から奮い立たせた。


イリスは思い出していた。泥の中でカイを引き起こした手の感触を。不揃いに切ったリンゴを、カイが「甘い」と言った瞬間の顔を。自分のことを「駒」と呼びながら、誰よりも先に泥を被り、誰よりもボロボロになって戦っていた、あの頼りないほど細い背中を。


不純? 愚か? ――大いに結構。

 規約の番人として「演算エラーです」と言い訳していた頃より、今、「好き」だと叫びながら戦っている自分の方が、何万倍も自由で、誇らしい。


イリスは、弾けるように笑った。


「……そうね。……そうよ、その通りだわ!」


イリスが叫び、剣を天へと掲げた。彼女の全身から、漆黒のノイズを孕んだ熱い紫色の光が、聖域の白を侵食していく。


「私は、規約を守る機械じゃない! ……この世界で一番不遜で、一番優しくて、一番バカな『バグ』に恋をした、ただの女よ! ……あんたの言う正義なんて、私の、この『好き』っていう気持ち一つで、ハックしてやるわ!!」


言葉が消えぬうちに、イリスは爆発的な加速で地を蹴った。折れかけの剣を両手で握り、正義の権化へと真っ向から斬りかかる。


だが、師と弟子。ゼノスの放つ「絶対の規約」は、イリスの剣筋、呼吸、踏み込みのすべてを完全に掌握していた。彼女のすべては、ゼノスによって作られたものだったからだ。七年分の「正しさ」が、今、彼女の肉体を物理的に引き裂いていく。


「……お前の剣の癖は私が作った。お前の思考ルーチンも私が鍛えた。お前がどこを狙うか、私にはすべて視えている。それがお前の限界だ」


ゼノスの光の刃が、イリスの肩を深く抉り、脇腹を貫いた。


「くっ……」


鮮血が舞い。だが、イリスは一歩も退かなかった。刺されれば、その痛みを力に変えて前へ出た。七年間教え込まれた「弱点」を突かれても、立ち直り続けた。


痛みは、むしろ意識を研ぎ澄ませる砥石となった。

 ゼノスが次の一撃を放とうとした、その瞬間。イリスの動きが、論理の枠を超えて変容した。


それは洗練された騎士の技ではない。不規則で、泥臭く、合理性を鼻で笑う――カイのそばで、あの日々の中で培った「感情で動く剣」。

 リンゴを剥いた手で。泥の中、カイを抱きしめた手で。ボルグの大きな背を叩き、セリアと皮肉を言い合った、あの血の通った手で握る剣。


それはゼノスが最も嫌い、最も「教えられなかった」不確定な刃。規約に記述できず、数式で予測できない、「愛」という名の軌道。


「……なに……?」


ゼノスが初めて、その貌に狼狽を滲ませた。軌道が読めない。教えたはずの規約の文法がどこにもない。


「……なぜだ。お前の動きは私の記述の外にある。お前は私の弟子ではないのか」

「……あなたの弟子でした。でも今は――カイの共犯者よ!」


その一言が、ゼノスの演算回路をフリーズさせた。「共犯者」――互いを選び、運命を共にする、規約外の定義。

 イリスの光が、臨界点を超えて吹き上がる。傷を受けるほどに出力が跳ね上がる。


「……なぜだ! なぜ傷を負うほどに輝きを増す! そんな記述は、世界のどこにも――」

「記述がない? ……そんなの当たり前でしょ! これは、カイが教えてくれた、『諦めない』っていう名の、世界最強のバグなんだから!」


ゼノスは、わずかに目を伏せた。それは師が弟子の言葉を、初めて「聴いた」沈黙だった。


「……そうか。わかった、イリス。ならば師として、お前を安らかに葬ってやろう。……安心せよ」


ゼノスの瞳に、初めて歪んだ「愛」が宿った。正しい世界の外へ踏み出した弟子を、自らの手で消すという、冷徹な慈悲。


ゼノスが己の全権限を注ぎ込んだ、絶対消去光の準備を始めた。直撃すれば、存在データそのものが消滅する。白い光が膨張し、聖域の空気が悲鳴を上げて歪んでいく。


イリスは、避けなかった。

 動かない左肩、震える右膝、全身を走る激痛。それをすべて無視し、折れかけた剣を強く握り直して、さらに前へと踏み出した。


死ぬのは怖い。消えるのは恐ろしい。だが、カイが言った「信じているぞ」という言葉が、今の彼女の全細胞を突き動かしていた。あの男が前を向いているなら、私の一歩にも意味がある。


「……私は、バグを愛した女よ。あんたの正しい世界なんて、私たちが全部、書き換えてやるわ!!」


喉が裂けるほどの叫び。

 一閃。


白い閃光が、聖域のすべてを飲み込んだ。

 ゼノスの声が、正しさの化身が、光の粒子となって彼方へと霧散していった。


閃光が収まった後に残ったのは、聖域の重苦しい静寂と、遠くで黄金の輝きを放ち始めた巨大な演算回路だけだった。


イリスは、その光を見つめながら、崩れるように床に沈んだ。もう、指一本動かす力も残っていない。消去光の余波が、自身の存在をじわじわと削り取っていく。視界が白く、淡く滲んでいく。


床は冷たかった。けれど、不思議と痛みはもう感じなかった。

 後悔なんて、微塵もなかった。師に刃を向け、規約を捨て、バグを愛した。それが、イリス・フェル・レギスタが初めて自分の意志で選んだ「正しさ」だったからだ。


不揃いに切ったリンゴを「甘い」と言ったカイのあの顔が、今も瞼の裏で笑っている。それだけで、私の旅は完成していたのだ。


遠くで輝く黄金の光。カイが、やり遂げようとしている。

 その静寂の底に、彼女の最後の、小さな、けれど切実な願いが落ちた。


「……リンゴのタルト、一緒に食べたかったな」


そして、イリスは満足げに、静かにその目を閉じた。



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