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その結界が解けたとき、この国は滅ぶ〜でも私はもう、守る理由がない〜  作者: 秋月 もみじ


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第9話 辺境で、子供が三人、死にかけている


 レオンが研究棟に駆け込んできたのは、朝の研究を始めて一時間後のことだった。手に握りしめた速報は、ルヴァインの外交局が傍受したハルステッドの緊急通信だった。


「南部辺境のマーレン村で魔獣が出た。結界の外殻が完全に崩壊した地点がある。孤児院の子供たちが避難中、負傷者三名。うち重傷が一名」


 数式を書いていた手が、止まった。


 ペンが紙の上にインクの染みを作った。それを見つめている自分がいた。染みが広がっていく。血の紋様が壁に広がるのと、同じ速度で。


「……マーレン村って、どこですか」


「ハルステッド南部。王都から馬で四日の辺境だ。結界の最外殻に位置する」


 最外殻。


 私は、結界が王都とその周辺だけを守っていると思っていた。グレゴール様にそう教えられた。「あなたが維持しているのは王都の結界です」と。


 違ったのだ。


 初代結界師は、国全体を覆う結界を設計していた。王都だけではない。辺境の村まで。孤児院の子供たちが暮らす、小さな村まで。


 私が守っていた結界は、私が思っていたよりもずっと広かった。


 そして私がいなくなったことで、一番最初に崩れたのは、一番遠い、一番弱い場所だった。王都ではなく。辺境の、子供たちがいる場所。


 レオンが速報の続きを読んだ。


「マーレン村の孤児院には、二十三人の子供がいる。近くの村に避難したが、そこの結界も薄くなっている。二次避難が必要だが、馬車が足りない」


 二十三人。具体的な数字が頭を殴った。二十三人の子供。名前がある。顔がある。毎日ご飯を食べて、遊んで、眠る、生きている子供たちだ。


「エミル。この崩壊速度だと、南部辺境の結界は、」


「あと一週間で完全に消失する。マーレン村だけじゃない。南部の七つの村が結界の外に出る」


 七つの村。


 何人いるのだろう。何百人。何千人かもしれない。子供も、老人も、農民も。結界がなければ魔獣から身を守る術を持たない人たち。剣も魔法も持たない、ただ畑を耕して暮らしていた人たち。


 私は、この人たちのことを考えもしなかった。結界を捨てた時、頭にあったのは王宮の人間だけだった。ヴィクトル殿下と、ロゼッタ嬢と、グレゴール様。あの人たちが困ればいいと思った。だが結界の崩壊は、あの人たちよりも先に、何の罪もない辺境の人間を襲った。


 研究棟の窓から光が差している。穏やかな朝の光。こんな光の中で、遠い辺境では子供が血を流している。


「……戻らなきゃ」


 声が、勝手に出た。


 エミルとレオンが同時に振り向いた。


「戻って、結界を、」


「アデライド」


 エミルの声が、低かった。


「戻ってどうするのですか。また血を流すのですか。毎夜、一人で。あの日々と同じように」


「でも、子供たちが、」


「あなたが戻れば、あの人たちはまた同じことを繰り返します。何も変わらない。また別の女が犠牲になるだけだ」


「わかってる。わかってるけど」


 わかっている。理屈では。でも理屈と子供の血は秤に載らない。載せちゃいけない。載せたら私は、何だ。何になる。


 レオンが腕を組んで、壁に寄りかかっていた。何も言わない。彼は外交官だ。どちらの立場も理解できてしまう人だ。だから黙っている。


「エミル。結界の範囲が国全体だったことを、私は知らなかった。グレゴール様に、いえ、騙されていた、と言うべきでしょう。でも知らなかったことは事実よ。王都の周辺だけだと思っていた。辺境の村が危険にさらされるなんて」


「それはグレゴールの隠蔽であって、あなたの責任ではない」


「責任の話をしているんじゃない」


 声が大きくなっていた。自分でも驚いた。


「子供が死にかけているの。理屈じゃないの。私が戻れば助けられる。それだけのこと、」


「それだけのこと、じゃない」


 エミルが立ち上がった。椅子が大きな音を立てた。彼が声を荒げるのを、初めて聞いた。


「あなたがまた犠牲になることを、『それだけのこと』と言わないでください」


 沈黙。


 研究棟の窓から入る光が、二人の間に落ちている。


 レオンが静かに息を吐いた。


「……俺は外で待っている。二人で話せ」


 扉が閉まった。


 エミルと向かい合った。彼の目は赤かった。怒りなのか、別の感情なのか、わからない。


「エミル。あなたの言うことは正しい。理論的には」


「理論じゃなく、」


「でも。明日発ちます」


 言った。


 言ってしまった。


 エミルが、何かを言いかけて、口を閉じた。唇を引き結んだ。何かを必死に飲み込んでいる顔だった。


「わかりました」


 その声は、平坦だった。研究の数値を読み上げる時と同じ声だった。でも、拳が白くなっていた。数式を書く時には、あんなに柔らかかった手が。



 夜。荷物をまとめた。


 少ない荷物だった。リンデンに来た時よりも少し増えている。ヘルダがくれた帽子。古書店で買った本。エミルの薬草茶の小さな缶、もらったわけではない。いつの間にか、私の部屋のテーブルに置いてあったのだ。


 包帯を巻き直した。左手。右手。傷だらけの指。


 また、この手で血を流すのか。


(自分が我慢すれば済む)


 その思考が浮かんだ瞬間、奥歯の裏側が痺れた。


 また、これだ。またこの思考。自分が我慢すれば。自分が耐えれば。自分が血を流せば。全部丸く収まる。五年間ずっとそう思ってきた。染みついてる。骨まで。骨の髄まで。


 自由になったはずなのに。


 地下室を出て。太陽の下を歩いて。スープの味がわかるようになって。エミルと出会って。研究をして。名前を呼び合うようになって。


 それなのに、子供が傷ついたと聞いた瞬間、私は迷いもなく「戻る」と言った。自分の体を差し出そうとした。何も変わっていない。何も。


 指の先が冷たくなった。十本全部。


 鞄の中の薬草茶の缶を手に取った。蓋を開けると、乾燥した葉の匂いがした。エミルの研究室の匂いだった。


 蓋を閉めた。


 鞄に戻した。


(明日の朝、出る。エミルに、何か言わなければ。でも何を言えばいい。ありがとう? ごめんなさい? どちらも正しくて、どちらも足りない)


 窓の外は暗い。星が見える。でも今夜は、星を綺麗だと思えなかった。


 朝が来るのが怖かった。五年間の地下室では、朝が来ることを待ち望んでいたのに。今は朝が来れば、この場所を離れなければならない。


 自由は、たった三週間で終わるのか。


 目を閉じた。眠れるはずがなかった。

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