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その結界が解けたとき、この国は滅ぶ〜でも私はもう、守る理由がない〜  作者: 秋月 もみじ


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第8話 日傘が飛んだ。二度目だった


 エミルさんに「古書店に結界術の希少本があるそうです」と誘われて、町の外れまで来たのが間違いだった。いや、間違いではない。本は欲しい。だが問題は、古書店までの道が日陰のない一本道だということだった。


 今日の装備は万全のはずだった。帽子を二つ重ね、日傘を持ち、フード付きの外套を着ている。レオンが「そこまでする必要あるか?」と呆れていたが、必要なのだ。地下生活で壊れた目は、一朝一夕には回復しない。


 一度目は、帽子が風に飛ばされた。追いかけて走った拍子に、もう一つの帽子も落ちた。拾おうとしゃがんだら、日傘が風に煽られてバランスを崩した。


 二度目は、立て直した日傘がまた突風にさらわれて、回転しながら排水溝に落ちた。


「……」


 太陽が容赦なく照りつけている。帽子もない。日傘もない。フードだけでは防ぎきれない光量だった。瞼の裏まで白い光が侵入してくる。目が開けられない。手で顔を覆って、道の真ん中で立ち尽くした。


 通りがかりの老婦人が心配そうに声をかけてきた。「お嬢さん、大丈夫?」大丈夫ではない。結界を維持し続けた魔術師が、太陽に負けて道端で蹲っている。滑稽にもほどがある。


「アデライドさん!」


 エミルさんの声。足音が駆けてくる。


 次の瞬間、視界が暗くなった。


 暗い、のではなく、覆われた。何かが、肩から頭にかけて被さっている。布だった。厚手の、外套の布。


 エミルさんの外套だった。


「これで少しは、あ、すみません、突然で」


 外套の下は暗くて、涼しくて、安全だった。エミルさんの匂いがした。インクの匂いと、薬草茶の匂いと、紙の匂い。研究者の匂いだった。


「……ありがとうございます」


 外套の隙間から声を出した。顔は見せられない。見せたくない。結界術の天才が、太陽に負けて立ち尽くしている姿を。


「暗い方が落ち着きます」


 正直に言った。


「では、そのままで。僕が先導しますから」


 外套を被ったまま歩いた。エミルさんが片手で私の肘を軽く支えて、方向を誘導してくれる。指先に触れる彼の手は、思ったよりも温かかった。


 古書店に着くまでの五分間。


 外套の下で、何も見えなかった。でも、隣に人がいることだけは確かにわかった。体温と、足音と、時折ぶつかる肩の感触で。


 地下室では、隣に誰もいなかった。



 古書店の中は薄暗くて、目に優しかった。外套を返すと、エミルさんが何事もなかったかのように受け取った、のだが、外套をたたむ手が少しだけぎこちなかった。たたみ方がおかしくて、三回やり直していた。


 本を探しながら、並んで棚の間を歩いた。古書店の主人は老人で、私たちが結界術の棚を探していると知ると、奥の部屋から追加の本を運んできてくれた。


「最近はこういう本を探す若い人も珍しいねえ。結界なんて、普段は空気みたいなもので、誰も気にしないから」


 空気みたいなもの。そう、結界とはそういうものだ。あって当然で、誰も感謝しない。それを維持するために誰かが血を流していることも、知らない。


「あ、これです。『紋様設計原論』の第二版。ルヴァインにも数冊しかない、」


 エミルさんが本を取ろうとして、同時に私も同じ本に手を伸ばした。指が触れた。


 エミルさんの指が、一瞬で引っ込んだ。


「あ。……えっと。あの。実験の記録をつけなくては」


「今ですか?」


「はい。いえ。すみません」


 エミルさんが棚の反対側に移動した。五分後に戻ってきたが、手には何も持っていなかった。記録をつけた様子はない。


(……何をしに行ったのだろう)


 聞かなかった。眼鏡の奥の耳が、また赤くなっていたから。



 帰り道は曇り空だった。ありがたい。


「アデライドさん」


「はい」


「その、手の傷のことを、聞いてもいいですか」


 足が止まった。


 エミルさんの顔は真剣だった。普段の学術的な好奇心とは違う、もっと深い場所から出てきた問いだった。


「あなたの手の傷。包帯の下の。初めてお会いした日から、ずっと気になっていました」


 ずっと。初日から。あの時、一瞬だけ目を伏せたのは、気づいていたからだったのだ。


 聞かないでいてくれた。十日間。


「……結界を維持するには、血が必要でした」


 簡潔に答えた。それ以上の説明はしなかった。しなくても、この人にはわかるだろう。結界の理論を知っている。「血の紋様」の仕組みを知っている。私の手の傷と、結界の異常と、私がハルステッドを出た時期。それだけの情報を組み合わせれば、。


 エミルさんの歩みが止まった。


 沈黙が数秒。長い数秒だった。彼の靴が石畳を軋ませる音が止んで、風の音だけが残った。


「……許せない」


 低い声だった。


 聞き間違いかと思うほど、小さな声だった。でも、声が低かった。こめかみの血管が脈打っているのが見えた。学術的な興味でも好奇心でもない、純粋な怒りだった。


「誰がそれを強いたのかは聞きません。でも、許せない」


 私は、返す言葉を持たなかった。


 誰も怒ってくれなかった。


 夫は知らないふりをした。グレゴール様は利用した。ロゼッタ嬢は嘲った。マリーは知らなかった。国王陛下は病床にいた。誰一人、「許せない」と言ってくれなかった。


 それを、この人が、会って十日の、隣国の研究者が言った。


 鼻の奥が、つんとした。泣きそうだと気づいて、唇を噛んだ。ここで泣いたら、この人に余計な心配をかける。


「……ありがとうございます」


「いえ。僕は、」


「エミルさん」


「はい」


「……名前で呼んでもいいですか。敬称なしで」


 自分でも驚いた。何を言っているのだろう。でも、口が勝手に動いた。


 エミルさんが、エミルが、目を見開いた。眼鏡がずり落ちた。慌ててかけ直した。もう一度ずり落ちた。またかけ直した。


「もちろん、はい。もちろんです。では僕も、アデライド、と」


「はい」


 名前を呼ばれた。


 「アデライド様」でも「王弟妃殿下」でもなく、ただの名前。


 返事が、半拍遅れた。


 なぜだろう。この人に名前を呼ばれると、少しだけ、返事に時間がかかる。


 理由は、まだ考えないことにした。


 宿に戻ると、ヘルダが「日傘が排水溝にあったよ」と差し出してきた。泥だらけだった。


「あんた、どうやったら日傘を排水溝に落とすんだい」


「風が……」


「次からは紐で手首に結びな。そういう不器用さは嫌いじゃないけどね」


 ヘルダの笑い声を聞きながら、泥だらけの日傘を受け取った。エミルの外套の温かさが、まだ肩に残っていた。

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