第7話 研究は、楽しい、のだと思う
エミルさんの提案で、ルヴァイン王国側にある学院の離れを借りて、結界の共同研究を始めることになった。国境を越えたすぐ先にある小さな研究棟で、窓からリンデンの町が見える。
「ここは普段、学院の実地調査チームが使う施設です。今は空いているので、好きに使って構いません」
エミルさんが鍵を開けながら言った。中に入ると、机が二つ、本棚が三つ、暖炉が一つ。壁に魔術式の古い図版が貼ってある。埃っぽいが、研究には十分だった。
何より、本がある。
結界術に関する文献が棚に並んでいた。ルヴァインの魔術学院の蔵書だ。ハルステッドの王宮図書室にはなかった本が何冊もある。手に取った瞬間、指先に力が入った。本を抱きしめるように。
「この本、リアグラント卿の『結界波動論』の初版ですか?」
「ええ。学院の特別蔵書から借りてきました。アデライドさんなら興味を持たれると思って」
「……これ、ハルステッドでは禁書扱いです。グレゴール様が廃棄を命じて、」
言いかけて、止めた。なぜ禁書扱いになったのか、理由がわかったからだ。この本には、結界を個人の血で維持するシステムの問題点が詳述されている。グレゴール様にとって、この本の存在は都合が悪かったのだ。
エミルさんが小さく息を吐いた。
「やはり、そうでしたか。ハルステッドの図書目録から消えていたので、おかしいとは思っていました」
研究が始まった。
エミルさんの専門は結界波動理論だった。結界の魔力波長を数式で記述し、挙動を予測する。私がやってきたのは真逆、紋様に直接血を通して、感覚と経験で結界を制御する実践だ。
理論と実践。正反対のアプローチが、一つの机の上で出会った。
「この数式、第三項の係数がおかしいと思います」
「え? いや、これはリアグラント卿の導出に基づいて、」
「理論上はそうでしょう。でも実際の紋様は、この係数では動きません。私はずっと」
言いかけて、止まった。
「……すみません。つい」
「いえ、続けてください! 実測値があるなら、それは理論より信頼できます。あなたの経験は、」
エミルさんの目が輝いた。興奮すると早口になる癖が全開だった。眼鏡がずり落ちるのも気にせず、私の説明をメモし始める。
「つまり、実際の紋様では第三項の係数が理論値の一・七倍になる、と?」
「おおよそ。正確な数値は出せませんが、感覚としてはそのくらいです」
「素晴らしい。あなたの魔力効率は理論値の一・七倍です」
「……それは、褒めていただいているのでしょうか」
「もちろんです! 大変な褒め言葉です!」
褒められている。数字で。よくわからないが、嬉しいのだと思う。たぶん。
研究は進んだ。エミルさんが理論を組み立て、私が「でも実際にはこう動く」と修正する。その繰り返しの中で、二人の知識が少しずつ噛み合い始めた。
午後になって、大きな発見があった。
初代結界師が紋様に組み込んだ「共鳴回路」の構造を、エミルさんの数式で解析できることがわかったのだ。私はこの回路を感覚で操作していた。魔力の流し方に強弱をつけると、結界の強度が変わる。波のように、押して引いて、また押す。それは理屈ではなく体の記憶だった。
エミルさんはその感覚的な操作を数式に変換しようとしていた。
「ここです。この共鳴点を超えると、結界の効率が跳ね上がる。アデライドさん、あなたは毎夜これを無意識に制御していたのですか?」
「無意識というか、体が覚えているだけです」
「それを無意識と呼びます。天才的な無意識です」
大げさだ、と思った。でも、エミルさんの声は本気だった。
パズルのピースがはまっていく感覚。結界の間で一人で行っていた作業とは全く違う、対話の中で答えが見つかっていく興奮。これが研究というものなのか。あの頃の私は、こういう時間を過ごすはずだった。結界の間に閉じ込められなければ。
気づけば窓の外が暗くなっていた。
「……もうこんな時間ですか」
「あ。すみません、また時間を忘れて、」
「いえ、私もです」
二人で顔を見合わせて、気まずく笑った。
◇
「お前ら、飯は食ったのか」
研究棟の扉が開いて、男が入ってきた。エミルさんと同い年くらいの、赤毛の青年だった。整った顔立ちに、人懐こい笑みを浮かべている。だが目は鋭い。外交官の目だった。
「レオン。来てたのか」
「来てたのかじゃない。お前が『研究が進んでいる』としか連絡を寄越さないから、状況確認に来たんだ。昼も夜も研究棟に籠もっていると聞いたぞ。食事は?」
「……食べた、と思います」
「思います、じゃない」
レオンと名乗った青年が、呆れた顔でパンの包みを机に置いた。
「レオン・ディートリヒです。ルヴァイン外交局。こいつの幼馴染で、お目付け役です」
「アデライドです。ご丁寧に」
「エミルが世話になっております。……って、逆か。エミル、紹介もなしか?」
「あ、すみません。アデライドさん、こちらはレオンです。外交官で、僕の幼馴染で、」
「それは今本人が言った。お前はもう少し社会性を身につけろ」
レオンがパンを二人に配りながら、エミルさんの机の上の数式をちらりと見た。
「結界の研究か。進んでるのか?」
「かなり。アデライドさんの実践知識は、既存の理論を根底から覆す可能性があります。特に、」
「はいはい、専門的な話は結構。で、お前」
レオンがエミルさんの肩を叩いた。
「それ以外の進展は?」
「それ以外?」
「……いや、なんでもない」
レオンが天井を仰いだ。何かを諦めたような、何かを見守るような、複雑な表情だった。
私にはその意味がわかった。たぶん、エミルさんにはわかっていない。
◇
研究棟を出て宿に戻る道すがり、エミルさんが言った。
「アデライドさん。今日の第三項の修正は本当に重要でした。あなたの理論は美しい」
足が、一瞬止まった。
「……理論ではなく、ただの経験です」
「経験から導かれた法則は、最も信頼できる理論です。少なくとも僕はそう考えます」
エミルさんの耳が、月明かりの下で赤くなっていた。本人は気づいていないだろう。
(美しい、か)
美しいと言われたことは一度もなかった。
研究棟の扉を閉める時、ふいに右手の指先に痛みが走った。
、鋭い痛み。結界の代償の名残だ。体に蓄積した魔力の損傷が、まだ癒えていない。
顔には出さなかった。出す必要はない。
でも、少しだけ、不安になった。この体が、あとどれだけ持つのかということを。




