表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その結界が解けたとき、この国は滅ぶ〜でも私はもう、守る理由がない〜  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/15

第7話 研究は、楽しい、のだと思う


 エミルさんの提案で、ルヴァイン王国側にある学院の離れを借りて、結界の共同研究を始めることになった。国境を越えたすぐ先にある小さな研究棟で、窓からリンデンの町が見える。


「ここは普段、学院の実地調査チームが使う施設です。今は空いているので、好きに使って構いません」


 エミルさんが鍵を開けながら言った。中に入ると、机が二つ、本棚が三つ、暖炉が一つ。壁に魔術式の古い図版が貼ってある。埃っぽいが、研究には十分だった。


 何より、本がある。


 結界術に関する文献が棚に並んでいた。ルヴァインの魔術学院の蔵書だ。ハルステッドの王宮図書室にはなかった本が何冊もある。手に取った瞬間、指先に力が入った。本を抱きしめるように。


「この本、リアグラント卿の『結界波動論』の初版ですか?」


「ええ。学院の特別蔵書から借りてきました。アデライドさんなら興味を持たれると思って」


「……これ、ハルステッドでは禁書扱いです。グレゴール様が廃棄を命じて、」


 言いかけて、止めた。なぜ禁書扱いになったのか、理由がわかったからだ。この本には、結界を個人の血で維持するシステムの問題点が詳述されている。グレゴール様にとって、この本の存在は都合が悪かったのだ。


 エミルさんが小さく息を吐いた。


「やはり、そうでしたか。ハルステッドの図書目録から消えていたので、おかしいとは思っていました」


 研究が始まった。


 エミルさんの専門は結界波動理論だった。結界の魔力波長を数式で記述し、挙動を予測する。私がやってきたのは真逆、紋様に直接血を通して、感覚と経験で結界を制御する実践だ。


 理論と実践。正反対のアプローチが、一つの机の上で出会った。


「この数式、第三項の係数がおかしいと思います」


「え? いや、これはリアグラント卿の導出に基づいて、」


「理論上はそうでしょう。でも実際の紋様は、この係数では動きません。私はずっと」


 言いかけて、止まった。


「……すみません。つい」


「いえ、続けてください! 実測値があるなら、それは理論より信頼できます。あなたの経験は、」


 エミルさんの目が輝いた。興奮すると早口になる癖が全開だった。眼鏡がずり落ちるのも気にせず、私の説明をメモし始める。


「つまり、実際の紋様では第三項の係数が理論値の一・七倍になる、と?」


「おおよそ。正確な数値は出せませんが、感覚としてはそのくらいです」


「素晴らしい。あなたの魔力効率は理論値の一・七倍です」


「……それは、褒めていただいているのでしょうか」


「もちろんです! 大変な褒め言葉です!」


 褒められている。数字で。よくわからないが、嬉しいのだと思う。たぶん。


 研究は進んだ。エミルさんが理論を組み立て、私が「でも実際にはこう動く」と修正する。その繰り返しの中で、二人の知識が少しずつ噛み合い始めた。


 午後になって、大きな発見があった。


 初代結界師が紋様に組み込んだ「共鳴回路」の構造を、エミルさんの数式で解析できることがわかったのだ。私はこの回路を感覚で操作していた。魔力の流し方に強弱をつけると、結界の強度が変わる。波のように、押して引いて、また押す。それは理屈ではなく体の記憶だった。


 エミルさんはその感覚的な操作を数式に変換しようとしていた。


「ここです。この共鳴点を超えると、結界の効率が跳ね上がる。アデライドさん、あなたは毎夜これを無意識に制御していたのですか?」


「無意識というか、体が覚えているだけです」


「それを無意識と呼びます。天才的な無意識です」


 大げさだ、と思った。でも、エミルさんの声は本気だった。


 パズルのピースがはまっていく感覚。結界の間で一人で行っていた作業とは全く違う、対話の中で答えが見つかっていく興奮。これが研究というものなのか。あの頃の私は、こういう時間を過ごすはずだった。結界の間に閉じ込められなければ。


 気づけば窓の外が暗くなっていた。


「……もうこんな時間ですか」


「あ。すみません、また時間を忘れて、」


「いえ、私もです」


 二人で顔を見合わせて、気まずく笑った。



「お前ら、飯は食ったのか」


 研究棟の扉が開いて、男が入ってきた。エミルさんと同い年くらいの、赤毛の青年だった。整った顔立ちに、人懐こい笑みを浮かべている。だが目は鋭い。外交官の目だった。


「レオン。来てたのか」


「来てたのかじゃない。お前が『研究が進んでいる』としか連絡を寄越さないから、状況確認に来たんだ。昼も夜も研究棟に籠もっていると聞いたぞ。食事は?」


「……食べた、と思います」


「思います、じゃない」


 レオンと名乗った青年が、呆れた顔でパンの包みを机に置いた。


「レオン・ディートリヒです。ルヴァイン外交局。こいつの幼馴染で、お目付け役です」


「アデライドです。ご丁寧に」


「エミルが世話になっております。……って、逆か。エミル、紹介もなしか?」


「あ、すみません。アデライドさん、こちらはレオンです。外交官で、僕の幼馴染で、」


「それは今本人が言った。お前はもう少し社会性を身につけろ」


 レオンがパンを二人に配りながら、エミルさんの机の上の数式をちらりと見た。


「結界の研究か。進んでるのか?」


「かなり。アデライドさんの実践知識は、既存の理論を根底から覆す可能性があります。特に、」


「はいはい、専門的な話は結構。で、お前」


 レオンがエミルさんの肩を叩いた。


「それ以外の進展は?」


「それ以外?」


「……いや、なんでもない」


 レオンが天井を仰いだ。何かを諦めたような、何かを見守るような、複雑な表情だった。


 私にはその意味がわかった。たぶん、エミルさんにはわかっていない。



 研究棟を出て宿に戻る道すがり、エミルさんが言った。


「アデライドさん。今日の第三項の修正は本当に重要でした。あなたの理論は美しい」


 足が、一瞬止まった。


「……理論ではなく、ただの経験です」


「経験から導かれた法則は、最も信頼できる理論です。少なくとも僕はそう考えます」


 エミルさんの耳が、月明かりの下で赤くなっていた。本人は気づいていないだろう。


(美しい、か)


 美しいと言われたことは一度もなかった。


 研究棟の扉を閉める時、ふいに右手の指先に痛みが走った。


 、鋭い痛み。結界の代償の名残だ。体に蓄積した魔力の損傷が、まだ癒えていない。


 顔には出さなかった。出す必要はない。


 でも、少しだけ、不安になった。この体が、あとどれだけ持つのかということを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ