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その結界が解けたとき、この国は滅ぶ〜でも私はもう、守る理由がない〜  作者: 秋月 もみじ


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第6話 馬蹄の音が、宿の窓を震わせた


 複数の馬だ。四頭か、五頭か。石畳を蹴る規則正しいリズムは、軍馬の訓練を受けた馬のものだった。伯爵家にいた頃、父の騎馬隊をよく見ていたからわかる。


 窓から覗くと、王家の紋章入りの外套を着た騎士が三名、宿の前に馬を止めていた。先頭の騎士が馬を降りて、宿の扉を開ける。


 来た。


 予想より早かった。捜索命令が出たのは二日前だとエミルさんが言っていた。このリンデンは国境の町とはいえ、王都からは早馬で二日はかかる。つまり、命令が出る前から、この町の目星はつけていたということだ。


 私は椅子に座ったまま、お茶を飲んだ。エミルさんが今朝淹れてくれた薬草茶だ。少し苦い。でも手が温まる。


 階段を上がってくる足音。ヘルダの声が聞こえた。


「お客さん、あんたに来訪者だよ。王宮の、ってことは、あんた、ただの旅人じゃなかったんだね」


「……申し訳ありません、ヘルダさん」


「別に怒ってないよ。ただ、出て行けって言うなら一発殴ってやるから、安心おし」


 おかみの頼もしさに、少しだけ口元が緩んだ。


 食堂に降りると、騎士の後ろに文官が一人立っていた。ヴィクトル殿下の側近、ハインツだった。四十代の痩せた男で、事務処理能力は高いが、自分の意見は持たない人だった。殿下の言葉をそのまま伝える、忠実な伝書鳩。


「アデライド様。ヴィクトル殿下よりお言伝です」


「どうぞ」


 ハインツが書簡を差し出した。封蝋にヴィクトルの紋章が押してある。中身を開いた。


『アデライド。帰ってきてほしい。結界のことで、話がしたい』


 短い文だった。命令ではなく懇願の形を取っている。ヴィクトル殿下の筆跡は相変わらず端正で、文面に感情の乱れはなかった。よく言えば冷静、悪く言えば、この期に及んでまだ体面を気にしている。


「ハインツ様。殿下にお伝えください」


「はい」


「白い結婚の解消届は法的に受理されました。私はもう王弟妃ではありません。したがって、結界の維持は私の義務ではありません」


 ハインツの表情が固まった。この答えを予想していなかったのだろう。殿下が「帰ってきてほしい」と言えば、元妻は頷くと思っていたのだ。ずっとそうだったように。


「し、しかしアデライド様。結界の状況は深刻で、」


「存じております。ただ、私は毎夜血を流して結界を維持してまいりました。その間、一度も休暇をいただいておりません。残業代もいただいておりません。有給休暇もありません。退職金もありません」


 ハインツが口をぱくぱくさせた。騎士たちも困った顔をしている。彼らは「結界」の意味がわかっていないのだろう。ただ、労働条件の話は理解できたらしく、気まずそうに視線を交わしている。


(……笑ってしまいそうだ)


 あの犠牲を労働条件の問題に矮小化しているのは自分だとわかっている。でも、そうしないとこの場を乗り切れない。怒りを怒りのまま出したら、たぶん泣いてしまう。泣くのは嫌だった。この人たちの前では、絶対に。


「あの年月の労働に対する正当な報酬と、結界維持業務の制度的見直しを求めます。具体的な条件は書面でお出しします。それまで、お帰りください」


 ハインツが何か言いかけた時、背後から声がした。


「失礼。彼女は現在、ルヴァイン王国の学術調査に協力していただいている客人です。身柄の拘束は、外交問題になりますが」


 エミルさんだった。


 いつの間にか食堂の入口に立っていた。普段の穏やかな空気はどこにもない。目が冷たく光っている。銀縁眼鏡の奥の表情が、学者のそれではなく、交渉者のそれだった。声も低い。こんな声を出す人だとは知らなかった。


 ハインツが顔を強張らせた。ルヴァインの魔術学院の名前は、この大陸では一定の重みを持つ。無視はできない。


「……了解いたしました。殿下にそのようにお伝えいたします」


 騎士たちが退出した。馬蹄の音が遠ざかっていく。


 静寂が戻った。


「ありがとうございます、エミルさん」


「いえ。ただ、客人、というのは嘘ではありませんよ。あなたの結界に関する知見は、僕の研究に不可欠です」


 不可欠。学術的な意味で不可欠。それはわかっている。


(……でも、「客人」という言葉を選んだのは、学術的な理由だけではないでしょう)


 聞かなかった。聞けなかった。まだ、そういう言葉を受け取る準備ができていない。



 その夜、エミルさんが追加の報告を持ってきた。


「宮廷の動きがもう一つ。ロゼッタ嬢が、侯爵令嬢のロゼッタ嬢が、結界の修復に志願したそうです」


「……ロゼッタ嬢が?」


「『魔力の高い貴族女性であれば結界を維持できるはず』という主張で、グレゴール卿がその可能性を検討しているとか」


 目を閉じた。


 ロゼッタ嬢の魔力は、確かに平均よりは高い。だが、初代結界師の血統ではない。紋様が応答するはずがない。グレゴール様もそれはわかっているはずだ。わかっていて、利用しようとしている。ロゼッタ嬢の失敗を見せることで、「やはりアデライドでなければ」と世論を作ろうとしているのか。あるいは、ロゼッタ嬢を人身御供にして時間を稼ごうとしているのか。


 どちらにしても、醜い話だ。


「アデライドさん。顔色が悪いです」


「考えごとです。……嫌なことを思い出しました」


「お茶を淹れましょうか」


「お願いします」


 エミルさんが席を立った。


 一人になった食堂で、窓の外を見た。星が見える。でも昨夜より、空気が冷たい。結界の揺らぎが、この町の気温にも影響し始めているのかもしれない。


(あの人たちは、まだ自分たちの失敗に気づいていない)


 ロゼッタ嬢の「志願」を聞いて、確信した。あの宮廷は、結界というものの本質を何も理解していない。血統。魔力。紋様の設計。百年前の初代結界師が何を考えてあの仕組みを作ったのか。


 理解しているのは、あの部屋で血を流し続けた私だけだ。


 エミルさんがお茶を持って戻ってきた。今夜は、昨日とも一昨日とも違う味だった。少し酸味があって、飲むと肩の力が抜ける感じがする。


 この人は、毎回違う配合のお茶を出す。ただの習慣なのか、それとも、。


 聞かなかった。今はただ、温かいものを飲みたかった。


 窓の外で、風が木の枝を揺らしていた。春の風のはずなのに、少しだけ、冬の匂いがした。

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