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その結界が解けたとき、この国は滅ぶ〜でも私はもう、守る理由がない〜  作者: 秋月 もみじ


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第5話 王都の空に、ひびが入ったという


 エミルさんがいつもの朝食の席で、魔法鳥便の手紙を広げながら言った。ルヴァイン王立魔術学院の同僚からの報告だった。


「ハルステッド王国の上空に、肉眼で確認できる魔力の亀裂が出現。結界の基本波長が昨日から三十七パーセント低下。このままの速度で減衰すれば、一ヶ月以内に結界の外殻が崩壊する可能性があると」


 エミルさんの声は落ち着いていたが、目は真剣だった。スープの皿を脇にどけて、紙の上に数式を走り書きし始めている。


 私は黙って聞いていた。


 三十七パーセントの低下。私が結界の間を出てから、まだ十日しか経っていない。予想より早い。結界は百年分の蓄積があるから、私がいなくなっても数ヶ月は持つと思っていた。だが十日で三割以上の低下ということは、。


(私が思っていたより、結界は私に依存していたのね)


 不思議な感情だった。悲しいとも、嬉しいとも違う。自分が何をしていたのかを、数字で突きつけられた気分だった。


「それで、宮廷魔術師団は何をしているのですか?」


 聞かなくてもわかっていたが、聞いた。


「修復を試みているようですが、成功していません。報告によると、宮廷魔術師長グレゴール卿が自ら紋様の間に入ったそうですが、紋様が応答しなかったと」


 当然だ。


 あの紋様は、初代結界師の血統の魔力にしか応答しない。グレゴール様の学術知識がどれほど豊富でも、紋様の前では無力だ。三十年間、毎年の予算会議で「結界維持のための魔術師団増員」を申請し、予算を勝ち取り、その金で自分の研究室を潤し、実際の結界維持は一人の女に押し付けてきた人。化けの皮が、ようやく剥がれたのだ。


「なぜ動かん!」。グレゴール様がそう叫んでいる姿が、不思議なほど鮮明に想像できた。想像できてしまう程度には、あの方のことを知っている。同じ地下に通い続けたのだから。


「アデライドさん」


「はい」


「あなたは、この結界のことを、かなり詳しくご存知ですよね」


 エミルさんの目が、静かに私を見ていた。問い詰めるのではない。ただ、確認するような目だった。


「……ええ」


「聞きません。あなたが話したくなるまでは」


 その一言が、ありがたかった。



 午後になって、新しい報告が届いた。今度はリンデンの町役場に掲示された公報だった。


『ハルステッド王国より通達、国境付近の結界に一時的な不安定が発生。宮廷魔術師団が対処中。国民に不安は不要』


 ヘルダが食堂で公報を読み上げて、鼻を鳴らした。


「不安は不要って。空にひびが入ってるのに、何を寝ぼけたことを」


 リンデンは国境の町だ。ハルステッドの結界が弱まれば、真っ先に影響を受ける。町の人たちの表情には、すでに不安の色があった。


 エミルさんが魔術学院から追加の手紙を受け取った。封を開けた彼の表情が、珍しく厳しくなった。


「グレゴール卿が、記者会見を開いたそうです」


「何と?」


「『結界の一時的な乱れは、魔術師団の定期メンテナンスによるもの。数日で安定する』と」


 嘘だ。メンテナンスで結界が三割以上低下するわけがない。グレゴール様は、自分の無能を隠すために、嘘の発表をした。


(あの方らしいわ)


 三十年間、嘘をつき続けてきた人だ。今さら嘘を一つ増やすことに抵抗はないのだろう。


「ただ、この数値の推移を見ると、」


 エミルさんが紙の上に折れ線グラフを描いた。結界の波長の経時変化だった。


「低下が加速しています。今のペースだと、一ヶ月ではなく二週間で外殻崩壊の可能性があります。グレゴール卿の修復が失敗するたびに、紋様の反応が悪くなっている。下手に触って状態を悪化させているとしか思えません」


「触れば触るほど紋様が拒絶する。初代結界師がそう設計したのでしょう。異なる血統の魔力を侵入者と判定して、防御反応を起こしている」


 言ってから、口が滑ったことに気づいた。今の説明は、結界の内部構造を知っていなければ出てこない。


 エミルさんが、静かに私を見た。


「……あなたは、紋様に触れたことがあるのですか」


 沈黙が落ちた。


 ヘルダが食堂の奥で皿を洗う音だけが聞こえた。


「あります」


 それだけ答えた。エミルさんはそれ以上聞かなかった。ただ、眼鏡の奥の目が、少しだけ痛そうに細められた。



 夜。一人になって考えた。


 結界が崩壊すれば、魔獣がハルステッドに侵入する。百年前の大魔獣戦争が再現される可能性がある。


 それは、私のせいだ。


 いや。私のせいではない。結界を一人の女に押し付けてきたのは王家だ。グレゴール様だ。ヴィクトル殿下だ。私がいなくなった後のことを、何一つ考えていなかった人たちだ。


(でも、)


 でも、困るのは王家だけではない。王都の民も、国境の民も、辺境の村人も。


 その思考を振り払った。


 考えるな。もう私の責任ではない。


「冬が来ますよ」。あの日ロゼッタ嬢に言った言葉が、自分に返ってくる。冬は来ている。そして私はもう、冬を防ぐ壁ではない。


 窓の外を見た。星が見える。昨日より、星の光がほんの少し滲んでいるように見えた。


 結界の揺らぎが、もうここまで届いているのかもしれない。



 翌朝。


 エミルさんがいつもの朝食の席で、また手紙を広げた。今度は彼の表情が明確に暗かった。


「ヴィクトル殿下が——王弟殿下が、動いたそうです」


「……何を」


「元妃の行方を捜索する命令を出した、と。『結界の修復に必要な人材の確保』という名目で」


 手が止まった。スープの匙が、皿の縁に当たって小さな音を立てた。


 捜索命令。


 つまり、連れ戻しに来る。


 エミルさんが私を見た。


「アデライドさん。僕は、」


「大丈夫です」


 声が平坦だった。自分でも驚くほどに。


「大丈夫です。五年間の労働に対する正当な報酬すら、いただいていませんから。交渉の余地はいくらでもあります」


 冗談のつもりだった。半分は。


 エミルさんが、少しだけ目を見開いて、それから、初めて笑った。


「……強い方ですね」


「強いのではなく、怒っているだけです。五年分」


 怒り。そうだ。あの地下室にいる間はずっと感じなかった怒りが、自由になってから少しずつ、溶けた氷のように、じわじわと体の内側に広がっていた。


 エミルさんのお茶を飲んだ。今朝の味は、昨日と少し違った。少し甘くなっている。


 気のせいだろうか。

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