第4話 帽子が、三つ。まだ足りない気がした
エミルさんに「市場に行きませんか。この町の魔力鉱石屋に興味深い標本があるそうです」と誘われたのが昨日の夕食時だった。断る理由はなかった。断る理由はなかったのだが、問題は、市場が屋外だということだった。
朝。部屋の窓からカーテン越しに外を確認する。快晴。雲一つない。
最悪だ。
ヘルダから借りた麦わら帽子を被った。つばが広いから、少しはましだろう。その上から、自分のフード付き外套を被る。さらに、荷物の奥にしまってあった旅行用の日よけ帽を重ねた。
鏡を見た。
異様な光景だった。頭の上に帽子が三層になって積み重なっている。これで外を歩いたら、間違いなく不審者だ。
(……でも目が痛いよりはまし)
階段を降りると、エミルさんが食堂で待っていた。私の頭上の帽子タワーを見て、三秒ほど固まった。
「……合理的ですね」
褒められた。たぶん。
「太陽が、少し苦手で」
「少し、ですか」
「……かなり」
外に出た。
即座に後悔した。
太陽が、暴力的だった。帽子三つ重ねの防御を貫通して、光が目に刺さる。瞼の裏まで白い。歩き出した途端、光が反射する石畳に目がくらんで、三歩目で壁にぶつかった。
「大丈夫ですか!」
「大丈夫です。……壁が急に出てきただけです」
「壁は動きませんが」
ごもっともだった。
結局、エミルさんの半歩後ろを、目を細めて歩くことになった。視界の確保できる範囲が狭いので、エミルさんの背中だけを頼りに進む。研究者にしては背が高い人だった。日よけの代わりになるかと一瞬思ったが、それはさすがに失礼だろう。
途中、日陰から日陰へと小走りに移動する自分に気づいた。建物の影を渡り歩いている。日なたに出ると目が痛いから、自然とそうなる。エミルさんが振り返って、首を傾げた。
「もしかして、日陰を選んで歩いていますか?」
「……ええ。はしたないと思いますが」
「いえ。ただ、次の角を曲がると日陰がしばらくないので、走ることになりますよ」
予告通り、角を曲がった先は日なたが続いていた。目を限界まで細めて、ほぼ走るように横断した。その間に帽子が一つ飛んだ。エミルさんが拾ってくれた。
「ありがとうございます」
「日光過敏症の一種でしょうか。ルヴァインの文献に、長期間暗所に滞在した後の、」
また早口で学術的な話を始めた。聞き取れたのは半分くらいだったが、私の状態を「奇異なもの」ではなく「学術的に説明できる現象」として扱ってくれることが、不思議と心地よかった。
市場は、小さいが活気があった。
声が聞こえる。売り子の声、値切る声、子供の笑い声。馬車の車輪が石畳を転がる音。肉を焼く匂い、パンの匂い、花の匂い。
知らなかった世界だった。
いや、十九歳までは知っていたはずなのに、すっかり忘れていた。市場で買い物をすること。自分で品物を手に取って、選んで、お金を払うこと。こんなに当たり前のことが、新鮮で怖い。
「アデライドさん、あそこの鉱石屋に寄ってもいいですか」
「どうぞ」
エミルさんが鉱石屋に入っている間、私は隣の食料品店を眺めた。野菜が並んでいる。人参、じゃがいも、玉ねぎ、豆。
、自分で選んでいいのだ。
食事はマリーが運んでくれるものだけだった。メニューを選ぶという概念がなかった。地下室には台所もなかった。
人参を一本、手に取った。
ずっしりと重い。土がついている。生きている野菜の重さだった。
「お嬢ちゃん、それ買うのかい?」
店主に声をかけられて、慌てて人参を戻した。二十四歳で「お嬢ちゃん」と呼ばれたのは初めてだったが、帽子を三つ重ねてうろうろしている女はそう見えるのかもしれない。
結局、人参と玉ねぎとパンを買った。自分で。自分のお金で。王宮から持ち出したのは、嫁入り前に貯めていたわずかな私金だけだったが、この町の物価なら、しばらくは持つだろう。
店主が「毎度あり」と笑った。見知らぬ土地で、見知らぬ人に「毎度あり」と言われる。それだけのことが、なぜかひどく胸に迫った。
私は「買い物」をしたことがなかった。何かを自分の意思で選び、自分のお金で手に入れること。人間として当たり前のその行為から、切り離されていた。
◇
宿に戻って、ヘルダに頼んで台所を借りた。
「料理するのかい?」
「簡単なものを。……久しぶりなので、うまくできるかわかりませんが」
スープを作った。人参と玉ねぎを切って、水と塩で煮ただけの、一番簡単なスープ。包丁を握る手が危なっかしかった。指の感覚がまだ完全には戻っていない。
できあがったスープを、食堂のテーブルに置いた。
エミルさんが鉱石屋から戻ってきた。鞄がさらに膨らんでいる。標本を買い込んだらしい。
「あ、スープですか。いい匂いですね」
「よかったらどうぞ。たくさん作りすぎてしまって」
二人で食べた。
一口目。
味がした。人参の甘さと、玉ねぎが溶けた優しい味。塩は少し多かったかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。
自分で選んだ材料で、自分で作ったスープ。
その事実が、じわじわと胸に広がって、視界が、にじんだ。
「……あの、アデライドさん?」
「すみません。美味しくて」
「美味しいですよね。とても」
エミルさんは何も聞かなかった。ただ、席を立って、棚から何かを取り出した。小さな缶だった。中身は乾燥した薬草だった。
「よかったら、食後にお茶をどうぞ。僕がいつも飲んでいるものですが、体が温まります」
お茶を淹れてくれた。湯気が立ち上って、薬草の匂いが広がった。
一口飲んだ。不思議な味だった。少し苦くて、でも後味に甘みがあって、飲み込んだ後に体の芯がじんわり温かくなる。地下室で飲んでいた水とは、何もかもが違う。
「何のお茶ですか?」
「えっと、ルヴァインでは一般的な薬草茶です。月華草と、白樺皮と、あと少し、」
早口になって、薬草の学名を並べ始めた。途中から聞き取れなくなったが、穏やかな声だった。薬草の話をする時のエミルさんは、結界の話をする時とはまた違った熱の入り方をする。好きなものが多い人なのだろう。
「、で、月華草の精油成分が血行を促進することは古くから知られていまして、ルヴァインの薬学論文では、あ、すみません、長くなりました」
「いいえ。面白いです」
本当に面白かった。誰かの話を「面白い」と思えること自体が、久しぶりのことだった。
窓から西日が差し込んでいた。
今度は、そんなに眩しくなかった。
(……明日も、外に出てみようかな)
初めて、「明日」に期待を持った。
小さな期待。人参を選ぶくらいの、ささやかな期待。
でもそれは、あの地下室にはなかったものだった。
エミルさんのお茶を、もう一口飲んだ。体が温かい。指先まで。感覚のない薬指の先まで、温かい気がした。
気のせいだろうか。
気のせいでもいい。




