第3話 自由というのは、思ったより静かだった
国境の町リンデンに着いたのは、王宮を出てから三日後のことだった。乗合馬車を二度乗り継ぎ、途中で一泊し、ようやくたどり着いた小さな宿場町。ハルステッド王国とルヴァイン王国の国境に位置する、どちらの国にも属しきれない曖昧な場所だった。
宿のおかみは、ふくよかで声の大きい女性だった。
「あんた、顔色が悪いねえ。ちゃんと食べてるのかい?」
「……はい、まあ」
「嘘おっしゃい。ほら、今朝のスープがまだ残ってるから、座んなさい」
有無を言わさず椅子に座らされ、湯気の立つスープを出された。断る隙がなかった。おかみの名前はヘルダ。押しが強くて世話焼きで、人の事情を詮索しない代わりに、食事だけは絶対に抜かせない、という主義の持ち主らしかった。
スープを一口飲んだ。
味がする。
当たり前のことだ。スープには味がある。でも、王宮の地下にいた私にとって、それは当たり前ではなかった。結界に魔力を吸われ続けた体は味覚も鈍っていて、この三日間、食事の味がほとんどわからなかった。
今朝、初めて、スープの塩味がわかった。
玉ねぎの甘さがわかった。
じゃがいものほくほくした食感がわかった。
目の奥が、じわりと熱くなった。
「おやおや、泣くほど不味かったかい?」
「……いいえ。美味しいです」
ヘルダは何も聞かなかった。ただ、スープのおかわりを黙って置いてくれた。
◇
宿の二階の部屋は、小さいが清潔だった。窓がある。窓から光が入る。それだけで、私には贅沢だった。
ただ……光が痛い。
目が慣れていないのだ。紋様の赤い光しか知らない目には、昼間の自然光は刃物のように鋭い。窓にカーテンを引いて、薄暗い部屋で横になった。
体が重い。
結界の間を出てから三日経つが、体調は悪いままだった。魔力を過剰に消耗した後遺症は、すぐには回復しない。手足の末端の感覚は相変わらず鈍く、時折、眩暈がした。
(でも、生きている)
天井を見上げた。石ではない天井。木の梁が見える。蜘蛛の巣がある。窓から風が入って、カーテンが揺れている。
生きている。地下ではなく、地上で。
それだけで十分だった。十分なはずだった。なのに、静かすぎて落ち着かない。紋様の脈動音がない。血の匂いがしない。この部屋には石の冷たさがない。それらがないことが、かえって不安を呼ぶのは、体が地下に順応してしまった証拠だろう。
(……囚人が牢獄を懐かしむようなものね)
自嘲して、目を閉じた。
◇
翌日の午後。
宿の食堂で遅い昼食を取っていると、見慣れない男が入ってきた。
銀縁の眼鏡をかけて、癖のある栗色の髪を適当にまとめている。旅装は整っているが、鞄が異様に膨らんでいる。中身は十中八九、書物だろう。鞄の隙間から紙の束が覗いていた。
「ヘルダさん、部屋はありますか」
「あるよ。一泊?」
「しばらく滞在するかもしれません。研究の……いえ、調査でこの地域に来ておりまして」
声が少し早口だった。ルヴァインの訛りがある。隣国の人間だ。
男は食堂の隅に座り、鞄から書類の束を取り出して広げ始めた。紙の上に魔術式が見える。結界に関する数式だった。
(……結界術?)
思わず目を向けた。すぐに視線を戻したが、一瞬だけ、男と目が合った。
男は私の手を見た。
包帯を巻いた両手を。
一瞬だけ、目を伏せた。何かを察したような、でもそれを口にはしないという決意のような、不思議な表情だった。
「……失礼。あなたも、この宿のお客さんですか」
「ええ」
「エミル・ファーレンハイトと申します。ルヴァイン王立魔術学院の研究員です。このあたりの魔力波動の調査に参りました」
魔力波動。つまり……結界の異常を調べに来ている。
「……アデライドです。旅の途中です」
姓は名乗らなかった。「ヴェルナー」と言えば伯爵家の名で怪しまれるし、「王弟妃」とは口が裂けても言えない。
エミルさんは頷いて、再び書類に目を落とした。だが、数分後にまた顔を上げた。
「あの。差し出がましいのですが」
「何でしょう」
「結界術に、お詳しい方ですか?」
鳥肌が立った。
「……なぜ、そう思われるのです」
「先ほど、私の書類をご覧になった時の目です。あの数式を見て意味がわかる方は、少なくともこの辺境にはいないはずなので」
観察力の鋭い人だった。あるいは、学者特有の好奇心がそうさせたのか。
「少しだけ。昔、学んだことがあります」
嘘ではない。学んだ。そして実践した。世界中の誰よりも長く、一人で。
「もしよろしければ、少しお話を聞かせていただけませんか。ハルステッド王国の結界に、異常な波動が出ているのです。ここ数日で急激に。原因を調査しているのですが、文献だけでは限界がありまして」
数日前。私が結界の間を出た日と一致する。
「……どのような異常ですか?」
「波長の乱れです。百年間安定していた結界の基本波長が、突然揺らぎ始めた。まるで……維持していた何かが、急になくなったかのような」
何か、ではなく誰か。
でも、それはまだ言えなかった。この人が何者で、何を目的としているのか、わからない。信用するには早すぎる。
「興味深いですね。もう少し、詳しくお聞きしてもよいですか」
「もちろん!」
エミルさんの目が輝いた。学術的な話ができる相手を見つけた喜びが、隠しきれていない。鞄から次々と書類を引っ張り出し始める姿は、学者というよりも宝箱を見つけた子供のようだった。
……久しぶりだった。
結界の話を、対等にできる相手がいるということ。
グレゴール様は結界術を理解していなかった。ヴィクトル殿下は関心がなかった。マリーに話しても困らせるだけだった。結界について語れる相手が一人もいなかった。
エミルさんの説明は理論的で、早口で、時折専門用語が混ざるので聞き取りにくかったが……楽しかった。
楽しい。この感覚を忘れかけていた。
食堂での会話は二時間に及んだ。ヘルダが「そろそろ夕飯の支度をするから場所を空けておくれ」と言うまで、二人とも時間を忘れていた。
◇
夜。
エミルさんが自室に戻った後、私は自分の部屋の窓から夜空を見上げた。星が見える。地下室では見えなかった星が。
ふと、エミルさんが食堂に置き忘れていった紙切れが目に入った。拾い上げると、研究ノートの端が破れたものだった。
表紙の文字が見えた。
『結界の犠牲……代替理論の可能性』
手が、止まった。
犠牲。この人は……結界に犠牲者がいることを知っている?
紙切れを置いた。
眠れなかった。でもそれは、地下室にいた頃の眠れなさとは違った。




