第2話 解消届の紙は、思ったより薄かった
たった一枚。ここに署名をすれば、婚姻が終わる。指が硬い。硬いのに動く。不思議だと思いながら、嘘をつくのはやめよう。震えている。感覚のない右手の薬指まで震えているのだから、なかなか滑稽なものだ。
王宮の事務局は、朝一番に訪れた。晩餐会の翌朝、宮廷の人間は二日酔いで誰も早起きしない。だから今なら、誰にも会わずに済む。
「……白い結婚の解消届ですね」
受付の文官が、紙を二度見した。王弟妃が直接持参する書類ではない、という顔だった。
「はい。婚姻の実態がないまま五年が経過しましたので、法に基づき解消を申請いたします」
声は平坦だった。感情を押し殺す訓練をしてきたのだ。書類一枚で崩れるほど、やわな仮面ではない。
文官が恐る恐る署名欄を確認し、国王陛下への事後報告の手続きを説明した。私は頷いた。全部、昨夜のうちに調べてある。寝なかった。眠れなかったのではなく、眠る必要がなかった。夜は結界の間にいたのだから、夜に眠る習慣がそもそもない。
「受理いたしました」
文官の声を聞いた瞬間——何かが胸の奥で、音もなく切れた。
糸だ。見えない糸。ずっと、ぎりぎりで私をこの場所に繋ぎ止めていた糸。義務感という名前の、細くて丈夫な糸。
それが切れた。
事務局を出ると、廊下に朝日が差し込んでいた。目が痛い。地下の赤い光しか知らない目には、朝日は暴力に近かった。目を細めて、壁に手をつきながら歩いた。
情けない姿だろうな、と思った。王弟妃が朝日に怯えて壁伝いに歩いている。
角を曲がったところで、声をかけられた。
「おや、アデライド。珍しいね、こんな朝早くに」
ヴィクトル殿下だった。
寝巻きの上に薄いガウンを羽織って、片手に水差しを持っている。寝起きらしい。愛人の部屋から自室に戻る途中だろう。隠す気もないのだ。五年前からずっと。
「おはようございます、ヴィクトル殿下」
「ああ、おはよう。……顔色が悪いな。また体調が?」
また。便利な言葉だ。「また体調が悪い」と言えば、全部説明がつく。なぜ晩餐会に出ないのか、なぜ社交の場に顔を出さないのか、なぜ妃としての務めを果たさないのか。全部、「体が弱いから」。
「いいえ。本日は、ご報告があります」
「報告?」
「白い結婚の解消届を提出いたしました。先ほど、事務局で受理されました」
沈黙が落ちた。
ヴィクトル殿下は水差しを持ったまま、三回ほどまばたきをした。その表情を見て、私は小さな発見をした。この方は、本当に理解していなかったのだ。私がいつか出ていくということを。
「……解消届?」
「はい。婚姻の実態がないまま五年が経過した場合、妃の側から解消を申請できる制度です」
「いや、それは知っている。知っているが」
言葉が途切れた。水差しの水面が揺れている。手が強張っているのだろう。
つまり、この方は知っていたのだ。制度を。それなのに、「まさか使わないだろう」と思っていた。耐え続けた女が、六年目も七年目も耐え続けると。
(なんて見事な「見なかったこと」の技術)
「アデライド、少し話を」
「申し訳ありません。荷物をまとめなければなりませんので」
頭を下げて、背筋を伸ばしたまま歩き出した。背中に視線を感じた。追いかけてはこなかった。足音もしない。追いかけるほどの執着はない。それは知っていた。
◇
自室に戻ると、マリーが泣いていた。
「アデライド様……! 本当に、お発ちになるのですか」
「ええ。今日中に」
「せめて、もう少し……」
「マリー。ありがとう。あなたがいてくれたから、ここまで持ったのよ」
嘘ではなかった。マリーが毎朝運んでくれる朝食と、時折添えられる野の花だけが、あの日々の唯一の色彩だった。
荷物は少なかった。嫁入り道具の大半は使ったことがない。ドレスも装飾品も、宮廷に置いていく。持っていくのは、着替え数枚と、結界術の覚書だけだった。
マリーが鼻をすすりながら、最後に一つ、小さな包みを鞄に入れた。
「乾燥させた薬草です。……お体に、気をつけて」
喉の奥が、少しだけ熱くなった。
荷物を抱えて廊下に出ると、待ち構えていた人影があった。
「あら、ようやくお分かりになったのね」
ロゼッタ嬢が、扇の陰から微笑んでいた。朝からきちんと化粧をして、髪も整えている。この人はいつも完璧だ。社交界の華として、一分の隙もなく装っている。
「ロゼッタ嬢」
「最初から、あなたの居場所なんてここにはなかったのよ。ようやくそれに気づいたのね。遅すぎるくらいだわ」
私は彼女の顔を見た。
美しい人だ。自信に満ちていて、声がよく通って、立ち居振る舞いが華やかで。この人が王弟妃であった方が、宮廷は華やいだだろう。それは事実だ。
ただ、結界を維持できるのは、私だけだった。それだけのことだった。
「ロゼッタ嬢」
「何?」
「冬が来ますよ」
それだけ言って、歩き出した。
ロゼッタ嬢が怪訝な顔をしたのが、視界の端に見えた。意味がわからなかったのだろう。
わからなくていい。もうすぐわかる。
◇
王宮の正門を出た。
風が吹いた。
朝の風だった。土と草の匂い。馬の匂い。遠くからパン屋の焼きたての匂い。全部、忘れていた匂いだった。
目が眩む。太陽は相変わらず暴力的だった。でも、目を細めたまま、私は歩いた。
振り返らなかった。
その頃。王宮の地下では。
宮廷魔術師長グレゴールが、結界の間の扉を開けた。定期確認のためだ。月に一度、結界の状態を「確認」するのが彼の仕事だった。確認するだけ。維持は、いつもアデライドがやっていた。
扉を開けた瞬間、冷たい空気が流れ出した。
紋様の光が弱い。
明らかに弱い。昨夜まで安定していたはずの光が、脈打つように明滅している。まるで、心臓が止まりかけているかのように。
グレゴールの顔から、血の気が引いた。
「……まさか」
紋様に触れた。応答がない。彼の魔力では、紋様は反応しない。当然だ。百年間、初代結界師の血統の女だけが動かしてきた紋様に、彼の魔力が通るはずがない。
知っていた。知っていて、三十年間、知らないふりをしてきた。
「あの程度の妃に、何ができたというのだ」
口から出た言葉は、誰に向けたものだったのか。アデライドに。自分に。
紋様の光が、また一段、弱くなった。




