第15話 帽子は一つ。それだけで、自分がどれだけ変わったかわかった
ルヴァイン王立魔術学院の中庭を歩いている。穏やかな春の陽射しが降り注いでいる。半年前の私なら帽子三つに日傘がなければ外を歩けなかったが、今は帽子一つで足りる。つばの広い麦わら帽子。ヘルダがくれたものだ。
目はまだ少し弱い。快晴の日は眩しいと感じる。でもそれは、サングラスがあれば済む程度のことだ。地下生活の爪痕は、少しずつ薄くなっている。
指の感覚は、左手の二本が、まだ戻っていない。もしかしたら、一生戻らないかもしれない。でも残りの八本は動く。ペンは握れる。数式は書ける。お茶の杯は持てる。十分だ。
中庭を抜けて、研究棟に入った。二階の突き当たり。扉に真新しいプレートが掲げてある。
『結界工学研究室 主任研究員:アデライド・ヴェルナー』
その隣の扉。
『魔術理論研究室 主任研究員:エミル・ファーレンハイト』
半年前、ルヴァイン王立魔術学院から正式な研究員のポストを提示された。多点分散型結界の論文が国際的に高い評価を受けたことで、学院としても私を迎え入れる理由ができたのだ。
自分の研究室。自分の机。自分の本棚。窓から陽の光が入る部屋。地下室とは何もかもが違う。壁は白い漆喰で、棚には自分で選んだ本が並んでいて、机の上にはエミルが置いていった薬草茶の缶がある。
贅沢だった。これ以上の贅沢を、私は知らない。
マリーから手紙が届いていた。ハルステッドの王宮を辞め、実家に戻ったという。『アデライド様が自由になったと聞いて、私も自分の人生を歩く決意をしました』。手紙の最後に、押し花が一枚入っていた。私の誕生日に持ってきてくれた花と、同じ種類の花だった。
◇
朝のお茶の時間。
エミルが隣の研究室からお茶を持ってきた。今日は少し酸味のある配合だった。私がお腹が空いている時に出す味だ。もうパターンを覚えてしまった。
「今日の配合は、朝食を抜いた日用ですね」
「……ばれましたか」
「半年も飲んでいれば、わかります」
エミルが困った顔で笑った。相変わらず、好意を隠すのが下手な人だった。
「朝食、一緒に食べませんか。学食のパンが焼きたてだそうです」
「行きましょう」
学食に向かう途中で、レオンに会った。外交局の仕事でルヴァインに来ているらしい。
「おう、二人とも。相変わらず仲がいいな」
「研究仲間ですから」
「研究仲間ね。はいはい」
レオンが呆れた顔をした。半年間、ずっとこの顔をしている。
学食のパンは確かに美味しかった。焼きたてのパンの匂いと、バターの匂い。こんな些細なことが、ひどく贅沢な幸福だと感じられる自分に、半年経っても慣れない。
エミルが向かいの席で、パンを千切りながら何かを考え込んでいた。口を開きかけて、閉じて、パンを食べて、また口を開きかけて、閉じる。
「何か言いたいことがあるなら、どうぞ」
「あ。いえ。その、」
眼鏡をかけ直した。一回。二回。
「今日の午後、少し時間はありますか」
「ありますよ。何か」
「その、研究の話、ではなく。いえ、研究に関連する話では、あるのですが、」
「エミル」
「はい」
「深呼吸してから言ってください」
エミルが深呼吸した。大げさなほど深く吸って、ゆっくり吐いた。
「中庭で、話したいことがあります」
「わかりました」
レオンがパンを噛みながら、「ようやくか」とまた呟いた。二度目だった。
◇
午後。中庭のベンチに並んで座った。
春の風が吹いている。花壇の花が揺れている。学院の塔の上で、魔法灯が淡く光っている。穏やかな午後だった。
エミルが隣に座っている。手元に紙を持っていない。いつもは論文か数式の紙を握っているのに、今日は手ぶらだった。手持ち無沙汰で、膝の上で指を組んだり解いたりしている。
「エミル。何を話したいのですか」
「はい。えっと、結界の、共同研究者として。あなたと僕の関係は、非常に生産的であり、学術的な成果も、」
「エミル」
「はい」
「それ、プロポーズですか?」
沈黙。
エミルの顔が、耳の先まで赤くなった。
「……順番が。まだ途中で、結界の共同研究契約の延長と、それに付随する永続的な、」
「永続的な?」
「パートナーシップ、いえ、その、正確に言うと、」
遠くのベンチで、レオンが頭を抱えていた。聞こえているらしい。
「エミル」
「はい」
「ストレートに言ってください」
深呼吸。一回。二回。三回。
「結婚してください」
言った。目を固く閉じていた。学術用語も数式も使わない、たったひとこと。
風が吹いた。花壇の花びらが舞った。
私は、笑った。
「はい」
エミルが目を開けた。
「……はい?」
「はい、です。結婚しましょう」
「本当に、いいのですか。僕は不器用で、感情を数式でしか表現できなくて、お茶を淹れることくらいしか、」
「そのお茶に、何度救われたかわかりません。十分です」
「本当に、」
「ええ、本当に。学術的に言えば、永続的なパートナーシップ契約を承諾します」
エミルが笑った。泣いてはいなかった。でも、眼鏡の奥の目が光っていた。
遠くでレオンが立ち上がって拍手していた。通りがかりの学生たちが何事かとこちらを見ている。
恥ずかしかった。でも、嫌ではなかった。
◇
夕方。研究室に戻った。
窓から夕日が差している。帽子を机の上に置いた。帽子は一つ。半年前は三つだった。
机の上には、完成したばかりの新しい論文がある。『多点分散型結界の運用報告、犠牲なき結界維持の実証六ヶ月間の記録』。著者名は二人。これからも、ずっと二人だ。
エミルが隣の研究室からお茶を持ってきた。
「今日は特別な配合です」
「何が特別なのですか」
「秘密です」
飲んだ。いつもより甘かった。蜂蜜が入っている。
「……お祝いの味ですか」
「ばれましたか」
「ばれます」
二人で笑った。
窓の外では、夕日が沈んでいく。空がオレンジから紫に変わっていく。紋様の赤ではない。自然の色。美しい色。
帽子。お茶。夕日。研究室。隣の人の声。
全部、私のものだった。
地下室にはなかったもの。血の紋様の赤い光しかなかった世界から出て、太陽の下で手に入れたもの。
陽の光は、もうそんなに眩しくなかった。
隣に、もっと眩しいものがあるから。
明日も帽子は一つでいい。日傘も要らない。それだけで、十分だった。




