第14話 あの部屋に戻るのは、五ヶ月ぶりだった
王宮の地下。石の階段。三十二段。暗闇の中を降りていく足は覚えている。千八百二十六回降りた階段だ。忘れるはずがない。
ただし、今日は一人ではなかった。
隣にエミルがいる。後ろにルヴァインの魔術師が五名。レオンが扉の前で待機している。そして、ハルステッドの新しい宮廷魔術師長が、案内として立ち会っていた。グレゴールの後任に任命された若い女性で、名前はリディアといった。彼女は私に頭を下げた。
「アデライド様。このような場所に、五年間も。知りませんでした。本当に、申し訳ありません」
「あなたのせいではありません。気にしないで」
扉を開けた。
血の匂い。
五ヶ月経っても、染みついた匂いは消えていなかった。石の壁に、石の床に、百年分の血が染み込んでいる。
紋様が、かすかに明滅していた。血の供給が途絶えてから五ヶ月。結界は風前の灯だった。赤い光は弱々しく、脈打つ間隔も不規則になっている。
エミルが息を呑んだ。
「……これが」
「ええ。これが、私の五年間です」
声は平坦だった。泣くかと思っていたが、泣かなかった。もう、この部屋に泣かされる必要はない。今日ここに来たのは、囚人として戻るためではない。この部屋を、終わらせるためだ。
エミルが紋様を見つめていた。学者の目だった。壁一面に刻まれた赤い線を、食い入るように見ている。私がこの光だけを頼りに過ごしたことを、彼は知っている。でも、知っていることと見ることは違う。拳を握りしめている手は、学者のものではなかった。怒りを堪えている手だった。
「始めましょう」
私が言った。
◇
新式結界への切り替え。
手順は論文に記した通りだ。まず旧式の紋様を六つの区画に分割する。各区画に魔術師を一名配置する。そして分割された紋様を新しい回路で繋ぎ直す。
中心に立つのは、私とエミル。
旧式紋様を知る私が回路の分割を行い、新式理論を構築したエミルが回路の再接続を行う。理論と実践。二人でなければできない作業だった。
「第一区画、分割開始」
紋様に手を触れた。
五ヶ月ぶりの紋様は、冷たかった。以前は血を通すたびに温かくなったが、今は氷のように冷たい。弱っている。百年間動き続けた機械が、ようやく止まりかけている。
魔力を流した。血ではなく、純粋な魔力を。紋様が反応した。弱々しく、でも確かに。私の魔力を覚えている。あの日々の記憶が、紋様に刻まれている。
「反応しました。分割点を設定します」
紋様の回路を読み取りながら、六つの区画に切り分けていく。初代結界師の設計を熟知している私だからこそ、どこで切れば結界が崩壊しないかがわかる。
「第一区画、分割完了。エミル、接続を」
「接続開始」
エミルが第一区画に新しい回路を書き込んだ。魔術式を空中に描き、紋様の上に重ねる。旧式と新式の回路が、噛み合った。
紋様の色が変わった。
赤から、淡い金色に。
「成功です。第一区画、新式回路に切り替わりました」
魔術師たちから声が上がった。感嘆の声だった。理論が実証された瞬間を、目の前で見ている。
第二区画。第三区画。第四区画。
一つずつ切り替えていく。旧い赤い光が、金色の光に変わっていく。血の匂いが、少しずつ薄れていく。代わりに、温かい光の匂いが、光に匂いがあるとすれば、そんなものが部屋に満ちていった。
各区画に配置されたルヴァインの魔術師たちが、それぞれの持ち場で新式回路を安定させている。彼らの表情は真剣だった。一人の犠牲に頼らない結界、その理念に賛同して、ここに来てくれた人たちだ。
リディアが通信魔術で各地の状況を報告してくれた。
「南部辺境、結界の再構築を確認。マーレン村周辺の魔獣活動が沈静化しています。北部、東部も順次安定」
子供たちが、助かる。
私が血を流さなくても。この手を犠牲にしなくても。結界は動く。六人の魔術師が分担すれば、誰一人、体を壊さずに済む。
第五区画を切り替えた時、体に痛みが走った。
結界の代償の残滓だ。蓄積した魔力の損傷が、紋様に触れることで反応した。指先が痺れ、視界が一瞬白くなった。
エミルが気づいた。
「アデライド、無理は、」
「大丈夫。あと一つ」
第六区画。最後の区画。ここが最も重要だった。初代結界師が最初に描いた中核回路。百年間、一度も手が入れられなかった部分。
紋様に両手を置いた。
赤い光が、脈打った。最後の赤。百年間の最後の光。
目を閉じた。紋様が何かを伝えようとしている。百年前の結界師の意志。この結界を作った女性も、一人で、血を流して、この国を守っていたのだ。
ありがとう。もう、休んでいい。
百年前の結界師に、心の中で語りかけた。あなたが一人で背負ったものを、これからは皆で支える。だからもう、眠っていい。
「分割完了。エミル、最後の接続を」
エミルが、私の隣に立った。
紋様に手を触れた。彼の手が、私の手の隣に並ぶ。指が触れた。今度は、どちらも引っ込めなかった。
新しい回路が起動した。
金色の光が、部屋全体に広がった。温かい光だった。血の匂いを塗り潰すような、温かい光。壁を、天井を、床を。百年間赤かった部屋が、金色に染まった。
血の匂いが、消えた。
代わりに、光の温かさが肌に触れた。
「……もう、血は要りません」
私は笑った。今度は、嬉しくて。
エミルが隣にいた。手が重なったまま。彼の指が、私の傷だらけの指を、そっと握っていた。
「アデライドさ、いえ、アデライド」
「はい」
「あなたの理論は、」
言いかけて、止まった。数式を探す目をしていた。いつもの癖だ。感情を学術用語に翻訳しようとする癖。
でも今日は、翻訳をやめた。
「あなたの理論は、いえ。あなたが、美しい」
金色の光の中で、その言葉が落ちた。
魔術師たちが遠慮がちに拍手をしていた。レオンが扉の向こうで「ようやくか」と呟いたのが聞こえた。
私は、何も言えなかった。言葉が見つからなかった。
だから、握られた手を、握り返した。
感覚のない指がある。傷だらけの指がある。でもその手が、別の誰かの手と重なっている。
この部屋で、ずっと一人きりだった。紋様の赤い光だけが相手だった。今、金色の光の中で、隣に人がいる。
それだけで十分だった。金色の光が、静かに二人を包んでいた。




