第12話 机の引き出しは、開いていた
論文の最終確認をしていた時のことだ。エミルが「参考文献の一覧を確認してきます」と言って、奥の書庫に入った。私は一人で机に向かい、数式の整合性を確かめていた。
インクが切れた。
替えのインク瓶を探して、エミルの机の引き出しを開けた。許可は得ていなかったが、研究中に必要な消耗品は共有していたから、悪気はなかった。
インク瓶はすぐに見つかった。その下に、一冊のノートがあった。
革表紙の古いノート。使い込まれて角が丸くなっている。表紙に几帳面な文字で書かれたタイトル。
『血の結界の代替理論、犠牲者を出さない方法の探求』
日付が、目に入った。
一年と四ヶ月前。
私とエミルが出会う、一年以上前だ。
手が止まった。ページをめくるべきではない。他人の研究ノートだ。でも、指が勝手に動いた。
最初のページ。
『ハルステッド王国の大結界について。百年前の初代結界師が構築したこの結界は、維持に人間の血を必要とする。文献によれば、王家に嫁いだ魔力の高い女性が、秘密裏にこの役割を担ってきた。現在の結界維持者が誰であるかは不明だが、結界の波動パターンから推定すると、極めて高い魔力を持つ若い女性であると考えられる。この人物は、毎夜血を捧げている可能性が高い』
息が、喉の奥で固まった。
ページをめくった。
研究計画が書かれていた。「血の結界に代わる多点分散型結界の理論構築」。目的欄にはこうあった。
『現在の結界維持者が犠牲を続けなくて済む方法を見つけること』
日付は一年四ヶ月前。エミルはその時から、私のことを知らないまま、私を救おうとしていた。顔も名前も知らない「犠牲者」を。
さらにページをめくった。途中から、筆跡が乱れている。走り書きのようになっている箇所もある。夜中に興奮して書いた痕跡だろう。理論の検算、数式の修正、そして、観察記録。
『リンデンにて、結界波動の調査を開始。現地で結界術に詳しい女性と出会う。手に包帯。推定、結界維持者本人の可能性が高い。確認を急ぎたいが、彼女を追い詰めてはならない。彼女は疲れている。五年分の疲れが、全身に染みついている。それが僕にはわかる』
出会った日の記録だった。あの日、エミルが私の手を見て目を伏せた、あの瞬間。彼はもう知っていた。知っていて、何も聞かなかった。
次のページには、日付ごとに簡潔な記録が続いていた。
『アデライドの体調。今日は顔色が悪い。お茶の配合を変更、月華草を増量』
『今日は少し元気そうだ。市場に行った。帽子を三つ重ねていた。太陽に弱いのは、長期間の暗所生活による光過敏症だろう』
『古書店で指が触れた。逃げた。自分が情けない』
最後の一行で、思わず息が漏れた。逃げた自覚はあったのか。
次のページ。
『彼女の名はアデライド。元王弟妃。結界維持者であることをほぼ確信。手の傷は結界の代償。体の状態が悪い、末端の感覚消失が進行している模様。薬草茶の配合を変更。月華草の配分を増やし、白樺皮の抽出液を追加。結界の代償による魔力枯渇を緩和する効果がある』
薬草茶。
毎日、エミルが淹れてくれていた薬草茶。味が毎回違ったのは、私の体調に合わせて、配合を変えていたからだ。
視界がにじんだ。
ページの最後に、こう書いてあった。
『多点分散型結界の理論が完成すれば、彼女はもう血を流さなくて済む。それまでの間、せめてお茶で、少しでも体の負担を軽くしたい。それしか今の僕にはできない』
ノートを閉じた。
涙が、紙の上に落ちた。さっき確認していた数式の上に。インクがにじんだ。
この人は、最初から。
最初から、私を助けるために来ていた。
「学術調査」は嘘ではなかった。でも動機は学術だけではなかった。顔も知らない誰かが苦しんでいることを知って、その苦しみを終わらせるために、一年以上かけて理論を組み上げて、この町に来た。
お茶を淹れてくれた。毎日。味を変えて。私の体を、少しでも楽にするために。
聞かなかった。手の傷のことを、初日から知っていたのに。聞かないでいてくれた。私が話す準備ができるまで。
「……見ましたか」
振り向くと、エミルが書庫の入口に立っていた。顔が赤い。耳まで赤い。眼鏡の奥の目が、泳いでいる。
「見ました」
「あの、それは、その。純粋に学術的な動機から始まった研究であって、決して、」
「嘘おっしゃい」
ヘルダの口癖が、つい出た。
エミルが口をつぐんだ。
「学術的な動機だけで、毎日お茶の配合を変えたりしませんよ」
「……それは。ええ。はい。おっしゃる通りです」
沈黙。
エミルがレンズの縁を指でなぞった。四回目で、なぞる振りをしながら目元を拭ったのが見えた。
「ありがとう」
言った。声が掠れていた。
「ありがとう、エミル。一年以上前から、私のために」
「あなたのため、というか、正確には、結界の犠牲者のために、」
「同じことです」
「……同じですね。はい」
視界の輪郭がにじんだ。もう泣いていたのかもしれない。区別がつかなかった。
◇
少し落ち着いてから、二人で机に向かった。
論文の最後のページ。発表に向けた確認事項。
「エミル。この論文を国際魔術会議で発表すれば、ハルステッド王国が何をしていたか、世界中が知ることになります」
「はい」
「私が五年間、地下室で血を流していたことが。王家が、宮廷魔術師長が、それを隠蔽していたことが。全部、公になります」
「はい」
「……それでも、発表しますか」
エミルが私を見た。今度は目が泳いでいなかった。
「あなたが望むなら。あなたが『もう隠さなくていい』と思うなら。発表しましょう」
窓の外を見た。夕日が沈みかけている。空が赤い。紋様の赤とは違う、温かい赤。
「発表します」
「わかりました」
「ただし、一つだけ。タイトルに『犠牲者を出さない方法』という言葉を入れてください。エミルの研究ノートの、最初のページと同じ言葉を」
エミルが、笑った。泣きながら。笑いながら。
「はい」
論文のタイトル欄に、二人で文字を書き入れた。
『血の結界の代替理論、犠牲者を出さない多点分散型結界の設計と実証』
著者名。アデライド・ヴェルナー。エミル・ファーレンハイト。
インクが乾くのを、並んで見守った。窓の外で、最後の夕日が沈んだ。




