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その結界が解けたとき、この国は滅ぶ〜でも私はもう、守る理由がない〜  作者: 秋月 もみじ


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第11話 インクの匂いがした。戦いの匂いだった


 研究棟の机には紙が山のように積まれている。数式、図面、計算の下書き。エミルと私が二日間で書き散らしたものだ。床にも紙が散乱していて、レオンが入ってくるたびに「足の踏み場がない」と文句を言った。


 多点分散型結界。


 一人の犠牲で維持する旧式結界を、複数の魔術師が分担する新式に置き換える。理論的には可能だとエミルは言った。問題は、誰もやったことがないということだった。


「共鳴回路を六つに分割します。各分割点に中級以上の魔術師を一名配置すれば、血の供給なしで結界を維持できる」


 エミルが壁に貼った図面を指で辿った。ハルステッド王国の地図の上に、六つの点が描かれている。王都、北部、南部、東部、西部、そして国境。


「問題は二つ。一つ目は、分割した共鳴回路を同期させる方法。二つ目は、旧式の紋様を新式に書き換える手順。どちらも前例がない」


 前例がない。つまり、世界で初めてのことをやろうとしている。


 怖いか、と自分に問うた。怖くなかった。五年間、暗闇の中で一人きりで結界を維持し続けたことに比べれば、隣に誰かがいる挑戦は、怖くない。


「一つ目は解決できます」


 私は自分の書いた数式を広げた。実践から導き出した、共鳴回路の同期パターン。紋様が脈打つリズムを、私は体で覚えている。そのリズムを数式に変換すれば、六つの分割点を同期させる鍵になる。


「この同期パターンを使えば、」


「待って。これ、リアグラント卿の第二定理の拡張じゃないですか。こんな応用は文献にない。あなたが独自に、」


「五年間やっていれば、嫌でも見つかります」


 エミルの目が光った。学者の目だった。新しい理論を前にした時の、純粋な興奮。


「素晴らしい。これなら第一の問題は解決できる。第二の問題、紋様の書き換えは、旧式紋様を直接知っている人間が必要です」


「私が立ち会います」


「……体は大丈夫ですか」


「大丈夫ではありません。でも、必要なことです」


 エミルは何か言いたそうだったが、口を閉じた。代わりに、私のお茶の杯にそっとお湯を足した。今日のお茶は、いつもより甘い。体に負担の少ない配合に変えてくれているのだろう。



 レオンが外交ルートで動いた。


 ルヴァイン王国の外交局を通じて、魔術学院に正式な協力要請を出す。名目は「国際魔術研究の実地検証」。実態は、ハルステッド王国の結界を再構築するための共同作業だ。


「ルヴァイン国王は乗り気だ」


 レオンが報告に来た時、珍しく笑っていた。


「結界の新技術を開発すれば、ルヴァインの魔術学院の国際的な評価が上がる。隣国の危機を救ったという外交的な得点も入る。国王にとってはおいしい話だ」


「……政治的な計算で動くのね」


「政治ってのはそういうものだ。動機はどうあれ、結果として協力が得られるなら上出来だろう。それにな、」


 レオンが少しだけ声を落とした。


「ルヴァイン国王には、個人的な動機もある。先代の王妃が、結界術に縁のある方でな。犠牲の上に成り立つ制度を嫌っておられた。国王は亡き妻の意志を継ぎたいのだと、側近が漏らしていた」


 先代の王妃。この国にも、結界の犠牲を知る人がいたのか。


「世界は、思っていたより広いのですね」


「ああ。あんたが思ってるより、味方は多い」


 レオンの言葉は冷静だったが、目は温かかった。この人はエミルとは違う形で、この計画を支えてくれている。理論ではなく、現実の政治と外交で。


 魔術学院からは、結界術の専門チームが派遣されることになった。五名の魔術師。彼らの到着まで一週間。その間に、私とエミルで理論を完成させなければならない。


 一週間。短い。でも、一人で耐え続けた私と、一晩で理論の骨格を組み上げたエミルなら、できると思った。根拠はない。根拠はないが、この人と並んで数式を書いている時間が、地下室の千八百二十六日よりもずっと多くのものを生み出せると、体が知っていた。



 三日目の朝。


 徹夜明けの研究棟で、エミルと二人で朝日を見た。


 窓際に並んで座って、冷めかけたお茶を飲んでいた。机の上には完成した論文の草稿がある。六十ページ。二人の名前が連名で記されている。三日間の睡眠は合計で五時間もなかったが、不思議と体は軽かった。


 空が白み始めて、やがてオレンジ色に変わった。雲の端が金色に光っている。


「……眩しいけど、きれいですね」


 口から出た言葉に、自分で驚いた。太陽を「きれい」と思ったのは初めてだった。地下室で失ったものの一つが、こうして少しずつ戻っている。


 エミルが隣で、静かに息を吐いた。


「アデライド」


「はい」


「この論文が完成したら、あなたの名前で発表しましょう。筆頭著者はあなたです」


「二人の研究でしょう。連名で十分です」


「いいえ。この理論の核心は、あなたの実践から生まれたものです。僕の数式は、あなたの経験を翻訳しただけだ」


 翻訳。私の体が覚えていたものを、世界が読める言葉に変えてくれた。


「エミル。あなたがいなければ、私の経験はただの傷跡でした」


 言ってから、恥ずかしくなった。でも本当のことだった。


 エミルがレンズを指で押し上げた。目が泳いでいた。


「……ありがとうございます。では、連名で。ただし、あなたの名前が先です」


「はい」


 朝日が研究棟の中を照らしていた。紙の山が白く光っている。インクの匂いと、薬草茶の匂い。


 これが、私の戦い方だ。血ではなく、理論で。一人ではなく、二人で。



 その日の夕方、レオンが追加の情報を持ってきた。


「ハルステッドの宮廷が、ルヴァインに正式な救援要請を出した。グレゴール卿の名前ではなく、国王陛下の名前で。つまり、グレゴール卿では対処できないと、ついに王家が認めたということだ」


「それは……」


「追い風だ。ルヴァインが協力する大義名分が完璧になった」


 レオンが書類を机に置いた。そしてエミルの肩を叩いた。


「お前。告白はまだか」


「は?」


「いや、なんでもない。研究頑張れ」


 レオンが出ていった。エミルが混乱した顔で私を見た。私は窓の外を見ていたふりをした。


 耳が、少し熱かった。


 窓の外で、夕焼けが研究棟の壁を染めていた。明日も、ここで数式を書く。明後日も。そしてその先に、百年の制度を変える日が来る。

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