第10話 また、あの部屋に
朝、目が覚めた時、思考がそこで止まっていた。眠れたのか眠れなかったのか、よくわからない。体は重い。窓からは朝日が差している。いつもなら眩しいと感じるその光が、今日は何も感じない。
荷物は昨夜まとめた。着替えと、結界術の覚書と、包帯の予備。薬草茶の缶は、入れた。入れてしまった。
階段を降りた。
食堂にエミルがいた。いつもの席に座って、いつもの銀縁眼鏡をかけて、いつもと違う顔をしていた。一晩中起きていた顔だった。目の下に隈があり、机の上には書きかけの数式が散乱していた。
「おはようございます」
「……おはよう」
敬語が戻っていた。無意識だった。距離を取ろうとしている自分がいた。昨日「エミル」と呼んだ口が、もう壁を作り始めている。
ヘルダが無言で朝食を出してくれた。パンとスープ。いつもと同じだが、今朝は味がわからない。三週間前に戻ったようだった。
「アデライド」
エミルが私の名前を呼んだ。敬称なしの、ただの名前。
「行かないでほしい」
短い言葉だった。
学術的な理由を並べるかと思った。合理的な反論を展開するかと思った。この人はそういう人だから。数式で世界を説明しようとする人だから。
でも言ったのは、それだけだった。行かないでほしい。理由も根拠もない。ただの懇願。
「、エミル。子供たちが死ぬかもしれないの」
「わかっている」
「わかっているなら、」
「わかっているから言っている。あなたが戻れば結界は回復する。子供たちは助かる。でもあなたの体はまた壊れる。指の感覚が全部なくなって、足の感覚もなくなって、いつか、」
「それでも!」
声が、叫びに変わった。
「じゃあ、子供たちが死んでもいいの!?」
食堂の空気が、凍った。ヘルダが皿を洗う手を止めた。窓の外を歩いていた野良猫が、驚いて塀の向こうへ走り去った。
自分の声に、自分が一番驚いていた。
声を荒げたことは一度もなかった。地下室で泣いた夜も。あの人の笑い声が聞こえた夜も。指の感覚がなくなった夜も。静かに耐えた。微笑んだ。それが私の生存戦略だった。
壊れた。
口が勝手に動いている。止められない。止める気もない。
「なんで。なんで私なの。なんで私だけが血を流さなきゃいけないの」
声が裏返った。構わない。
「私だって朝日の下でスープを飲みたかった。市場で人参を選びたかった。帽子を飛ばされて笑いたかった。研究がしたかった。あなたと」
途切れた。最後の言葉が喉に引っかかった。あなたと、何だ。何がしたかった。全部だ。全部。全部したかった。なのに。
視界の輪郭がにじんだ。
泣くなと思った。泣くな。泣くなよ、私。ここで泣いたら、この人が困る。困らせたくない。でも目が、勝手に。
テーブルの上に、涙が落ちた。一つ、二つ。数式の紙の上に。インクがにじんだ。
ヘルダが奥の厨房から顔を出して、すぐに引っ込んだ。気を遣ってくれたのだ。窓の外では、町の朝が始まっている。荷馬車の音。犬の鳴き声。普通の朝だ。この町の誰もが、普通の朝を生きている。私だけが違う。
エミルは何も言わなかった。
立ち上がりもしなかった。慰めの言葉も、抱きしめることも、しなかった。ただ、座ったまま、自分の手を見ていた。何かを堪えるように、拳を握って、開いて、また握って。
代わりに、机の上の紙束から一枚を引き抜いて、私の前に置いた。
数式だった。
昨夜、一晩中書いていた数式。紙の端がインクで汚れていて、何度も書き直した跡がある。
「……これは?」
「多点分散型結界理論。一人の犠牲に頼らない、新しい結界の設計です」
目元を袖で押さえて、数式を見た。まだぼやけている。でも、構造はわかった。
結界を一人で維持するのではなく、複数の魔術師が分担する。紋様を分割し、各地に小さな結界点を設置して、それをネットワークで繋ぐ。血ではなく、通常の魔力供給で動く設計。
「……一晩で、これを?」
「まだ不完全です。実践的な検証が何もできていない。でも、理論上は可能です。あなたの実測データがあれば、実証できる」
エミルの目が、真っ直ぐに私を見ていた。
「戻らなくていい方法を、今から見つける」
一晩中。この人は一晩中、私が戻らなくて済む方法を探していた。泣き言を言う代わりに。引き止める代わりに。数式を書いていた。
「……でも、辺境の子供たちは、」
「時間は必要です。すぐには間に合わない。だからルヴァインの魔術学院に協力を要請します。学院の魔術師を辺境に派遣して、応急的な結界を張ることは可能だ。完璧ではないが、最低限の防護にはなる。レオンに外交ルートを使ってもらう」
考えてあった。全部。子供たちのことも、私のことも、辺境の応急措置のことも。一晩で、一人で。眠らずに。数式を書きながら、同時に現実的な解決策も組み立てていた。
「アデライド。あなたがもう一度あの部屋に戻る必要は、ない」
唇の端が、勝手に下がった。
でも今度は、さっきとは違った。怒りではなかった。
ヘルダが黙ってお茶を持ってきた。湯気が立ち上っている。エミルの薬草茶とは違う、濃くて苦い、おかみのお茶。
「泣きたいだけ泣きな。泣いたら食べな。食べたら考えな」
泣いた。長く泣いた。目が腫れた。食べた。ヘルダのパンを半分ちぎって、スープに浸して、食べた。そして、考えた。
紙の上の数式を、もう一度見た。今度は目がぼやけていなかった。
不完全だ。穴がある。でも、穴を埋められるのは、私だ。実践を知っている、私だけだ。
「……エミル」
「はい」
「この第七項、係数が足りません。共鳴回路の減衰率を考慮していない」
エミルが、目を丸くした。それから、笑った。初めて見る種類の笑みだった。安堵と、喜びと、もう一つ、名前のつかない感情が混じった笑み。
「修正を、お願いできますか」
「ええ」
ペンを取った。
まだ手は震えていた。でも、数式は書ける。震えていても。
エミルが向かいの席に座り直した。新しい紙を広げた。二人で、一つの数式に向き合った。
窓から朝日が差していた。眩しかった。でも今日は、目を逸らさなかった。
逃げるのではない。変えるのだ。百年続いた制度を。一人の女だけが血を流す仕組みを。この数式で。この手で。二人で。




