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その結界が解けたとき、この国は滅ぶ〜でも私はもう、守る理由がない〜  作者: 秋月 もみじ


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第1話 千八百二十六日目の夜


 指先を小刀で裂く。もう痛みはない。千八百二十六回も繰り返せば、皮膚の方が覚えている。ここを切れば効率がいい、と。傷の上に傷を重ねた左手の人差し指は、もう元の皮膚がどんな感触だったか思い出せない。


 血が紋様に触れた瞬間、壁一面の赤い線が淡く脈打った。


 地下室に光が満ちる。血の匂い。冷たい石の匂い。湿った空気。それだけが、この年月の私の世界だった。天井も壁も床も石造りで、窓はない。明かりは紋様の赤い光だけ。蝋燭すら持ち込めない。結界に干渉する恐れがあるから、とグレゴール様は言った。


 結界が安定したことを魔力の波動で確認して、私は包帯を巻いた。左手の指はもう五本とも傷だらけで、最近は右手も使い始めている。包帯を巻く手つきだけは、ずいぶんと上手くなった。他に上達したものがあるかと問われれば、暗闇の中で階段を上る速度くらいだろう。


(あと何年、持つのだろう)


 考えても仕方のないことだった。代わりはいない。初代結界師の血を引く女で、これだけの魔力を持つ者は、今この国に私しかいない。宮廷魔術師長のグレゴール様がそうおっしゃったのだから、間違いないのだろう。


 間違いない、と信じるしかなかった。ここで血を流す以外の選択肢を、誰も提示しなかったのだから。


 地上から、音が降ってくる。


 弦楽器の旋律。笑い声。グラスが触れ合う高い音。今夜は晩餐会だ。季節の変わり目ごとに開かれる王宮の大晩餐会。春の晩餐会ということは、もう春になったのか。この部屋には季節がない。気温も変わらない。石の冷たさだけが一年中変わらずにある。


 私は一度も晩餐会に出たことがない。


「体が弱いので」というのが公式の理由だった。嘘ではない。毎晩血を流していれば、体は弱くなる。ただ、それは原因と結果が逆なだけで。体が弱いから出られないのではなく、毎晩ここにいなければならないから出られないのだ。


 その区別を理解している人間が、この王宮に何人いるだろう。グレゴール様は知っている。国王陛下は……形式的にはご存知のはずだが、ご病気でもう長いこと政務に関わっておられない。


 ヴィクトル殿下は。


 私の夫は。


 知っている、と思う。知っていて、知らないふりをしている。毎晩私が消えることに疑問を持たないはずがない。聡明な方だ。政治的な嗅覚は宮廷一だと評判の方が、妻の異変に気づかないわけがない。


 ただ、気づいてしまったら、何かをしなければならなくなる。


 それが嫌なのだろう。


(素晴らしい政治的判断ですこと)


 皮肉のつもりはなかった。本当に。


 笑い声がまた聞こえた。低い男の声と、それに重なる高い女の声。ヴィクトル殿下と、ロゼッタ嬢だろう。壁越しでも聞き分けられるようになった。夫と、夫の愛人の声を。


 私は椅子に座って、それを聞いていた。怒りはない。悲しみも、もうない。千八百二十六日も経てば、そういった感情は蒸発する。最初の一年は泣いた。二年目は怒った。三年目は諦めた。四年目は何も感じなくなった。


 五年目の今は、疲労だけが残っている。


 骨の芯に染み込んだ、抜けない種類の疲労。


 指先が冷たい。


 最近は足の感覚も怪しくなってきた。結界に魔力を吸われすぎると、末端から感覚が死んでいく。先月、左足の小指の感覚がなくなった。靴の中で小指がどこにあるのか、わからない日がある。


 グレゴール様はそれを知っているのだろうか。知っていて黙っているのだろうか。


(……どちらでも、同じことだけれど)


 天井の向こうで、また笑い声がした。


 誰かが乾杯の音頭を取っている。「ハルステッド王国の繁栄に」。声が大きいから、ここまで聞こえる。


 繁栄。


 この国を守る結界を、誰が維持しているかご存知ですか。あの華やかな広間の、真下で。あなた方の足元で。


 口には出さなかった。出したところで、この地下室には私しかいない。紋様の赤い光と、自分の影だけが聞き手だった。


 ふと、右手の薬指に意識を向けた。


 感覚がない。


 昨日まではあったはずだ。昨日、包帯を巻く時に、薬指に布が触れる感触を確かめた記憶がある。今日はそれがない。今朝なくなったのか、それとも今この瞬間に消えたのか。


 もう、十本のうち三本の指の感覚を失った。


 天井の音楽が、ワルツに変わった。


 ああ。


 二十四歳になっていた。気づいたのは三日前で、誰にも祝われなかった。マリーが花を持ってきてくれたのは翌日のことだったから、あの子も正確な日付は覚えていなかったのだろう。責める気はない。忘れられるような存在だから、この役目が務まるのだ。王弟妃でありながら、宮廷の誰の記憶にも残らない女。


 十九歳から二十四歳。女としてもっとも華やかであるはずの五年間を、私は地下室で過ごした。ワルツを踊ったことは一度もない。ドレスを新調したのは、婚礼の時が最後だった。


 指先の感覚がまた一つ、消えた。


 右手の薬指。ついさっき確認したばかりなのに、爪の先まで何も感じない。


 ああ。


 もう、いいかな。


 そう思った瞬間、体が軽くなった。


 五年分の義務感が、肩から滑り落ちたような感覚だった。不思議なほど穏やかだった。怒りでも悲しみでもなく、ただ、終わったのだ。何かが。とっくに終わっていたものに、ようやく気づいただけなのかもしれない。


 紋様に背を向けた。


 赤い光が、背中を照らしている。


 階段は三十二段。毎晩数えていたから、暗闇でも上れる。


 一段。五段。十段。


 振り返らなかった。振り返れば、紋様の光が見える。ずっと私を縛り続けた赤い光が。それを見たら、足が止まるかもしれない。


 二十段を過ぎたあたりで、背中の赤い光がゆらりと揺れた。


 血の供給が途絶えたことに、結界が気づき始めたのだ。紋様が私を呼んでいる。戻ってこいと言っている。百年間そうしてきたように、血を流せと。


 三十二段。


 扉を押した。


 廊下に出ると、晩餐会の音楽がはっきり聞こえた。ワルツ。笑い声。グラスの音。香水の残り香。


 全部、遠い世界の音だった。ずっとそうだったし、きっとこれからもそうだろう。でも一つだけ、変わったことがある。


 私はもう、この音を地下で聞かなくていい。


 廊下を歩いた。感覚のない指先が、少しだけ温かくなった気がした。気のせいかもしれない。でもそう感じた。


 口元が勝手に動いた。


 笑っていた。



 その頃、宮廷の広間では、春の大晩餐会が佳境を迎えていた。


 窓際に立っていた文官が、ふいに首をすくめた。


「……今、寒気がしなかったか?」


 隣の貴族が杯を傾けながら笑った。


「飲みすぎだろう」


 窓の外では、春だというのに、吐く息がわずかに白くなっていた。


 誰もそれに気づかなかった。

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