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⑧ 記録終了

 午前五時四十五分。


 私の意識は、もはやアラームを必要とせずに強制起動した。暗闇の中、網膜に焼き付いた出来事が点滅している。昨日、私は泣いた。昨日、私は日記を投げ捨てた。それらは全て「マヤ」と同じ道だった。つまりは、「私」としての失敗である。


 私は這うようにして、床に散らばった日記を拾い上げた。背表紙が少し歪んでいる。それを机に戻し、椅子に座る。背筋を伸ばし、肺に酸素を送り込み、心拍を無理やり安定させる。指先の震えを止めるために、机の角を強く握りしめた。


「……五時四十五分、起床。異常なし」


 掠れた声で呟き、私はペンを走らせる。文字はかつての整然としたそれではなく、まるで断末魔を圧縮したかのように鋭く、紙を削っていた。


 今日一日を、私はどのように「記述」すべきか。私は立ち上がってクローゼットに日記を戻そうとした。そのとき、棚板がわずかに軋んだ。違和感とともに指で押すと、奥から乾いた音がした。


 棚板の裏に封筒が貼りつけられている。

 丁寧に、しかし誰にも見つからないように。


 私はそれを剥がした。中には、折り畳まれた数枚の紙が入っている。日付の入った記録だ。それは研究所の文体ではなかったが、観察報告の形式を真似ていた。


《自室に引きこもる時間が増えてゆく。》

《食事の摂取量が減少した。体重が標準値を下回る。》

《日記の記述がやけに細分化されている。もう私は限界なのだろう。》


 ――マヤ。


 私は自分の日記と、その記録を交互に見た。私が「理性的」だと信じて疑わなかった、分刻みのスケジュール、自己の客観的分析、感情の排除。それは全て、マヤが最後に行き着いた「防衛本能」だったのかもしれない。自分が消えていく恐怖に耐えるために、自分を数値化し、管理し、機械になろうとしていた。


 ……彼女を追い越したつもりでいた。しかし、私が登っていたのは、彼女が飛び降りた崖へと続く階段に過ぎなかったのか。


「……あは、は」


 笑い声が漏れた。喉の奥で金属的な音がした。


 そっと鏡の前に立つ。そこに映っているのはマヤではない。彼女がなりたかった「完璧なマヤ」という名の怪物だ。頬はこけ、瞳は爛々と輝き、生気という名の不確定要素を全て削ぎ落とした、美しくも冷たい標本。


 私は一階へ降りた。リビングにはまだ誰もいない。私は棚に飾られた、あの入学式の写真を見た。控えめな笑み、控えめなピース。あの中にある「マヤ」は、今の私を見て、何と言うだろうか。


「あなたは、私より上手に生きるために生まれたの?」


 いいえ。私はあなたが死ぬまでのプロセスを、より高精度に再構築するために生まれたのだ。あなたが耐えきれなかった重みを、私は論理という麻酔を使って、死ぬまで耐え続けてみせる。それが私の存在証明だと思っていた。


 玄関のドアを開ける。冷たい早朝の空気が肺に突き刺さる。私はそのまま、家を後にした。学校でもなく、研究所でもなく、ただ「どこか遠く」へ。


 マヤが最後に歩いた道を、私は知らない。資料の黒塗りの奥にある「終着点」を、私は知らない。けれど、私の足は勝手に動いた。遺伝子が覚えているのではないだろう。今更、収斂進化だなんて驕るつもりもない。ただ、この強迫観念が、私を同じ方向へと突き動かしている。


 街外れの放置された高架橋。落書きが散乱し、錆びた鉄の匂いが漂う、無機質な場所。私はその縁に座って、膝の上に日記を広げた。


《六時三十分。高架橋に到着。心拍数、やや上昇。呼吸、正常。周囲に目撃者なし》


 私は記録を続ける。書くのをやめれば、私は消える。書くのをやめれば、私は「マヤ」に飲み込まれる。書くのをやめれば、私は「私」であることを証明できなくなる。


 しかし、ふとペンが止まった。高架橋の下を始発電車が通り抜けていく。轟音が空気を震わせ、私の身体を激しく揺さぶる。その振動の中で、私は一つの奇妙な問いにぶつかった。


 なぜ、証明しなければならないのか。


 誰に見せるための証明だ? 研究所のデータか? 両親の期待か? それとも、自分を納得させるための言い訳か? もし、この日記を誰も読まないとしたら。もし、私がここで、一分一秒の記録を放棄して、ただそこにいるだけだとしたら。


 私は、何になるのだろうか。


 何にも?

 ただ、「マヤ」でしかない肉体だけが残るのか?


 ……静かにペンを置いた。日記の最後のページ、びっしりと書き込まれたスケジュールの下、わずかな余白が残っていた。私はそこに何も書かなかった。


「証明、終わり」


 ふと呟いた。それは諦めではなかった。ましてや、マヤと同じ絶望でもなかった。私はただ、自分を縛り付けていた「正解」という名の鎖を、自ら手放しただけだった。


 ――それでも生きたいと思ってしまった。


 私がクローンであっても、オリジナルであっても、そんなことはどうでもいい。私は今、この冷たい鉄の感触を皮膚で感じている。喉を通り抜ける空気が、少しだけ埃っぽいことを知っている。遠くで鳥が鳴き、世界がゆっくりと動き出そうとしている。それは、記述する必要のない現実だった。


 私は日記のページを、一枚、また一枚と破り始めた。


《私は正常である。》

《私は優れている。》

《私はマヤではない。》


 空中に舞った白い紙片が朝日に照らされる。雪のようにキラキラと輝きながら、高架の下へと吸い込まれていく。


 私の記録は、もうどこにもない。 私の価値を測る数値も、私の行動を縛るスケジュールも、全ては朝焼けに溶けて消えた。


 私は立ち上がった。 足取りは以前よりも重かった。鉛のような身体の重さを、私は今、初めて私のものとして受け入れていた。この重みこそが、おそらく生だ。この不快感こそが、管理できない私の輪郭だ。


 それから家へ戻ることにした。「マヤ」としてではなく、かといって「クローン」という記号でもなく。朝食のカロリーを計算することもやめよう。母が注いでくれるホットミルクを、その味を知るために飲むのだ。


 ……証明など要らなかったのかもしれない。存在とは証明されるものではなく、ただそこに「在る」現象に過ぎないのかもしれない。


 日記の最後の表紙を高架下へ投げ捨てた。そこにはもう何も書かれていない。そうして、気づけば歩き出していた。


 六時四十五分。朝のアラームが、どこか遠くで鳴っているような気がした。

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