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⑦ 誰がために

 五時五十分。

 意識の浮上と同時に、私の指先はナイトテーブルの上にあるペンを探り当てた。もはや視覚による確認は必要ない。暗闇の中でも、私の身体は記録装置として最適化されている。


 日記をめくる。昨日の記述を確認しようとしたが、ページを遡る手が止まった。そこには「私は正常である」という文字列が、まるで幾何学模様のように埋め尽くされていた。自分の筆跡なのに、他人の内臓を覗いているような不快感がこみ上げる。


 私はそれを意識の外へ追いやった。不快感は分析を拒絶する際に生じるノイズだ。今日の私は、昨日よりもさらに精密な自分でなければならない。


 その日の午後は雨だった。学校の進路指導室の前で、私は担任の教師を待っていた。進学に向けた面談。マヤの「再開」された人生において、大学進学というマイルストーンは、私の有用性を証明するための重要なイベントだ。


 しかし、なかなか彼の姿が見えないことに、私は無意識的な苛立ちを覚え始めた。制御できない情動はエラーでしかない。解決策として、私は彼を探しに向かうことに決めた。


 職員室横の小会議室。その扉が半開きになっていた。中から聞こえてきたのは、担任の教師と、研究所にいるはずの調査員の低い声だった。


 教師は書類をめくる音を立てながら言った。


「……マヤさんの最近の適応状況ですが、数値上は完璧です。以前の彼女からは考えられないほどに」


「ええ。しかし、あまりに良すぎるのが気になりますね。……あの事件の直前も、彼女は表面的には非常に穏やかだった。ご両親には伏せてありますが、警察の報告書にあった兆候が、今の彼女の生活習慣に……」


 私の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。


『あの事件』?

『あの形』?


 資料の黒塗り部分。私の誕生に際して開示されなかった、マヤの死に至るプロセスの断片。私は息を殺しながら、壁のシミを凝視していた。


「……遺書は見つからなかった。ですが、彼女の部屋に残されていた日記の最後の数ページが気になります。あれは自己表現ではなく、強迫的な観念の羅列でした。今の彼女が書いている日記も精査する必要があります。クローン技術で再現したのは肉体と神経系ですが、追い詰められた際の思考まで同じ型をなぞっているのだとしたら、我々は……」


 会話が途切れた。足音が近づく。私は反射的にその場を離れ、角の給水機の影に隠れた。耳の奥で、ドクドクと不快な音が鳴り響いている。


 ――マヤは自殺したのか?


 確信はない。しかし、先ほどの言葉が毒素のように私の思考回路を侵食していく。マヤは「惜しまれた才能」として死んだのではなかったのか。不慮の事故や、抗えない病魔ではなかったのか。


 もし彼女が自らの意思で、自らのシステムをシャットダウンしたのだとしたら。そして、今の私の「存在証明」が、彼女が死の直前に辿り着いた行為と同じ形をしているのだとしたら。


 私は面談を放って、学校の外へと駆けていた。


 帰宅路、景色が歪んで見えた。

 道端に咲く花も、計算された街路樹も、全てが私を笑っているように思える。私は必死に、歩数と呼吸を数えた。右、左、吸う、吐く。そうしなければ、地面が底抜けてしまうような予感があった。


 夕食。母が「今日は少し顔色が悪いわね、マヤ」と声をかけてきた。私は、鏡の前で練習した通りの微笑みを返そうとした。しかし、頬の筋肉がうまく動かない。


「少し考え事をしてただけ…………お母さん、マヤは……私は、幸せだったのかな」


 母の手が止まった。箸の先がわずかに震え、彼女は目を泳がせた。


「……ええ。あの子は自由で、感性豊かで……ただ、少しだけ、世界が眩しすぎたのかもしれないわね」


 その言葉は肯定でも否定でもなかった。ただ、深い悲しみの裏側に何かが隠されていることだけが伝わってきた。私はそれ以上、問いを重ねる勇気を持てなかった。


 自室に戻り、私は鍵をかけた。

 震える手で日記を開く。


 書かなければならない。今日という日を記述し、管理下に置かなければ、私はマヤの轍を踏むことになる。


《19時42分。夕食終了。母との会話において、未確認情報に基づく質問を行った。これは感情的な衝動によるエラーであり、極めて非論理的な行動である。マヤの死因が何であれ、それは私の現在の価値を左右するものではない。私は独立した個体であり、彼女の失敗を繰り返すことはない。決して繰り返すことはない。》


 しかし、ペンの先が紙を突き破りそうになるほど強く、私は同じ言葉を書き連ねていた。


《繰り返すことはない。私は正常だ。私は彼女より優れている。私は管理されている。私は記録されている。私は、ここにいる。》


 ふと、過去の日記に記した言葉を思い出した。


 マヤがいなければ私もいない。

 彼女の存在を恨んだことはあれど、死を喜んだことは一回もない。


 ……嘘だ。彼女が死んでくれたからこそ、こうして空気を吸えている。私は彼女の死を埋めるための補填として生み出された。もし彼女が自ら死を選んだのだとしたら、私は「死にたがり」のコピーでしかない。


 私の誇っていた理性も、スケジュール管理も、自己分析も。それらは全て、彼女が最期に行き着いた形と同じものではないのか?


 私は、彼女を超克しているのではなく、彼女の絶望をより高精度にトレースしているだけではないのか?


《これは「マヤ」の問題だ。私の問題ではない。》


 日記の余白に大きく書く。その下に、さらに大きく書く。


《これは、私の問題ではない。》


 文字が乱れ、もはや筆跡はマヤのとも、これまでの私のとも違う、何者でもない形になっていた。


 視界が暗くなる。

 日記を閉じようとして手が止まった。ページの隅に、いつの間にか小さなシミができていた。雨漏りではない。それは、私の目から零れ落ちた液体だった。


 私はその液体を指でなぞり、冷徹に分析しようと試みる。


《23時8分。涙腺の不随意な活動を確認。原因は過度のストレス、あるいは情報の不一致による脳の混乱。……ではない。これは、嫌悪感だ。マヤという存在に対する、そして、それを精密に再現し続けている自分自身に対する、生理的な拒絶だと考えられる。》


 そこまで書き終えた瞬間、思わず日記を床に投げ捨てていた。明日何時に起きるべきか。その問いが、初めて重荷として私の胸にのしかかった。


 私は何のために、誰を証明しようとしているのだろうか。

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