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⑤ 砂時計と仮説

 六時ちょうど。アラームが空気を震わせるのと同時に、私の眼球は運動を開始した。昨晩の睡眠効率は悪くなかった。私はベッドから起き上がると同時に、昨日の日記に設定した「六時ちょうど」の欄にチェックを入れる。


 これでいい。

 私はまた一つ、自分に課した「正解」を積み上げた。


 しかし、チェックを入れた直後、視界の端で何かが揺れた気がした。机の上に置かれた、マヤの遺品である小さな砂時計だ。以前、母親が「マヤが気に入っていたから」と持ってきたのだが、私は一度もそれを使ったことがない。三分間という時間を測るために、重力と砂の摩擦に身を任せる。そんな曖昧な時間の定義は、今の私には必要ないからだ。


 見えない所に置こうとして、その砂時計を手に取り、何となく逆さまにしてみた。さらさらと音もなく砂が落ちていく。その光景を見ながら、不意に一つの思考が脳内を支配した。


 もし、この砂が全て落ち切る前に、私が消えたとしたら?


 それはあまりに人間的な思考実験だった。捨て去ろうとする前に、昨日の仮説が頭をよぎる。……何としてでも、彼女以上の存在であり続ける。そうして椅子に深く座り直し、思考回路を起動した。


「時計の砂が落ち切る前に、私が消えたとしたら?」


 まず、家族への影響。母親は泣くだろう。しかし、彼女が泣くのは「私」のためではない。再び失われた「マヤ」のために泣くのだ。父は落胆するだろう。しかし、それは「私」という人格の消失ではなく、高額なコストを投じた「クローン」の失敗に対する評価だ。


 次に、社会への影響。学校の席が一つ空く。成績優秀者のリストから名前が一つ消える。佐藤という友人は、数ヶ月は感傷に浸るかもしれないが、一年もすれば新しい話題に上書きされる。


 結論。私が今この瞬間、この部屋から消滅したとしても、世界に生じる穴は極めて小さい。しかもその穴は、私自身の不在ではなく、マヤというオリジナルの欠損としてのみ認識される。


「……意味のない思考だ」


 私は呟き、砂時計を元の位置に戻した。

 砂はまだ半分も落ちていなかった。


 そうして日記を開き、この仮説を詳細に記述し始めた。ここ最近の認識を明確に言語化しようと思ったのだ。そこにきっと、葛藤の原因がある。


《存在価値の更新義務について。私の存在は、生まれながらにして与えられたものではない。それは常に「マヤの代替」としての機能を果たし、さらにそれを上回る付加価値を出し続けることによってのみ、暫定的に承認される。もし私が、周囲の期待や自分自身のルールを一つでも放棄すれば、その瞬間に私は不要品へと転落する。》


 書いているうちに、指先に嫌な汗が滲んだ。これまで私が積み上げてきた「正解」は、副次的性質として、私が愛され続けるための戦略となる。ずっとそう思ってきた。


 ……しかし、それが本質だったのでは?

 廃棄されないための延命処置。それこそが「マヤ」でい続けることの最大の価値だったのでは?


 私はマヤという亡霊と戦っているつもりだった。

 しかし、本当の敵は「不要であること」そのものだったのかもしれない。ならば、アイデンティティやクローンらしさなんて二の次だ。生存に関わってしまうのだから。


「まだ、不要ではない」


 私は自分に言い聞かせるように、強くペンを握った。今日のスケジュールを再確認する。数学の予習、英語のスピーチ原稿作成、母との対話における適切なトピックの選定。それら全てを完璧にこなさなければならない。昨日よりも、一秒でも、一ミリでも、私は「有用」でなければならない。


 この家における私の居場所は、家賃を払うように、毎日の成果によって買い叩かなければならない聖域なのだ。


 昼休み。私は佐藤から誘われたお喋りを「勉強があるから」と断った。彼女は少し寂しそうに笑ったが、私はそれを無視した。「友達と笑うマヤ」は過去のデータに既に存在する。今の私が提供すべきは「誰もが驚嘆するほどの知性を持つマヤ」だ。それが、私の唯一の生存戦略なのだから。


 夕方。帰宅すると、玄関に母が立っていた。


「おかえり。今日はね、あなたの好きなハンバーグを作ったのよ」


「……ありがと」


 私は反射的に、マヤが好んでいた表情を貼り付けた。しかし、その奥底では冷徹な計算が走っていた。


 ハンバーグの摂取カロリーは約650kcal。夜の学習効率を維持するためには、その後のウォーキングを15分追加する必要がある。


 母が嬉しそうにキッチンへ戻っていく背中を見ながら、私は確信した。彼女が愛しているのは、ハンバーグを喜ぶ「マヤ」という記号だ。その記号を維持し続ける限り、私はこの家にいられる。逆に言えば、私がその記号から一歩でも逸脱すれば、私はただの肉塊、名前のないクローンに戻ってしまう。


 夜。自室で私は、日記の最後にこう記した。


《本日の仮説検証。現時点において、私はまだ「有用」であると判断される。しかし、有用性の基準は日々上昇しており、現状維持は後退と同義である。 私が私であるために、マヤが成し得なかった「完璧」を更新し続けなければならない。存在することに条件があるのなら、その条件を誰よりも高い位置に設定すればいい。それが私の証明だ。》


 砂時計の砂は、いつの間にか全て下に落ちていた。私はそれを再びひっくり返すことはしなかった。計測すべきなのは、過去から落ちてくる砂ではない。未来へ向かって私が積み上げる、終わりのない実績だけだ。


 明日は五時五十五分に起きる。

 不要な存在にならないために。

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