④ オリジナルとの差分
六時五分。
アラームが鳴る前に、私の意識は点灯した。
もはや「起床」という言葉はふさわしくない。それは暗闇の中でスイッチが入れられるような、無機質な覚醒だった。私は枕元のスケジュール帳を手に取り、迷わずチェックを入れる。昨夜に追加した「起床時間の前倒し」は完璧に遂行された。
リビングに降りると、母親がキッチンで朝食の準備をしながら、何気なくタブレットを眺めていた。そこには生前の、本物のマヤの動画が流れていた。
『あはは、お父さん、もうやめてよ!』
ピアノの発表会が終わった後のロビーだろうか。映像の中の彼女は、少し着崩したドレス姿で笑っていた。その笑い方は、私のように口角の角度を計算したものではない。もっと無防備で、もっと散漫で、そして何より、非効率的なエネルギーに満ちていた。
「マヤ、おはよう。……あ、ごめんなさいね。昔の映像を見てて」
母親が慌てて画面を消す。その瞬間の、申し訳なさと愛おしさが混ざり合った視線。私はにこやかな笑みを作り、平静を装って食卓についた。
「いいよ、お母さん。懐かしかったし」
この返答は論理的な正解だ。
そのはずだった。
母親の口角がピクリと動いた。
私はマヤの映像資料を、研究所にいた頃から何百回と見てきた。彼女の癖、声のトーン、好物、苦手なもの。それら全てをデータとして保持している。しかし最近の私は、そのデータを単なる「模倣の材料」としてではなく、「打倒すべきスコア」として認識し始めていることに気づいた。
マヤは、国語のテストで大体70点を取る。
私は常に95点以上だ。
マヤは、朝寝坊をして親を困らせたことがある。
私は一度も遅刻をしない。
マヤは、夕食を片付けずに本を読んでいたことがある。
私は食後、五分以内にシンクを片付ける。
これは生存戦略だ。私は彼女よりも「良い存在」でなければならない。クローンという代替品が、オリジナルと同等、あるいはそれ以下であるならば、存在し続ける理由が損なわれるからだ。コピー機が原稿よりも汚い印刷を出せば、それは故障と見なされて廃棄される。原稿よりも鮮明な、高精細な出力であり続けなければならない。
学校への道すがら、なんとなしに、マヤがかつて歩いたルートをなぞってみた。通学路の掲示板、角のタバコ屋、公園のベンチ。途中で会った佐藤が、隣を歩きながら言った。
「そういえばマヤってさ。この公園の野良猫に名前つけて、一時間くらい話しかけてたよね。覚えてる? 『ミケは哲学的な顔をしてる』とか言ってさ」
「……あったね。今はもっと、有意義な時間の使い道があると思うけど」
「あはは、ほんと変わったよね。今のマヤの方がしっかりしてて頼もしいけど、たまにちょっと、寂しい気もするかな」
寂しい。どうでもいいノイズのような単語だ。
……しかし、何かが引っかかってしまう。
なぜ、彼女の無意味な行動が、「寂しさ」というポジティブな感傷を伴って記憶されているのか。私の「しっかり」という完成度は、なぜ彼女の不完全さに及ばないのか。
放課後。私は図書室で、マヤが生前借りていた貸出履歴の記録を見つけた。そこには詩集や、難解な哲学書、あるいは脈絡のない写真集が並んでいた。対して、現在の私が借りているのは、実用的な参考書や、最新の科学ジャーナル。あるいは「マインドフルネスによる効率的休息法」といった実利的な本ばかりだ。
私はそれらを比較し、日記にこう綴った。
《マヤの知的活動は極めて情緒的であり、体系化されていない。彼女の行動原理は刹那的な好奇心に依存しており、長期的な自己研鑽の視点が欠如している。一方で、私の活動は全て目的論に基づいている。私は彼女よりも高度に知性を制御しており、時間というリソースを無駄にしていない。したがって、私はマヤの「改良型」であると結論づけられる。》
……なぜかペンの先が、わずかに震えていた。
その日から、生活の波高が変わった。
例えば、五分間の休憩を取るとき。脳裏にマヤの笑顔がよぎる。彼女なら、この五分間を心から楽しみ、窓の外を眺めていただろう。そう思った瞬間、私の「休憩」は「マヤに劣る行為」へと変貌する。
《彼女のように、目的もなく休んではいけない。私はその五分で、次のタスクへの精神的準備を完了させなければならない。》
喜びや楽しさといった感情も、今では「無意味なノイズ」にしか感じられない。美味しいものを食べたとき、面白い本を読んだとき。かつてのマヤが、それらを手放しで愛していたと知るたびに、自分の感情へ何度も言い聞かせる。
《感情に流されることは、オリジナルの欠陥を継承することだ。私はさらに理性的な、別次元の存在になる必要がある。》
ある夜、リビングで父が言った。
「マヤ。明日は日曜日だから、少しゆっくり起きたらどうだ? 毎日、根を詰めすぎているように見えるよ」
その言葉は、私にとって最大の侮辱だった。「ゆっくり起きる」ことは、私にとって「マヤ」に近づくことと同じだ。
「大丈夫だよ、お父さん。今の私はこれがいいの」
……無意識的に嘘をついていた。心地よさなんて、とうの昔に忘れた。ただ、チェックリストが埋まっていくときの、ヒリつくような充足感があるだけだ。
自室に戻り、私は鏡を睨みつけた。鏡の中の少女は、マヤよりもずっと顔色が白く、瞳は冷たく冴え渡っている。彼女の顔を指でなぞり、自分に言い聞かせる。
「私は、あなたじゃない。あなたよりも、ずっと上手にやってみせる」
私は日記を開き、マヤの筆跡を真似ることを完全にやめた。代わりに出現したのは、定規で引いたように整然とした、どこか無機質な文字だった。
《オリジナルとクローンの差分は、制御能力の差にある。彼女が生活を無為な行いへ費やしたなら、私は自分を24時間監視し、一分の隙も作らない。何としてでも、彼女以上の存在であり続ける。》
私は電気を消し、暗闇の中で天井を見上げた。そこにある木目は、昨日と同じ形をしていた。同じ形だと信じたい気持ちがあった。
明日は、六時ちょうどに起きる。
一分たりとも、彼女に譲るつもりはない。




