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③ 努力の可視化

 六時十五分。アラームが鳴る一段階前に、私の意識は浮上した。正確には「目が覚めた」というより、システムが再起動したような感覚に近かった。


 昨晩記入したスケジュール帳は、枕元のサイドテーブルで白く光っている。私は一秒の猶予も置かず、鉛のような掛け布団を跳ねのけた。ここで躊躇すれば、例の空白がまた私を侵食しに来るだろう。天井の木目を数えながら、「なぜここにいるのか」なんて自問自答を繰り返す時間は、私の存在証明にとってノイズでしかない。


 私はペンを取って起床時間の欄にチェックを入れた。この小さなマークこそが、私が「マヤ」という曖昧な存在ではなく、制御された一つの個体であることの証左だ。こういった小さな事が案外重要なのだと、マヤの父がかつての映像記録で言っていた。


 一日の全てを数値化し、記録し、可視化すること。

 それが、今週から自分に課した新しいルールである。


 学校生活が始まって二週間。周囲の評価は素晴らしいものだ。成績も生活態度も「別人になったよう」。この言は、元のマヤとは異なるアイデンティティの確立に役立つだろう。


 そして教室という空間は情報の宝庫だ。教科書の内容は、一度目を通せば研究所での基礎教育と紐付けられ、瞬時に整理される。小テストの点数は常に満点か、それに準ずるもの。体育の授業での心拍数管理、休み時間におけるクラスメイトとの接触回数と、その際の発言内容の適切性。それら全てを頭の中のシートに書き込んでいく。


「マヤ、最近すごいね。なんか、前よりずっと……なんて言うか、キリッとした?」


 昼休み。かつてマヤの友人だったという少女が私の席にやってきた。名前は佐藤というらしい。社交性は高いが、学力は中の下程度。彼女の記憶の中にあるマヤは、もっと「ふわふわしていて、時々どこか遠くを見ているような子」だったらしい。


「そうかな。ちょっと改心しただけだよ」


 私は計算された微笑みを返す。

 佐藤は「そっかあ」と納得したように笑い、去っていった。


 ……充実。それは数値が語るものだろう。私はいつも一日の終わりに、今日の「成果」をグラフにしていた。


《・学習時間:280分

 ・歩数:12000歩

 ・摂取カロリー:1850kcal

 ・理想的なコミュニケーション回数:14回》


 理想的な結果だった。かつてマヤが歩いたであろう、思春期特有の「揺らぎ」や「曖昧さ」を、強固な論理性をもって排除している。もし私がマヤの「再生産」ならば、これほどまでの成果を出している現在の私は、オリジナルよりも価値ある存在ではないのか。


 しかし、奇妙な現象が起きていた。


 グラフが右肩上がりに伸び、チェックマークが埋まっていくほどに、私の内側は空洞化していくような感覚があった。「達成感」という感情を検索してみるが、私の胸にあるのは「安堵」に近い。それは何かが成し遂げられた喜びではなく、綱渡りを終えた後のような感覚だった。


 ある夜。

 数学の演習問題を解いているとき、シャープペンシルの芯が折れた。それだけのことだった。


 だがその瞬間、私の思考が完全に停止した。折れた芯が机の上に転がる。その黒く小さな破片を見た瞬間、私のスケジュールが、私の存在が、その一点から崩壊していくような強烈な予感に襲われた。


 私は震える手で、その芯をゴミ箱に捨てた。

 そして日記に書きなぐる。


《21時42分、集中力の欠如。原因は日中のエネルギー配分のミス、あるいは、精神的強度の不足と考えられる。明日は今日のミスを補填するために、学習時間を15分延長する。》


 書き終えると、少しだけ呼吸が楽になった。原因が「努力不足」であるならば、私はまだ戦える。私は決して、制御不能なバグに支配されているわけじゃないのだ。


「頑張ってるな、マヤ」


 リビングに降りると、父が満足げに私の成績表を眺めていた。その目は私を見ているのではない。私の奥に「マヤ」を見ている。「マヤ」の出した結果を見ている。まだ今は、だが。


「期待してくれてるからね」


 私は平然としてそう答えた。

 それは嘘ではなかった。期待に応えることは、私の生存戦略そのものだ。


 だが時折、鏡の中に映る自分と目が合うと、背筋に冷たいものが走る。そこにいるのはマヤの顔をした精密機械だ。どうしても、研究所で見せられた映画の登場人物と重なってしまう。鋼鉄の素体の上に、肌色の樹脂を貼り付けただけの殺人アンドロイドを。


 いや、今は考えるより動くしかない。徐々に私は元の「マヤ」本人として受容され始めている。とにかく時間がないのだ。


 私はペンを握り直し、翌日のスケジュール帳を埋めた。六時十分起床。昨日よりさらに五分、前倒しにする。


 ……努力の可視化。それが自分自身に課したミッションであり、同時に、私の自己を確立させるための最善手だった。マヤという亡霊に勝つためには、私はマヤ以上に素晴らしい何かにならなければならない。


 私は日記の最後に、自分でも驚くほど強い筆圧で、一行だけ付け加えた。


《私はマヤより優れている。だから、私はここにいていい。》


 その言葉が、暗い部屋の中で呪文のように響いた。

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