覚醒、そして反撃へ
バザルタの広場に停滞する空気は、もはや生物が吸うべき酸素を失い、ドロドロとした絶望の澱と化していた。
精神の檻――「記憶の牢獄」に囚われた三人の肉体は、魂の光を吸い取られ、輪郭さえも薄氷のように透け始めている。影の軍勢は勝ち誇ったようにその周囲を渦巻き、彼らの「心の死」を待っていた。
だが、深淵の底で、沈黙を破る鼓動が一つ、響き渡った。
バルガス――「不屈の盾」
雪原に跪き、亡霊たちの手に引きずり込まれようとしていたバルガスの脳裏に、一つの「嘘」が過った。
(……そうだ。昨日の決闘、ノア様は確かに俺を負かした。だが、あの時あの方は……鼻先に剣を突きつけた後、わずかに笑った気がしたんだ)
それは、最強の勇者が見せる傲慢な笑みではなかった。必死に恐怖を抑え込み、自らの知略が通じたことに安堵した、あまりにも「人間臭い」微笑み。
『バルガス……なぜ立ち上がる。お前は仲間を見捨てた犬だぞ』
死んだリーダーの影が囁く。しかし、バルガスはその影の腕を、鋼のような力で掴み返した。
「……ああ、そうだ。俺は卑怯な犬だ。仲間を捨て、死ぬのが怖くて逃げ出した。その事実は、死ぬまで俺の背中に焼き付いて離れねえだろうよ」
バルガスはゆっくりと、折れたはずの膝を押し上げる。
「だがな! 俺が今信じている勇者は、そんな俺の醜さを知りながら、共に戦えと手を差し伸べてくれたんだ! 過去の俺がどれほど汚れていようが、今の俺には、あの『嘘つきな勇者』の背中を守るっていう、最高の死に場所があるんだよッ!!」
「うおおおおおおお!!」
咆哮と共に、バルガスは雪原を、亡霊を、自らの罪悪感ごと一刀両断にした。
リィン――「意志の詠唱」
暗闇の中で、ノアの幻影に「お前は空っぽだ」と告げられていたリィンは、静かに魔導書を閉じた。
(……お館様。あなたは確かに完璧だった。でも、あなたは私を見なかった。私の魔法を『道具』としてしか扱わなかった)
リィンの瞳に、昨夜、震えながらもノアの威厳を演じきったルストの背中が映る。
兄への劣等感に焼け焦げながら、それでも「誰かのために」自分を殺してまで舞台に立つ、あの脆くて美しい狂気。
『リィン、消えなさい。お前には何も……』
「いいえ。私には、今、守るべき『嘘』があるわ」
リィンはノアの幻影を真っ向から見据え、指先で空中に複雑な魔法陣を描き出す。それはノアに教わった術式ではない。彼女が独学で、いつかあの人の隣に立つために編み上げた、彼女だけのオリジナル。
「私はもう、光を追うだけの影じゃない。私は、あの人が吐いた世界を救う『嘘』を、私の魔法で『真実』に変えてみせる! 散りなさい、過去の亡霊!」
「《蒼穹の断罪》ッ!!」
彼女の意志に呼応するように、魔導書から逆巻く蒼い閃光が放たれ、図書館の廃墟を一瞬で灰燼に帰した。
ルスト――「大逆転の序曲」
そして、ルスト。
地下墓所で兄の剣に喉を貫かれようとしていた彼は、薄く笑っていた。
『……何がおかしい』
「……兄さん。あんたはやっぱり、僕のことを何も分かってないな」
ルストは喉元の刃を素手で掴み、力任せに引き寄せた。
「僕はあんたになりたいんじゃない。あんたが『世界を滅ぼす』なんて馬鹿なことを言わなきゃいけないくらい絶望してたなら、僕はあんたの名前を借りて、あんたが守れなかったもの全部、守りきってやるって言ってるんだよ!」
ルストの全身から、兄ノアのものとは決定的に違う、泥臭くて熱い魔力が噴き出す。それは天賦の才ではなく、これまでの人生で培われた「執念」の色だった。
「ガラクタにはガラクタの……意地があるんだよ! 消えろ、ノア・ランベール! 今ここに立っているのは……勇者を演じ、勇者を超える男、ルスト・ランベールだ!!」
ルストが聖剣を振り下ろすと同時に、鏡のように張り付いていた兄の幻影が、粉々に砕け散った。
「――ッ!!」
三人の意識が、同時に現実世界へと回帰した。
広場を埋め尽くしていた影の軍勢が、彼らの急激な「精神の変質」に驚愕し、一歩後退する。
「……待たせたな、二人とも」
ルストが顔を上げる。その瞳は、ノアの冷徹さとルストの情熱が混ざり合った、凄まじい眼光を放っていた。
「……ふん。いい目になったじゃねえか、パチモン勇者様」
バルガスが大剣を肩に担ぎ、地響きのような笑い声を上げる。
「ええ。準備は完璧よ。……偽物勇者様、あなたの『筋書き』、見せてもらいましょうか」
リィンが不敵に微笑み、その周囲には十数層もの多重魔法陣が展開される。
ルストは聖剣を高く掲げた。
影の軍勢が、その光を恐れて咆哮する。
「行くぞ。……これから始まるのは、最強の兄さんが一度も成し得なかった、最高の大逆転劇だ!!」
ルストの号令と共に、バザルタの闇を切り裂く「反撃」の火蓋が切って落とされた。




