表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/8

過去の残像

バザルタの町は、今や巨大な「黒い墓標」と化していた。

北門を突き破った影の奔流は、瞬く間に目抜き通りを飲み込んだ。悲鳴はすぐに途切れ、代わりに聞こえてくるのは、凍てつく風の音と、人々の「すすり泣き」だけだ。

逃げ遅れた母親が、影に触れられた瞬間、抱えていた赤ん坊を忘れ、虚空を見つめたまま崩れ落ちる。強固な鎧を纏った守備兵たちは、影が見せる「過去のトラウマ」の幻影に怯え、自らの剣を喉元に当てる。

破壊ではなく、喪失。

この町からは今、一秒ごとに「明日を信じる力」が奪われていた。

「……これが、兄さんの言っていた『滅び』の正体なのか」

中央広場。

ルスト、リィン、バルガスの三人は、押し寄せる黒い霧の渦中にいた。

周囲の石畳は黒く変色し、温度は急速に奪われていく。息を吸うたびに、肺が凍りつくような感覚。それと同時に、三人の脳内に「見たくない記憶」が強制的に再生され始めた。

「おのれ……見せるな、俺に……あの光景を……ッ!」

バルガスが頭を抱えて叫ぶ。

「よして……私は……私はお館様に……!」

リィンの瞳から光が消え、魔導書が手から滑り落ちる。

そして、ルスト。

彼が持つ聖剣の輝きが、ドロドロとした影に飲み込まれ、窒息しそうになっていた。

「……あ……あぁ……」

ルストの視界が反転する。

バザルタの町が消え、そこには彼が人生で最も憎み、最も愛し、そして最も恐れた「史上最強の兄」が、ただ静かに立っていた。

影の軍勢が仕掛ける、精神の処刑が始まった。

三人の魂は、それぞれの過去という地獄へ、深く、深く堕とされていく。


バルガス――「英雄の陰で腐る、かつての逃亡者」


バルガスが目を開けると、そこはバザルタの広場ではなかった。

肌を刺すような極寒の突風。視界を遮る吹雪の向こうには、かつて彼が所属していたAランク冒険者パーティの仲間たちがいた。

だが、彼らは生きてはいなかった。

「……あ、ああ……ここは……」

バルガスの足元には、雪を赤く染めて横たわる仲間たちの死体。その中心で、かつて自分の左腕を奪い、部下たちを一人残らず食い殺した災厄の魔獣――「ベヒーモス」の巨大な影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

『……また、お前だけか』

地を這うような影の声が、バルガスの鼓膜を震わせる。

それは死んだはずのパーティリーダーの、恨みがましい声だった。

『あの時、お前は何と言った? 「必ず助けを呼んでくる」……そう叫んで、お前は俺たちの背中に泥を跳ね上げながら、一度も振り返らずに逃げ出したな』

「違う……俺は……あの時は、そうするしか……!」

『嘘を吐くな。お前はただ、自分が死ぬのが怖かっただけだ。お前は英雄に憧れ、力に酔いしれながら、その実、土壇場で仲間を見捨てて生き恥を晒す「卑怯者」に過ぎない』

影の軍勢が形作る「過去の罪」が、バルガスの心臓を冷たく掴む。

バルガスにとって、ルスト(ノア)という完璧な勇者にすがったのは、この過去のシミを拭い去りたいという切実な願いゆえだった。だが影は、その希望さえも嘲笑う。

『昨日の決闘を見ろ。お前は「勇者ノア」に敗れたのではない。自分が本物の英雄と対峙した時、その輝きに耐えきれず、自ら膝をついたのだ。それがお前にふさわしい最期だ』

雪原の影から、かつての仲間たちが這いずり寄ってくる。

欠損した腕を、虚ろな眼窩がんかをバルガスに向け、その重たい体で彼を雪の下へと引きずり込もうとする。

「やめろ……頼む、やめてくれ……っ!」

『逃げろ、バルガス。お前の得意技だろう? 仲間を捨て、町を捨て、勇者を捨てて、一人で暗い穴倉へ逃げ込め。英雄の隣は、お前のような男がいていい場所ではない』

バルガスの大剣が、雪の上に落ちた。

全身が凍りつき、かつての逃亡の記憶が「現在」を塗り潰していく。

勇者ノアを信じることで保っていた彼の精神は、今、自らの罪という重圧に押し潰されようとしていた。



リィン――「神への依存という名の空虚」


一方、リィンは崩壊した魔導図書館の廃墟に立っていた。

そこには、自分を一瞥もせず、ただ孤高に歩み去っていく「本物のノア」の後ろ姿がある。

『リィン。お前は何のために魔法を編む? 私のためか? ……いいや、お前は自分自身の空虚さを埋めるために、私の才能に寄生していただけだ』

「お館様! 待ってください! 私は、あなたに……!」

『お前は私を愛していると言ったな。だがそれは嘘だ。お前はただ、私という「最強の存在」にすがることで、自分が特別な人間になれたと錯覚していただけだ。……お前は一人では、呪文一つ満足に紡げない無能な人形だ』

リィンの足元から、黒い泥が這い上がってくる。

それは彼女がずっと目を背けてきた、自分自身の「希薄さ」だった。

ノアという太陽が消えた後、彼女はルストの中にその残光を見つけ、狂ったように縋り付いた。だが影は、その執着を「醜い依存」だと断じる。

『今のルストを見ろ。あんな惨めな、震える手で剣を握る男を守り、何を成すつもりだ? 偽物の魂を守る、偽物の魔導師。……お前には、最初から何もなかったのだよ』

リィンの魔導書から光が失われていく。

彼女が必死に保ってきた「主への忠誠」というアイデンティティが、影の冷酷な言葉によって瓦解していく。



ルスト――「史上最強の兄という、逃れられぬ墓標」


ルストが立っていたのは、ランベール家の広大な地下墓所だった。

そこには、無数の「ノア・ランベール」の彫像が並び、自分を見下ろしている。

『ルスト。お前の人生に、どんな意味があった?』

目の前の彫像が動き出し、実体を持った兄となって、ルストの喉元を剣で突く。

『お前は生まれた時から僕の影だった。人々は君に期待せず、君の成長を喜ばなかった。君が今やっていることは、僕への「復讐」ですらなく、僕の死体を背負って歩いているだけの「寄生」だ』

ルストは膝をつき、嗚咽おえつを漏らした。

二重人格の演技。偽物の勇者。そのすべてが、兄への劣等感からくる逃避ではないか。

『さあ、剣を捨てろ、ルスト。僕と同じ顔をしていることが、不愉快でならない。お前は「ガラクタ」として生まれ、誰からも愛されず、ここで消えるのがお似合いだ』

ノアの剣先が、ルストの瞳に迫る。

影の咆哮が三人の精神を削り、彼らの意識は「闇」へと完全に飲み込まれようとしていた。

バザルタの町では、影の軍勢が防衛線を突破し、中央広場へと迫っていた。

そこには、精神の檻に囚われ、魂の灯火を失いかけた三人の姿がある。

果たして、このどん底から、彼らはどう「自分自身」を取り戻すのか。

「偽物の勇者」としての演技ではなく、自らの意志で剣を握るための、最も重く、苦しい闘いが、今この精神の最深部で繰り広げられていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ