降臨の演技 〜精神を削る一人芝居〜
月光が射し込む路地裏。ルストの喉元に突きつけられたのは、あまりにも冷たく、暴力的な魔力の刃だった。
「……動かないで。その喉を焼き切るなんて、私には造作もないことよ」
フードの奥から覗く銀色の瞳。それは、かつて兄ノアに心酔し、その傍らで魔導を振るっていた天才、リィンだった。
ルストの背中に嫌な汗が流れる。
(まずい。彼女は兄さんの『本質』を知っている数少ない人間だ……!)
「リィン……なぜ、君がここに……」
「その汚い口でお館様の名を呼ばないで。《ランベールのガラクタ》が、なぜお館様の姿を騙り、あんな小細工で勇者を演じているの? 答えなさい。さもなければ、ここでその偽物の首を落としてあげる」
リィンの指先に集まる高密度の魔力が、大気をバチバチと焼く。
彼女の目は、ルストの中に「ノア」の欠片も見ていない。ただの紛い物として、排除しようとしている。
(どうする? 言い訳は通用しない。双子の顔だけで誤魔化せる相手じゃない。……なら、これしかない。『僕』を消して、『兄さん』をここに降ろすんだ!)
ルストは、覚悟を決めた。
これから始めるのは、命を懸けた「二重人格」の狂言だ。
「……く、ふふ……。あははははははは!!」
唐突に、ルストが腹を抱えて笑い出した。
その笑い声は、先ほどまでの怯えた少年のものではない。どこか壊れた、冷酷な響き。
「何がおかしいの。死ぬ前に頭がイカれた?」
「……いや……皮肉だと思ってね。……まさか、僕を殺そうとするのが……君だなんて。……っ、あああああぁぁぁぁ!!」
ルストは突如として自分の頭を両手で覆い、地面に激しく転がった。石畳に頭を打ち付け、全身を弓なりに反らせて悶絶する。
(もっとだ。もっと苦しめ。僕という意識が、巨大な何かに塗り潰されるように……!)
「が、はっ、あああぁぁぁぁ!! 出るな! まだだ、まだ僕が……この器は僕が守らなきゃいけないんだ……っ! やめろ、兄さん……やめてくれ!!」
ルストは必死に「自分の中の別人格」と戦っている振りを演じた。
リィンの瞳に動揺が走る。彼女の目には、無能な弟ルストの精神が、あまりに強大な「ノアの魂」に侵食され、壊れかけているように映ったはずだ。
やがて。
ピタリと、動きが止まった。
ルストはゆっくりと、機械仕掛けの人形のように滑らかな動作で立ち上がった。
項垂れていた顔が、静かに上がる。
(ここだ。意識を切り替えろ。僕はルストじゃない。世界を統べる王、最強の勇者ノア・ランベールだ……!)
その瞳を見た瞬間、リィンの心臓は氷に閉じ込められた。
焦点は合っていないが、その眼差しには、万物を塵芥と見做す圧倒的な「強者の傲慢」が宿っていた。
「……五月蝿い羽虫だな。……私の眠りを妨げるのは、どこの不届き者だ?」
声が変わっていた。
ルストの声でありながら、その響きには銀鈴のような冷たさと、天上の神が下界を見下ろすような傲慢さが同居している。
ルスト(を演じるノア)は、無造作に一歩を踏み出した。
リィンが構える魔導の刃など、初めから存在しないかのように。彼女の「間合い」を無視し、死を恐れぬ不遜な歩み。
「……お前か。リィン」
「……っ!? その呼び方……そんな、まさか……お館様……?」
「忘れたか? 私の影となり、私の言葉を魔法に編んだあの日々を。……勇者の仕事は大変でね、常に神経擦り減らして戦わなくちゃいけない。その精神的ストレスがひ弱いで温厚な弟ルストに似た人格を作り出しただけだ」
ルストは、震えるリィンの目の前で足を止めた。
彼は冷たい指先で、彼女の喉元に突きつけられた魔力の刃を――素手で掴んだ。
ジジジ……と肉の焼ける音がする。
(熱い。叫び出しそうだ。でも、耐えろ。兄さんならこんな痛み、瞬き一つしない……!)
「お前が私を殺すというのなら、それも良かろう。この器ごと、私の魂を消してみせろ。……だが、リィン。お前にそれができるか? 私のいない世界で、お前は何を杖にして生きる?」
「あ……あぁ……」
リィンの瞳から涙が溢れ、膝ががくんと折れた。
瓜二つの顔。しかし、今そこにあるのは、間違いなく彼女がかつて命を懸けて仕えた男の「格」だった。
「……忠実な駒が欲しかったところだ。リィン、お前の力を私のために磨け。この『ルスト』という仮面が剥がれ、私が真に再臨するその時まで……影として付き従え」
「……は、はい……お館様……。お館様……!!」
リィンは石畳に額を擦り付けた。
ルストは内心で、安堵のあまり気を失いそうになっていた。だが、演技はまだ終わらない。
「……くっ、また……意識が……。……リィン、あとは……頼……む……」
ルストは再び苦しむ振りをし、そのままリィンの腕の中へと崩れ落ちた。
翌朝。
バザルタの安宿のベッドで、ルストは目を覚ました。
隣には、一睡もせずに見守っていたのであろうリィンが、昨夜とは打って変わった「忠実な従者」の顔で控えていた。
「……目覚められたのね。お館様の魂は、今は眠っておられるようよ」
(……よし、完全に騙し通せた。でも、これから二十四時間、常に兄さんの影を演じ続けなきゃいけないのか……)
「……ああ。……驚かせて、すまなかった、リィン」
「謝らないで。私は……お館様が戻られるその日まで、この『器』を守るのが役目だと思っているから」
リィンの態度は、ルストを「兄を宿す尊い容れ物」として敬う、奇妙な献身に変わっていた。
最強の味方を得た。しかし、その信頼の土台は、薄氷よりも脆い「嘘」の上に成り立っている。
そんなルストの緊張を切り裂くように、ドンドンドンドン!! とドアが激しく叩かれた。
「ノア様! ノア・ランベール様!! お願いです、助けてください!!」
飛び込んできたのは、昨日決闘したはずの巨漢バルガスだった。
彼は全身傷だらけで、その表情は悲痛なまでの切迫感に満ちている。
「バルガス!? どうしたんだ、その怪我は!」
「……『影の軍勢』です! 昨夜、北の関所が壊滅しました。そこから現れた黒い魔物の群れが、今まさにバザルタへ向かっています! 守備隊はもう全滅寸前だ!」
バルガスはルストの前に跪き、床に頭を擦り付けた。
「あんたの……あんたのあの『神域の力』があれば、あんな化け物ども一捻りのはずだ! 頼む、この町を……バザルタを助けてください!!」
ルストの喉が鳴った。
昨日の奇策は、一対一だったから成功したに過ぎない。数千の軍勢を相手に、あんな手品が通用するはずがない。
しかし、隣に立つリィンが、静かに、しかし熱を帯びた瞳でルストを見つめた。
その瞳は、「勇者ノアなら、どう戦うのですか?」と問いかけているようだった。
「……分かった。案内しろ、バルガス」
ルストは震える手で、兄の聖剣を握りしめた。
「ガラクタ」と呼ばれた少年が、偽りの勇者として、初めて「本物の戦争」へと足を踏み出す時が来たのだ。




