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月夜の告発

アイゼン断崖を越え、ルスト・ランベールがたどり着いたのは、交易都市「バザルタ」だった。

ここは王都からの街道と自由都市連盟を結ぶ要衝であり、常に活気に満ちている。だが、今日の活気は異常だった。

町の巨大な正門をくぐった瞬間、ルストを待っていたのは耳を劈くような歓声と、空を舞う色とりどりの花びらだった。

「勇者様だ! 勇者ノア様がお越しになったぞ!」

「人類の至宝、ノア・ランベール万歳!」

ルストは思わず足を止めた。王宮からの伝令は既にこの町に届いていたらしい。

「ノア・ランベールが極秘任務でこの町を通る」――。

その嘘が、ルストが到着するよりも早く、熱狂という名の怪物を生み出していた。

「……これが、兄さんが背負っていたものか」

ルストは顔を引きつらせた。

民衆の目は輝いている。彼らは、目の前の青年がブラッド・ベア一匹に殺されかけた「ガラクタ」だとは微塵も思っていない。ただ、伝説の勇者が自分たちの町に現れたという事実だけに酔いしれていた。

町長をはじめとする有力者たちに囲まれ、ルストは半ば強引に中央広場の特設ステージへと連れて行かれた。そこでは既に、彼を歓迎するための豪華な晩餐会が始まろうとしていた。

最高級のワイン、山盛りの肉料理。しかし、ルストの喉は砂を噛んだように渇いていた。

隣に座る町長が、赤ら顔でルストの肩を叩く。

「いやあ、ノア様! 貴殿がこの町に立ち寄ってくださるとは、バザルタ百年の誉れですな! ぜひ、その神域の剣技、一目拝見したいものです!」

その言葉を合図にしたかのように、広場の空気が変わった。

一人の男が、重い足音を響かせて進み出てきた。


男の名はバルガス。

バザルタ最強を謳われる、元Aランク冒険者の豪傑だ。その体躯はルストの二倍はあろうかという巨漢で、背負った大剣は、ルストが持つ聖剣よりも遥かに凶悪な威圧感を放っていた。

「……おい、あんたが本当に『勇者ノア』か?」

バルガスの声は、熱狂する群衆を黙らせるほどに低く、鋭かった。

彼は疑っていた。

ノア・ランベールの噂はバザルタにも届いている。だが、目の前に座っている青年からは、最強の英雄が持つはずの「圧」が感じられない。

「俺は、あんたの噂が信じられねえ。あんたのような優男が、山を割り海を裂くだと? 笑わせるな」

「バルガス! 無礼だぞ、控えよ!」

町長が慌てて制止するが、バルガスは止まらない。

「勇者様。もし本物なら、俺と一手、手合わせ願いたい。もし俺に勝てないようじゃ、この町の連中を騙しているペテン師ってことだ」

広場が静まり返る。

ルストの背中に嫌な汗が流れる。まともに戦えば、一秒も持たない。バルガスの筋肉、構え、視線。そのどれもが、今の自分を凌駕している。

だが、ここで逃げれば「勇者が偽物である」という噂が広がる。それは王命への背信であり、世界を救うための嘘の崩壊を意味した。

「……分かった。お相手しましょう」

ルストは静かに立ち上がった。

心臓がうるさいほどに脈打っている。だが、彼はアイゼン断崖で見た、兄の「圧倒的な不条理」を思い出した。

(普通に戦ったら負ける。なら、勇者らしい『不条理』を見せるしかない……!)


広場に急造のリングが作られた。

バルガスは大剣を軽々と抜き放ち、ルストを睨みつける。対するルストは、兄の聖剣を鞘から抜くことさえしなかった。

「おい、剣を抜かねえのか?」

「……あなた相手に剣を抜く必要はない」

ルストはハッタリをかました。足の震えを隠すために、重心を深く落とす。

「舐めやがって……! 死ねッ!」

バルガスが地面を蹴った。

巨体に似合わぬ瞬発力。大剣が空気を切り裂き、ルストの脳天を目掛けて振り下ろされる。

ルストは避けない。否、避ける余裕すらない。

彼がしたのは、ただ一つ。

左手に隠し持っていた、バザルタの屋台で購入したばかりの「高純度発火粉末」と、強力な「冷却魔法石」の粉を同時に空中に撒くことだった。

(魔法理論の応用だ。急激な加熱と冷却を一点に集中させれば――!)

バルガスの剣がルストに届く直前。

ルストは極小の魔力を指先に込め、空中に散布した粉末に点火した。

――ドォォォォォン!!

爆発ではない。それは、急激な気圧の変化による「爆縮」だった。

ルストが事前に計算していた気流の渦が、バルガスの周囲の空気を一瞬で奪い去る。

「が……はっ……!?」

バルガスの大剣がルストの鼻先数センチで止まった。

バルガスは首を押さえ、悶絶し始めた。肺の中の空気が無理やり引きずり出され、一瞬にして真空状態に置かれたのだ。

さらにルストは、懐から「幻惑の香料」を取り出し、指先で弾いてバルガスの鼻先へ送った。

酸欠状態で意識が朦朧としているバルガスの脳に、強力な幻覚が作用する。

バルガスの目には、ルストの姿が巨大な龍に見え、背後にそびえ立つ兄ノアの残影が重なって見えたはずだ。

「……終わりだ」

ルストは、動けなくなったバルガスの首元に、鞘に入ったままの剣をそっと添えた。

「な……ん……だと……」

バルガスは膝をついた。

観客には何が起きたか全く分からなかった。ただ、勇者が指先を少し動かしただけで、最強の戦士が窒息し、戦意を喪失したように見えたのだ。

「す、すごい……! 魔法も使わず、剣も抜かず……!」

「これこそが、神域の力……!」

爆発的な歓声が上がる。

ルストは静かにバルガスから離れ、平然とした顔で席に戻った。だが、その外套の下の脚は、生まれたての小鹿のように震えていた。

(危なかった……。あんな無茶、二度と成功しないぞ……)


歓迎会が深夜まで続き、ようやく解放されたルストは、疲れ果てた体を引きずって町を歩いていた。

町長が用意してくれた豪華な宿坊もあったが、そこには常に監視の目がある。彼は一人になりたかった。

路地裏の、古びた安宿を探そうと、人通りの少ない裏通りに入った時だった。

「――相変わらず、情けない戦い方をするのね」

頭上から、冷ややかな声が降ってきた。

ルストの全身に鳥肌が立つ。バルガスの時とは比較にならない、本物の殺気がそこにあった。

「誰だ……!」

ルストが背中の剣に手をかけた瞬間、屋根の上から人影が舞い降りた。

それは、夜の闇に溶け込むような黒い装束を纏った、銀髪の少女だった。その瞳は、暗闇の中で獣のように鋭く光っている。

「昼の演技は素晴らしかったわ。ただの粉末と魔法石を使った姑息な手品。あんなので勇者を名乗るなんて、バザルタの連中もおめでたいわね」

彼女はゆっくりとルストに歩み寄る。その手には、月光を反射する細身の短剣が握られていた。

「ノア・ランベールは、指先一つでバザルタの町ごと消滅させられる男よ。あんな小細工は使わない」

ルストは息を呑んだ。この少女は、本物のノアを知っている。

「……何が目的だ」

「目的? 決まってるわ。偽物の勇者を始末して、本物がどこへ行ったか吐かせることよ」

彼女は一歩、ルストとの距離を詰めた。

その距離は、今のルストでは反応できない死の領域。

「ねえ、教えてくれる? 《ランベールのガラクタ》くん」

ルストの心臓が止まりかけた。

その蔑称を知っているということは、彼女は王都の人間か、あるいはランベール家の事情に精通している者だ。

「アイゼン断崖で……ブラッド・ベアも倒せないまま、お兄様に助けてもらった無能な勇者さん?」

少女の口角が、残酷に吊り上がった。

ルストは悟った。

三年の猶予など、世界は待ってくれない。

彼の「大逆転劇」は、最初の一歩から既に、破綻の淵に立たされていた。

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