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遭遇

王都を離れ、ルスト・ランベールが最初に目指したのは、国境付近に位置する険しい山嶺「アイゼン断崖」を越えた先にある交易都市であった。

公式には「死んだ」ことになっているルストは、使い古された外套のフードを深く被り、兄ノアの予備であった聖剣をボロ布で包んで背負っている。王都を出て三日。整備された街道を外れ、魔物の生息域である旧道を選んだのは、今の自分の実力を嫌というほど自覚するためだった。

「はぁ、はぁ……っ!」

肺が焼けるように熱い。

ルストの目の前には、体長三メートルを超える巨大な肉食獣「ブラッド・ベア」が立ち塞がっていた。通常の冒険者なら数人がかりで挑むCランクの魔物。だが、今のルストにとっては、それは死の具現に等しかった。


「……来いよ、デカブツ」

ルストは震える手で剣を構えた。

兄ノアなら、この程度の魔物、抜剣するまでもないだろう。視線一つで威圧し、あるいは指先から放たれる小さな火花一つで消し炭にする。それが「最強」という名の現実だ。

ブラッド・ベアが咆哮し、丸太のような腕を振り下ろす。

ルストは必死に横へ転がった。衝撃で地面が爆ぜ、土砂が頬を打つ。

(見えない……速すぎる……!)

身体能力の差は歴然だった。ルストは泥にまみれながら、必死に魔力を練ろうとする。しかし、彼の中に流れる魔力回路は細く、もどかしいほどに反応が鈍い。

「《風のウィンド・エッジ》……ッ!」

苦し紛れに放たれた魔法は、ブラッド・ベアの硬い毛皮をわずかに揺らしただけで霧散した。

魔物は嘲笑うかのように喉を鳴らし、再び突進してくる。

ルストは剣を抜き、迎撃の構えをとった。

ガキィィィィン! と、鼓膜を引き裂くような金属音が響く。

剣の腹で爪を受け止めたが、その重量は山が崩れ落ちてきたかのようだった。

「ぐ、あああぁぁぁっ!」

ミシミシと腕の骨が悲鳴を上げる。

膝が地面にめり込む。口の中から鉄の味がした。

《ランベールのガラクタ》。その言葉が呪いのように頭をよぎる。

兄と比較され、落胆され、透明な存在として扱われてきた十数年。その積み重ねた劣等感だけが、今の彼を支える唯一の燃料だった。

「誰が……死ぬもんか。僕は、あの人を……ノア・ランベールを倒さなきゃいけないんだ!」

ルストは咆哮とともに、残りの魔力をすべて右腕に流し込んだ。

だが、無情にもブラッド・ベアの左の鉤爪が、ルストの防御を潜り抜けてその脇腹を深く裂いた。

「が……はっ……」

鮮血が舞う。

ルストの体は木の葉のように吹き飛ばされ、巨岩に叩きつけられた。

視界が赤く染まり、意識が遠のいていく。

ブラッド・ベアは勝利を確信し、トドメを刺すためにゆっくりと歩み寄ってきた。大きな口が開かれ、腐肉の臭いが鼻をつく。

(ここまでか……。結局、僕は何も変えられないのか……)

ルストが絶望に瞳を閉じかけた、その時だった。


周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。

物理的な冷気ではない。それは、あまりにも巨大すぎる「意思」が空間を支配した時に生じる、絶対的な静寂だった。

ブラッド・ベアの動きが止まった。

いや、止まったのではない。本能が「動けば死ぬ」と理解し、全細胞が硬直したのだ。

カツン、カツンと、乾いた足音が霧の向こうから聞こえてくる。

「……見苦しいな、ルスト」

その声を聞いた瞬間、ルストの心臓が跳ねた。

聞き間違えるはずがない。世界で一番疎ましく、そして誰よりも憧れた男の声。

霧を割って現れたのは、白銀の甲冑を纏い、金色の髪をなびかせた青年だった。

ノア・ランベール。

王都を捨て、「世界を滅ぼす」と言い残した史上最強の勇者が、そこに立っていた。

ブラッド・ベアが、恐怖のあまり狂乱状態で吠えた。死物狂いの爪がノアの喉元へ迫る。

だが、ノアは眉一つ動かさない。

彼はただ、歩みを止めずに指先を軽く振った。

――パチン。

乾いた音が響いた、次の瞬間。

先ほどまでルストを死の淵まで追い詰めていた巨大な魔物の体が、中心から真っ二つに裂けた。

血の一滴すら飛び散らない。断面は高熱で焼かれたかのように滑らかで、ブラッド・ベアは何が起きたのか理解する暇もなく、塵となって消滅した。

魔法の詠唱も、剣を抜く動作すらなかった。

ただの「拒絶」。ノアの存在そのものが、その魔物の生存を許さなかった。それだけの話だった。

「兄……さん……」

ルストは血を吐きながら、必死に手を伸ばした。

「なぜ、ここに……。手紙の、あの言葉は、どういう……!」

ノアはルストのそばまで歩み寄ると、冷徹なまでの美貌を見下ろした。その瞳には、かつての慈しみも、温かさも、微塵も残っていない。ただ、深い深淵のような虚無だけが湛えられていた。

「お前に話すことは何もない。……今の貴様では、私の視界に入る価値さえない」

ノアの手から、淡い光が放たれた。

それはルストの傷を癒す治癒魔法だった。瞬く間に肉が接合し、痛みだけが引いていく。だが、その施しは優しさではなく、まるで道端に落ちている石を避けるような、事務的な無関心に見えた。

「待ってくれ! 僕はあんたを追う! 三年だ。三年あれば、僕はあんたを……!」

ルストの叫びを、ノアは背中で受け止めた。

彼は振り返ることもなく、再び霧の向こうへと歩み出す。

「来るがいい、ガラクタ。……その時までこの世界が残っていれば、だがな」

「兄さん!!」

ルストが立ち上がり、その背中に手を伸ばそうとした瞬間、猛烈な突風が吹き抜けた。

霧が渦巻き、視界を真っ白に染め上げる。

数秒後、風が止み、霧が晴れた時――。

そこにはもう、誰もいなかった。

あるのは、ルストが苦戦していた痕跡である抉れた地面と、彼自身の体から流れた赤い血の跡だけだ。


その圧倒的な差を見せつけられ、ルストは拳を地面に叩きつけた。

「……あんなの、勝てるわけないだろ……っ」

涙が溢れた。だが、それは悲しみの涙ではなかった。

あまりの絶望感に、脳が笑い出していた。

あんな怪物を倒すと、自分は王の前で宣言したのだ。

「ああ、分かったよ。やってやる……やってやるさ」

ルストは立ち上がり、ボロ布に包まれた聖剣を力強く握り直した。

兄との対比。届かぬ背中。

しかし、今日見た「神の如き力」は、もはや恐怖の対象ではなかった。

それは、彼がいつか必ず超えなければならない、具体的な「目標」へと変わっていた。

「待ってろ、ノア・ランベール。次は……僕の剣を、あんたに届かせてやる」

夕闇が迫る山道。

一人の青年が、自らの足で、一歩ずつ進み始める。

それは「ガラクタ」と呼ばれた弟が、神をも恐れぬ大逆転劇へと踏み出した、最初の一歩だった。

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