旅立ち
「この世界を滅ぼす」
たった一行。走り書きのような、それでいて心臓を冷たく撫でるような筆致だった。
ルスト・ランベールはその紙片を、兄ノアの私室にある机の上で見つけた。インクは乾ききり、主のいなくなった部屋には冬の朝のような静寂が居座っている。
史上最強の勇者。神に愛され、民に崇められ、一振りで山を割り、一唱で軍を焼き払う「人類の希望」。その兄が、あろうことか世界を敵に回すと宣言して消えたのだ。
「……また、俺を置いていくのか。兄さん」
ルストは自嘲気味に呟いた。
鏡を見るまでもない。自分は、兄の「残りカス」だ。同じ顔、同じ瞳の色をしていながら、魔力量は兄の百分の一にも満たず、剣の才も凡庸。人々は彼をこう呼ぶ。
《ランベールのガラクタ》と。
それから三日も経たぬうちに、王都からの「使者」はやってきた。
ランベール家の屋敷は、王都の喧騒から少し離れた丘の上にある。かつては「勇者の生家」として栄華を極めたその場所も、今は重苦しい沈黙に包まれていた。
「ルスト・ランベール様。王がお呼びです。直ちに登城を」
現れたのは、王宮騎士団の重鎮たちだった。彼らの目は、ルストを見ているようで見ていない。彼らが探しているのは、この顔の向こう側にいるはずの「最強の英雄」の残影なのだ。
「僕が……ですか? 兄のことなら、もう手紙の通りで……」
「いいから来い。これは王命だ」
拒否権などなかった。
馬車に揺られながら、ルストは窓の外を流れる王都の景色を眺めていた。広場では、まだ何も知らない民衆が「勇者ノア」を称える歌を歌っている。もし彼らが、自分たちの守護神が「世界を滅ぼす」と言い残して消えたと知れば、この平和は一瞬で瓦解するだろう。
(兄さんは何を考えているんだ。あんなに優しかった人が、なぜ……)
胸に去来するのは、幼い頃の記憶だ。
稽古で傷だらけになったルストの頭を、ノアはいつも大きな手で撫でてくれた。「大丈夫だ、ルスト。お前はお前の道を行けばいい。俺が、そのための世界を守ってやるから」
あの言葉は嘘だったのか。
それとも、あの優しさこそが、世界を滅ぼすほどの絶望に変わってしまったのか。
王城の最深部、重厚な扉が開かれた。
そこには、老いた国王と、数人の側近しかいなかった。国家の機密を扱うにふさわしい、刺すような緊張感が漂っている。
「ルスト・ランベール。面を上げよ」
国王の声は震えていた。威厳を保とうとしてはいるが、その瞳には隠しきれない恐怖が張り付いている。無理もない。国を支えていた最大の柱が、今や最大級の脅威に変わったのだから。
「ノアが消えた。……それも、最悪の言葉を残してな」
「はい。存じております」
「この事実が公になれば、他国は一斉に我が国へ攻め込むだろう。魔物たちも勢いづく。ノアという『抑止力』を失うことは、人類の滅亡を意味する」
国王は一度言葉を切り、苦渋に満ちた決断を口にした。
「ゆえに、ノア・ランベールは『存命』であり、現在は極秘任務についていることにした。……だが、影武者がいなくては、いずれ綻びが出る」
ルストの背中に冷たい汗が流れた。嫌な予感がした。
「ルストよ。お前が、ノア・ランベールになれ」
「……っ! 無理です、陛下! 僕は、兄さんとは違う! 魔力も、剣技も、何一つとして彼に及ばないことは、この城の人間が一番よく知っているはずだ!」
ルストの声が玉座の間に響き渡る。
《ガラクタ》。その蔑称が頭の中で反響する。兄の光が強すぎたせいで、影の中に閉じ込められ続けてきた自分。その影に、今度は光のフリをしろというのか。
「分かっている。お前にノアと同等の力を今すぐ発揮せよとは言わん。だが、血筋だけは本物だ。外見も、声もな」
国王は立ち上がり、ルストの目の前まで歩み寄った。
「これは、国を、いや世界を救うための唯一の『嘘』なのだ。ルスト、お前にしか頼めん」
「……陛下、条件があります」
長い沈黙の後、ルストは絞り出すように言った。
その瞳には、先ほどまでの卑屈さはなかった。代わりに、静かだが激しい火が灯っていた。
「条件だと?」
「僕に、修行の時間をください。その間、僕はノアとして振る舞い、同時に、ノアを超える力を手に入れます」
側近たちが失笑した。
「何を馬鹿な」「史上最強の勇者を超えるだと?」「身の程を知れ、ガラクタが」
だが、ルストは彼らを睨みつけた。その気迫に、居並ぶ重臣たちが息を呑む。
「兄さんは、この世界を滅ぼすと書いた。もしそれが本気なら、彼を止められるのは、同じ血を分け合い、誰よりも彼を見てきた僕しかいない。影武者として一生を終えるつもりはありません。僕は……ルスト・ランベールとして、兄を、ノアを倒しに行く」
それは、あまりにも無謀で、しかし唯一の「正解」だった。
偽物であり続けるだけでは、いつか本物に食い殺される。ならば、偽物が本物を超えるしかない。
国王は、ルストの瞳の奥に宿る「執念」を見た。
それは天賦の才に恵まれたノアにはなかった、泥を這いずり、蔑まれ続けた者だけが持つ、濁った、しかし折れない輝きだった。
「よかろう。本日、この瞬間より、貴殿を秘密裏に『次期勇者』に任命する。公式にはお前は死んだことにし、ノア・ランベールとして生きよ」
国王は、壁に掛けられていた聖剣の鞘を手に取った。
それは代々の勇者が受け継いできたものではなく、ノアが自ら鍛え、置いていった「予備」の剣だった。
「三年の猶予を与える。その間に、ノアを討てるだけの実力と、信頼に足る仲間を集めよ。……行け、ルスト。お前の『大逆転劇』を、絶望の淵で待っている」
城を出る時、空には不気味なほど赤い月が昇っていた。
ルストの手には、王から授かった路銀と、兄の剣。
そして、たった一枚の羊皮紙。そこには、国王の署名とともに「次期勇者任命」の証が記されていた。
「見ていてくれ、兄さん」
ルストは、かつて自分が住んでいた屋敷の方角を振り返ることなく歩き出した。
「あんたがこの世界を壊したいって言うなら、僕はそれを全力で守って、あんたをぶん殴る。……ガラクタにだって、意地があるんだ」
王都の門をくぐる時、彼の背中は心なしか、消えた英雄のそれよりも大きく見えた。
史上最強の兄と、最低の弟。
世界を滅ぼす者と、世界を救うために偽物になる者。
運命の歯車が、音を立てて回り始めた。
これが後に、歴史上最も「ありえない」と言われた、一人の青年による反逆の記録。
《ランベールのガラクタ》が、神に愛された勇者を越えるための、死闘の幕開けであった。




