牛飼い令嬢は神の愛し子
王宮の広間には、国を代表する有力貴族たちが集められていた。
床は磨き上げられた大理石が敷き詰められ、その上に立つのは畏れ多いほどに清廉だ。周囲の壁や柱には金箔が貼られ、天蓋のように頭上を覆う色ガラスのドームからは、太陽の光が幾千もの宝石に変えられて、降り注いでいる。
そこに、晩餐会でも使用される大きなテーブルと、それを覆う真っ白なクロス。等間隔で置かれた花々は、よく見るとベルベットと宝石で作られた造花だ。なんという贅沢。
案内され、次々と空席を埋めていくのは、金襴の正装と、希少な虹玉蚕の虹絹から作られた、虹色の光沢を放つドレスに身を包んだ貴族たち。彼らの視線が、場違いなほど素朴な男爵令嬢、エリアーナ・ロートリンゲンに、冷たく鋭い矢となって突き刺さっていた。
貧乏男爵家の令嬢、エリアーナは、彼女を深く愛する両親とともに、その場の豪華な調度品にも、冷たい視線を送る人々の陰口にも、慣れた様子で立っていた。
エリアーナが身に纏うのは、両親━━ユリウスとクローディアが、文字通り領地の収益を切り詰めて用立てた、いっちょうらの正絹のドレスだった。
他の貴婦人のドレスが、最高級の絹である虹絹によって仕立てられ、異国の希少な宝石と、繊細な魔法刺繍で飾られているのに対し、エリアーナのドレスは、生地こそ上質でも、デザインは極めて地味だ。
控えめな可憐さを演出する胸元のリボンやフリルの装飾は、クローディアがエリアーナを思い、夜なべで自らのドレスを解き、リボンやフリルに仕立てて丁寧に縫い付けてくれたもの。その優しさが込められた一着は、この金と宝石が輝く広間においては、まるで美しく整えられた花園に、うっかり根を下ろしてしまった野花のように、場違いに映っていた。
エリアーナは、『神の愛し子』だ。
しかも、王太子アルベルトの婚約者という、誰もがうらやむ肩書きも持っている。しかし彼女の姿は、そのきらびやかさとはあまりにもかけ離れていた。
神の愛し子とは、奇跡を起こし、人々を癒す『聖女』だと言われている。
だからこそ、その神託を受けた神殿は、血眼になって「エリアーナ・ロートリンゲンとは誰そ?」とばかりに、王国の端っこド田舎のロートリンゲン領まで使いを出し、渋るエリアーナを家族ごと王都に呼び出したのだし。
王家は王家で、その愛し子の恩寵にあずかろうと、手っ取り早く王太子の婚約者に据え、王都に屋敷まで与えたのだ。
しかし、エリアーナは、全王国民が望んだような、聖女の能力を神から与えられた愛し子ではなかった。
奇跡? ━━起こせません。
治癒能力? ━━風邪の看病がせいぜい。
容姿と知性? ━━平凡の一言。
ならば唯一の特技は、と問われれば。
これがまた、ド田舎で生まれ育った彼女らしく、領地の丘で放牧している牛を、誰よりも早く、正確に数えあげること。そしてその中から、特定の牛を素早く見つけ出すことで。━━これは、王宮生活には全く役立たない。
数えることが得意ならば、と、王太子の命令で、王宮の穀物庫の在庫を勘定してみたら、なんともまぁ、全く要領が掴めない。緑の丘を動き回る牛より、積み上げられただけの麻袋を数える方が、よっぽど簡単なはずなのだが。
それでも三日もすると、僅かな侍女を従えて、莫大な数の麻袋と格闘するエリアーナに、王太子は呆れて作業中止を言い渡した。
「お前はなんて無能なんだ。もういいから、大人しくしていろ」
「ご期待に添えず、申し訳ございません」
エリアーナの侍女たちは、王子の高慢な態度に密かに怒りを溜め込んでいたが、エリアーナはのほほんと笑顔で謝罪した。
━━期待はずれに普通の人間でごめんなさい。
エリアーナは決して人々を責めず、ふんわりと謝罪する。
エリアーナはそうやって、見当違いの周囲の軽蔑や嘲笑を、いつものんびりとした笑顔で受け流していた。彼女の性格は、どこまでものほほんとしていて、争いを好まず、そして強靭な素直さを持っていた。
むしろ、このただの男爵令嬢には大きすぎる冠のせいで、人々が翻弄されることに、申し訳なさを感じてさえいたのだった。
今日の王家主催の茶会は、エリアーナにとって、ある種の儀式の場であり、大いなる転機となるものだった。
貴族たちは、エリアーナだけでなく、彼女の隣に控えめに立っている彼女の両親にも、あからさまな侮蔑の視線を向けていた。
彼らの多くは、茶会が開かれた理由と、これから王家が何をしでかすのかを知らされていた。
彼らにとって、ロートリンゲン男爵家のような田舎貴族が、神の意志とは言え、爵位の序列を無視して自分たちの頂点に経つことを許されたことは、全くもって認めがたいものだった。
今日、このクソ生意気なロートリンゲンの泣きっ面を拝めるとすれば、これほど愉快な余興はない、と、醜悪に顔を歪め、一家を眺めていた。
しかし、娘同様にのほほんとした性格の父ユリウスは、いつまで経っても席に案内されず、放置されていることを微塵も疑わず、豪華すぎる有力貴族の令嬢と娘を見比べては、「エリアーナのドレス、クローディアが夜なべしただけあって、世界一可愛らしいな」と心底満足そうに頷いている。
母クローディアも、その場で向けられる悪意にはまったく気づかず、「王宮のシャンデリアはいつ見ても本当にすごいわね、わが家にも一つ欲しいけど、牛小屋に入らないわね」などと、場違いな感想を夫に囁いていた。
やがて王族が、国王を筆頭にぞろぞろと入室した。王太子アルベルトが、まだ着席も済ませていないロートリンゲン一家に向け、まるでゴミを見るかのような口調で、宣言した。
「エリアーナ・ロートリンゲン! 貴様との婚約を、本日をもって破棄する!」
広間全体が、一瞬の静寂に包まれた。
人々は、待ち望んでいた劇的な瞬間を見届けようと、目を輝かせた。エリアーナが泣き叫ぶか、抵抗するか、それとも悔しさに打ち震えるか……! さあ、さあ、さあ!
アルベルトは、すだれのように顔半分に垂れ下がった銀色の前髪をシャラリとかきあげ、エリアーナの無能をなじり始めた。
「貴様が神の愛し子だと? 戯言だ! 奇跡一つ起こせず、病人を癒すこともできない。貴様は国費を浪費するだけの無能な偽聖女だ! 王家に連なる者として、これ以上の失態は許されない。貴様のいる場所は、王宮ではなく、せいぜいロートリンゲン家の牛小屋だ!」
アルベルトがビシッとエリアーナを指さすと、様子をうかがっていた貴族たちは、一斉にエリアーナを罵倒し始めた。
「ざまぁみろ!」
「遅すぎたくらいだ!」
「王太子殿下、英断です!」
「貧乏暮しの男爵家のくせに、生意気なんだよ!」
エリアーナは、ただ、静かにその罵詈雑言を聞いていた。
エリアーナは理解していた。人々が『神の愛し子』に何を求めるのか、を。
人々が期待するのは、わかりやすい『聖女』の力。
言ってみれば、国の安定と繁栄で。さらに付け加えるなら、死の恐怖からも人々を遠ざける、奇跡。
愛し子が祈れば、嵐は止み、空は晴れ渡り、気候は穏やかに。戦争では常に敵を蹴散らし、怪我人は傷などなかったように綺麗さっぱり治り、長患いの病人はたちまち立ち上がり、翌日には元気に働きに出る。そんな世界だ。
だが、エリアーナがいくら神殿で真剣に祈ろうと、嵐は街を襲うし、長雨も日照り続きもある。国境では隣国との小競り合いが耐えないし、神殿に運び込まれた、傷つき腕や足を失った兵士を、元通りに治すことはできない。
病人を完治させることなどできるはずもなく。せいぜい慰問でそのやせ衰えた手をとり、残り僅かな日々を穏やかに過ごせるように祈ることしかできない。
『神の愛し子』という冠があまりにも立派すぎて、人々が多くを望んでしまうことを、エリアーナは正しく理解していた。
王太子も同じだ。
王族から貴族、役人、その他使用人から護衛まで含めて、数千人もの人々が住まう王宮の、その腹を満たすだけの穀物備蓄の勘定を、数人の侍女と令嬢だけで成しえるはがないのだが。
そこは神の叡智やらなんやらで、チャチャッと片付けられて当然だと、思ってしまったのだろう。
人々が望む奇跡を、エリアーナが自ら「できる」と宣言したことなど、一度もないけれど。
ただ、冠の輝きに目が眩んだ人々が、エリアーナに勝手に期待する気持ちも、エリアーナがありのままの自分を何一つ変えることなく、王都でも素朴な男爵令嬢として振る舞い続けることに失望するのも、それもまた人情として、すんなりと受け入れられるのだった。強靭な素直さゆえに。
エリアーナは横に立つ両親を見上げた。父は細い目をさらに細くして微笑み、母はおっとりと首を傾げて微笑んでいた。
思いは同じだと確信した。
そしてゆっくりと広間を見渡し、アルベルトの隣に立つ、一人の華麗な令嬢に気がついた。
フィオナ・ヴェストニア公爵令嬢。彼女のことは、さすがにエリアーナも知っている。
貴族令嬢のなかでも最も王家に近く、頂点に立つ女性だ。王宮の催しでは常に人々の中心にいて、会場の隅にポツンと佇むエリアーナとは、格の違いを見せつけた。遠目でもわかる燃えるような赤毛に、深いエメラルドの瞳。そして今、初めて間近に見る彼女の周囲には、微かに空気が揺らぎ、光が瞬いていた。
━━まあ、あれが魔力というものかしら。初めて見たわ。体内に収まりきれない魔力が、自然に漏れ出て、あのような光を生み出しているのね。……魔力を垂れ流しにしているなんて、もったいないわ。それとも公爵様のご家庭では、もったいないという感情は育まれないのかしら。ああ、もったいない。
フィオナは、この国で五指に入る魔法使いであり、火・水・地・風の四大元素を自在に操れる、まさしく天才。さぞかし豊富な魔力に恵まれているのだろう。
じっ、とフィオナを見つめるエリアーナに気づいたアルベルトは、胸を大きくそらすと、再びシャラリと前髪を払い、エリアーナに向かって、勝利に満ちた笑みを浮かべた。
「私の新しい婚約者は、フィオナ嬢だ。四大元素魔法の全てを完璧に使いこなす、彼女こそ、真に国を支えるにふさわしい才媛。貴様のような役立たずとは違う! どうだ! すごいだろう!!」
その言葉を聞いたエリアーナは、罵倒されているにもかかわらず、両手を組んで小首を傾げると、パッと顔を輝かせた。
「あら、四大元素魔法の全てを完璧に使えるんですか! それはすごいですね、殿下! フィオナ様!」
おや? ━━と、周囲から困惑の声が漏れた。
何か違うぞ……?
ここは、王太子に見捨てられ、王妃への野望がついえて絶望に泣き叫び、追いすがる場面ではないのか!?
予想外の反応に、貴族たちだけではなく、アルベルトも言葉を失った。
「え、あ、ああ、そうだ! すごいだろう!」
「はい! とても素晴らしいことです!」
エリアーナは駆け寄ると、フィオナの両手をとり、優しく両手で包み込み、心からの祝福を贈った。
「フィオナ様、おめでとうございます! 殿下のお相手が、私のような能無しではなく、素晴らしい方で、私、心から安心しました!」
「え、ええ……その……あ、ありがとう」
「私、殿下とフィオナ様のご婚約を、心からお祝いいたしますわ!」
そして、エリアーナはアルベルトに向き直り、深々と優雅なカーテシーをした。
「アルベルト殿下、長らくお世話になりました。これからは、国のため、フィオナ様と手を取り合って、どうかご尽力くださいませ。
神殿の皆様、お役人の皆様、これまでの数々のお手間、大変申し訳ございませんでした。これからはフィオナ様を支え、王国の礎として、お役目に励んでくださいませ」
体を起こしたエリアーナの朗らかな笑みに、その場の全員が息を飲んだ。
彼女の表情には、一点の悲しみも悔しさもない。あるのは心からの安堵と、清々しさだけだった。
「それでは皆さま、ごきげんよう!」
そしてエリアーナは、騒然とする広間に背を向け、まるで重い荷物をようやっと下ろせましたとばかりに、軽やかに、満面の笑みの両親と共に、王宮を去っていったのだった。
「なんなんだ、あいつのあの姿は。未来の王妃の地位が、惜しくはないのか……?」
貴族たちは、エリアーナが号泣し、アルベルトにすがりつくことを予想していた。
無能な聖女の絶望。生意気で調子に乗った貧乏家族を襲った悲劇。力なく床に崩れ落ちる、そのみっともない姿を、どれほど待ち望んだことか。
しかし実際には、そのあまりにもあっさりとした、むしろ軽くステップを踏んだエリアーナの退場は、彼らの期待を完全に裏切り、広間には、拍子抜けしたような沈黙が広がった。
「くっ……最後まで、空気が読めない女だ!」
アルベルトは憎々しげに吐き捨てた。期待した展開が成就せず、逆に自分が格好悪い敗者のような気がして、苛立ちで顔を赤くした。
しかし、この時、誰も知らなかった。
神がなぜ、なんの能力もない少女を、わざわざ神託で愛し子と宣言したのか。
その神の意志により、様々な困難がこれから始まることを。
王宮を去り、王家から与えられた屋敷を速やかに退去すると、両親と共に故郷へ帰る馬車の中で、エリアーナはルンルン気分を隠さなかった。窓から流れ去る王都の街並みを眺めながら、馬車の揺れに身を委ね、楽しげに鼻歌を歌った。
「ああ、よかった! 王宮は牛がいないから、息苦しくて仕方なかったのよね!」
「まあ、エリアーナったら」
ほほほ、とクローディアが笑った。
「いやいや、クローディア。これで僕らも王都と領地の長距離移動生活から開放されるよ。良かったじゃないか」
「そうね、ユリウス。たまのこととは言え、片道三日の往復は大変だったわ」
「そして、これが最後の王都だ。由緒正しい貧乏男爵家が、今後は間違っても王都に呼ばれることはないさ」
「あら、だったらポプキンスに寄ってくださる? あの店のお菓子が食べられなくなるのは、悲しいわ」
「あははは。クローディアはかわいいなあ」
そうして夫妻は手に手を重ね、身の丈に全くそぐわない王都での生活から開放された喜びに、甘く視線を絡めあった。
「これからは、牛たちを数え放題だわ! 帰郷が許されていたとはいえ、何ヶ月も牛から離れるなんて、地獄でしかなかったの! そういえば、前に戻った時に生まれた子牛の中で、一番小さい子がいたんだけど、あの子は『53番のモッフ』と名付けようかしら。毛がとても柔らかくて、フサフサのモッフモフだったのよ! だからモッフモフのモッフ。……今頃は元気に丘を走り回っているかしら。ああ、楽しみだわ!」
エリアーナにとって、王太子妃の座よりも、牛を数える自由のほうが、遥かに価値があった。
そんな娘を、ユリウスは愛おしくも逞しく感じる。なんせ酪農で生計を立てている領地なもので。必要なのは、刺繍やダンスより、牛を管理する能力なのであった。
「そうだねぇ……子牛が牛舎を出るには2、3ヶ月はかかるからね。外に出ているかもしれないし、出ていないかもしれないねぇ……」
ユリウスは、まだ遠い故郷に思いをはせる娘に、のほほんと告げた。
ところで。
なぜ、エリアーナが「神の愛し子」なのか。その真実は、彼女ののほほんとした人生観と同様に、極めて単純な理由にあった。
今から十年ほど前の、天上界。
することもなくブラブラ散歩をしていた創世神は、ふと、気まぐれに人間界を覗いていた。
戯れにつくったのはいいものの、すぐに興味を失い放置していた人間界。久々に覗いてみたら、いつの間にか野山を切り開き、村ができ、国ができ、いっちょ前に生活をしているではないか。
どうせ暇だし、ちょいと行ってみるか━━と、野ねずみに化け、人間界をあちこち視察することにした。
しかし創造神はめくるめく変化する人間界の地理に疎く、野ねずみの姿で、ロートリンゲンの広大な放牧地に迷い込んでしまった。
肥沃な大地が育む一面の緑は、小さな野ねずみにとって、四方八方、天までを遮る巨大な迷路だった。
ここで元の姿に戻るか、思案して思いとどまる。僅かに人間の気配がする。
真の姿を人間の前に晒すことはできない。創造神は野ねずみの姿のまま、放牧地を抜けることにした。そうして丘をどんどん下り……。
ドッドッドッ!
次の瞬間、数千頭の牛の群れが、一斉に地鳴りのような足音を立てて移動を始めた。
「な、なんだ、一体!?」
創造神は慌てて草むらから飛び上がり、大地を揺らす存在を確かめようとした。
牛だ。
牛の大群が、よりによって創造神の方に向かって、その巨体を弾ませながら、猛スピードで丘を駆け上ってくる。
「ヒッ、ひえぇぇぇ! 潰されるぅぅぅ!」
野ねずみの姿の創造神は、牛の蹄に踏み潰される死の恐怖に腰を抜かし、チビりそうになってガクガク震えた。神ではあるが、この肉体では、圧倒的体格差のある物理攻撃に、耐えられるわけがない。
「誰かあ!! 助けてぇ!!!」
その時、群れを避けながら歩いていた一人の少女が、草むらにうずくまり、震えながら悲痛な鳴き声をあげる野ねずみを見つけた。
「あら、ねずみさん。こんなところにいたら牛さんに踏まれちゃうわ。」
それは、幼いエリアーナだった。
エリアーナは、野ねずみを恐れることなく手のひらに優しく乗せ、牛の群れから遠く離れた安全な場所に放してあげた。
創世神は無事に難を逃れたが、その時の大量の牛に踏み潰されそうになる恐怖と、あわやチビるという切迫感は、数万年の歴史の中でも最大の恐怖体験と汚点になったのだった。
「助かった……! あの娘、エリアーナ・ロートリンゲンに恩返しをしなくては!」
それから創世神は、鳥に姿を変え、エリアーナの生活を見守りながら、どうやって恩を返すべきか考えた。
神の恩寵といえば、『聖なる力』か『永遠の富』が定番である。
しかし、領地の隅々までは酪農と農耕で生計を立てているロートリンゲン領に、どちらも不要と思われた。
領主の男爵夫妻同様、領民もどこかのほほんとして、穏やかに日々の暮らしを営むことを心から望んでいる。
雨が降る日は大地を潤す天の恵と感謝し、晴れた日には仕事が捗ると感謝する。
暑さ寒さも天が授ける多様性と感謝し、日照りや豪雨にも、これは我らの試練だと団結し助けあう。
朝の目覚めに感謝し、夜の安息に感謝し、そうやって一日が終わり、日々が繋がっている。
それは人間の汚い欲望とは一切交わることのない、質素だが、牛と大地と共に生きる覚悟を決めた堅実な人々に姿だった。そのくせ、どこかのんびり、のほほんと。
なんだか、嫉妬だの横恋慕だのと、常に誰かがチャンチキ騒ぎを起こしている天上界の神々よりも、ずっと崇高な精神を垣間見て、申し訳ない気持ちになる創造神だった。
結局、創造神は、『聖なる力』などという面倒なものは与えず、単純に『神の愛し子』という最高のステータスだけを、エリアーナに与えることにした。
神の愛し子とは、神が直接加護を与えているという意味であり、エリアーナに与えた加護とは、彼女が望むように心穏やかに、平穏に生きること。ただそれだけだ。
エリアーナが奇跡を起こせなかったのは、創造神が奇跡の力を与えていなかったからで。
創造神の目的は、彼女の平穏な生活を守ることであり、聖女として王宮で騒がれることではなかったのだ。
そのつもりで創造神は神託を授けたのだが、愛し子の存在に浮かれまくった神殿は、「エリアーナののほほん生活を守るために、皆で頑張りんしゃい」という創造神の言葉を、言葉どおりに受け取らずに、王都に引っ張り出した。
そして報告を受けた王族は、「これで我が国も安泰だ。いや、ますます繁栄するに違いない」と、貴族の序列を無視して、エリアーナを王太子の婚約者にしてしまったのだった。
まさに創造神の心、人間知らず……。
エリアーナが王宮を去って、わずか一週間。
王都は未曾有の危機に見舞われていた。
まず、王都の結界を維持していた聖なる力が、突如として消滅した。
聖なる力は、領域全体を守る結界の源だ。
創造神の加護は、文字通り聖なる力として、愛し子であるエリアーナの生活圏を守る結界となっていた。それがたまたま王都を覆っていただけであって、つまりは、ただのおまけ。
エリアーナが王宮から去った瞬間、加護は王都から完全に引き上げられたのだ。
神殿は、慌てて上から下まで、神官勢揃いで祈りを捧げ、結界を維持しようとした。しかし、そもそもが聖なる力は、人間ごときの祈りで発生するものではない。
エリアーナを王都に縛り付けていたおよそ10年の安寧で、神殿はすっかりそのことを忘れていた。
昼夜を問わず祈りを捧げようとも、王都に結界が蘇ることはなかった。
結界の消滅を皮切りに、異常気象が国中を襲った。
結界によって活動を制限されていた四大元素が、その内部に溜め込んだ余剰エネルギーを、一斉に解放したのだった。
火の元素の暴走によって、王都近郊の穀倉地帯で大規模な山火事が発生し、食料備蓄が危機に。
水の元素の暴走によって、王都を流れる大河が氾濫し、貴族街を中心に大洪水。その後、疫病が発生し、国中に広まった。
地の元素の暴走によって、各地で小規模な地震が頻発し、王宮でも一部が損壊。
風の元素の暴走によって、王都はつねに嵐に見舞われ、もはや経済活動も何もあったものではなく。その余波は各地に打撃を与えた。
アルベルトの新しい婚約者フィオナは、我が務めと、まっさきに王国の危機に最前線へと乗り込んだ。
しかし、彼女の魔法は神の定めた秩序によって制御されたものであり、暴走した自然の力を抑えることはできなかった。
「どうして! どうして私の『ウォール・オブ・フレイム・エクセレント』が効かないの!!」
「お逃げ下さい! フィオナ様!」
「嫌よ! ここで私が食い止めなければ………!」
「無理ですよ! いい加減、諦めてください!」
最後まで諦めようとしないフィオナを、護衛の兵士たちが羽交い締めにして、最前線から撤退する。
フィオナは、元素が暴れ狂う最前線から遠く離れた安全な場所で、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
彼女の魔法は、元素を治めるどころか、さらに燃料を注いでしまった。エネルギーを注入された四つの元素は、収まるどころかその勢いを増し、破壊尽くした王都を離れ、王国中を暴れ回った。こうして王国は次々と火に焼かれ、水に沈み、地震と嵐に破壊つくされ、疫病が蔓延する死地となった。
「この災難は、エリアーナ・ロートリンゲンが辱められて王都を去ってからだ!」
「偽聖女がいなくなって、なぜ、こんなことに!」
「やはり、彼女こそが、この国に必要な真の聖女だったのでは……!」
「何とかしろ! このバカ王子!」
貴族たちは、エリアーナを罵倒した過去を棚に上げ、混乱の中で手のひらを返した。
『神の愛し子』の真の力とは、奇跡を起こす力ではなく、その存在を守るために、穏やかな加護で包み込む力だったのだと。
その存在を辱めることは、神を辱めることと同義であり、必ずや報いを受けると。
ようやく思い知ったアルベルトは、慌ててエリアーナを呼び戻す使者を、ロートリンゲンに送った。
エリアーナは53番牛舎の中で、小さな子牛に『53番 モッフ』という名札をつけ、嬉しそうにその特別にフサフサでモッフモフの毛並みを撫でていた。
その傍らに、王宮から急ぎやってきたアルベルトの使者が、泥だらけになりながらひれ伏し、元素が暴走した王都の惨状を説明していた。
「エ、エリアーナ様! お願いでございます! 王都が、国が崩壊寸前です! どうか、どうか、王宮にお戻りください! 殿下が、婚約破棄を撤回すると!」
エリアーナは、困ったように首を傾げた。
「え? 戻る? でも私、この子のお世話で忙しいんです。それに殿下は、四大元素魔法が使えるフィオナ様とご婚約されたのでしょう? 私のような無能な者ではなく、素晴らしい能力をお持ちの方がお側にいらっしゃるのですから、どうぞ私のことはお構いなく」
使者は、顔面蒼白で叫んだ。
「フィオナ様では、自然の暴走を抑えられないのです! エリアーナ様、貴女の存在こそが、国に必要なのです!」
エリアーナは、のほほんとした笑顔を崩さなかった。
「あら、そうなんですか? でも、私はもう、王宮の息苦しさから解放されて、心底幸せなのです。殿下のお役に立てなくて、ごめんなさいね。私、やっぱり牛を数えているほうが好きなんです」
「そこをなんとか……!」
「ごめんなさい。もう王都で生活するのも、殿下の婚約者に祭り上げられるのも、本当に嫌なんです。ほらだって、ご覧になって? この子、とても可愛いでしょう? 今更この子と離れるなんて、考えられませんわ!」
神の愛し子の加護は、エリアーナが心穏やかに、平穏に生きることを守るもの。
王宮に戻ることは、エリアーナの平穏を乱す。
彼女が初めて明確に拒絶した瞬間、突風が牛舎を吹きぬけた。竜巻のように使者を巻き込んで、あっという間にロートリンゲン領を駆け抜け、ペッと使者を領地の外に吐き出すと、静かに天へと上っていった。
使者は、竜巻が消えていく天を仰ぎ、そしてたった今駆け抜けたロートリンゲンの地を見つめた。そこには、竜巻が通った後とは思えぬほど、何一つ壊されていない、のどかな風景が広がっていた。
これが神の御心。絶望に打ちひしがれ、使者は立ち上がると、重い足取りで帰路についた。
その後。
暴走する自然の力と、それに伴う飢饉と疫病は、王国を、一気に貧困国へと転落させた。今ではもう、他国の慈悲に縋り、王宮に金箔を張りめぐらせていた栄華を懐かしむだけ。
アルベルトは、『神の愛し子を追放し、国を危機に陥れた愚かな王太子』として歴史に名を刻み、失脚。フィオナも、自身の魔法が自然の前に無力であることを思い知らされ、失意の内に故郷へ帰った。
一方のロートリンゲン領は。
神の愛し子がいるその地だけは、常に穏やかな気候に守られていた。最近、ちょっと移民の申請が多いかな? と、変化といえばそのくらいのこと。
とは言え、ロートリンゲン領とて、土地も蓄えも無限ではなく。酪農や農耕の技術のない民には、残念ながらお断りいただいている状況で。ましてや金銀財宝など掲げてやってくる貴族など、ロートリンゲンには最も不要な人材だ。
「申し訳ございませんねぇ。ロートリンゲンは、皆様をご満足させるだけの力はありませんので。どうぞお引取りを。は? 王都が壊滅? 領地も不作? いやいや、どうして。それをどうにかするのが、あなた方高貴なお血筋の役目でしょうに! あははははは!」
ユリウスは全く悪気のない笑顔と笑い声で、領地を捨て、王都から逃げ出した貴族たちを一蹴した。
クローディアは王都で養った舌で、美味しいお菓子の再現に励む日々。
エリアーナは、毎日あちこちの放牧地に足を運び、大好きな牛たちを数えている。
「今日の牛の総数は、2,285頭! えーと、昨日は2,284頭だったから……まあ! やっぱり、あの子ね! 『53番のモッフ』が、ついに放牧デビューを果たしたんだわ! ああ、あそこにいる。元気いっぱいに走り回っているわ!」
と、小さな幸せを噛みしめていた。
文中に出てくる虹玉蚕というのは、私の小説にときおり出てくる、虹色の絹を作る蚕です。
12月8日現在
[日間]ローファンタジー〔ファンタジー〕 - すべて 29位
[日間]ローファンタジー〔ファンタジー〕 - 短編 5位
ありがとうございます。




