第1話
大都会、東京。流行の発信源、渋谷―…。雑居ビル二階の喫茶店にて、私は待ち合わせをしていた。手帳と腕時計を交互に見て、今日がその日だということを何度も確認する。
レコード会社、ミュージック・キャビネットの新人発掘を任された堀田あかりはそわそわと落ち着かない様子で、今か今かと相手を待ちわびていた。堀田は入社以来任された初めての大仕事に緊張していた。
喫茶店の一番奥の窓際の席。そこが相手と落ち合う場所だ。堀田は待つ間、自ら調べた資料を見返すことにした。
相手の名前は『モナリザ』。もちろん、それは本名ではない。モナリザは今、動画投稿サイトにて中高生を中心に人気を集めている歌い手だ。恐らくスマートホンで撮影し、簡単に編集されたその動画を見たとき。堀田は、モナリザこそ新人歌手に相応しいと直感的に思った。
ノイズが混じっていても尚、瑞々しい声色。よく通り、響くその歌声は美しいボーイ・ソプラノのようで某少年合唱団の奇跡のようだった。その魅力的な歌声に加えてうたわれる歌詞は誠実で情熱的で、時に危険を孕み、涙を誘った。恋の歌を作るのが得意らしく、モナリザが作った曲は諸々恋愛がテーマとされていた。
幼い初恋。許されない恋愛の感情。結ばれた赤い糸。
誰もが抱いたことのある感情、そして伝えきれなかった言葉をモナリザは代弁してうたった。堀田自身、その声と歌を聞いて共感を抱いた。
「!」
ふっと頭上に影が落ちた。堀田が見上げると、そこには一人の少女が立っていた。黒々とした烏のような髪の毛を無造作に切ったミディアムショート。線の細い輪郭に、顔のパーツがきれいに配置されている。ツンとした表情は猫のようにコケティッシュだ。一瞬、少年の見間違えたが少女と分かったのは、そのセーラー服の制服のおかげだろう。
「…Mキャビの堀田さんですか。」
現れた人物をぼうっと見つめている堀田に、少女から声をかけてくれた。その声は確かに聞き覚えがある。
「あなたは…、モナリザ?」
呟くように問い返すと少女は唇をきゅっと結び、やがて頷いた。
「はい。」
堀田は慌てて椅子から立ち、頭を下げるとともに名刺を手渡した。
「ミュージック・キャビネットの堀田といいます。今日は、問い合わせに応じて下さってありがとうございます。」
座って、と促すと学校帰りらしいモナリザは鞄を置いて、席に着く。そして店員にアイスティーを注文すると、さて、と堀田に向き直った。
「堀田さん、用件を伺います。」
「あ、はい。えーと、まずは自己紹介をしてもらっても?」
「ああ、ごめんなさい。緊張していて、忘れていました。」
というモナリザは飄々としていてとてもそんな風に見えない。恐らく感情が表情に出ないタイプなのだろう。歌詞の中ではあんなに表情が豊かなのに、と堀田は密かに驚く。
「天野つづらです。今年、15歳になります。」
「つづら?珍しい名前。」
「そう、ですね。漢字はこう書きます。」
『九十九』
店員から運ばれてきた水のコップの水滴で、机に細い指を用いて書かれる文字は少し右肩上がりでシャープな印象を受けた。
「へえ。これでつづらって読むんですね。」
「はい。名前は昔から一回で読まれたことはありません。でも、初対面の方とは話の切り口になるので助かっていますけど。」
苦笑する九十九が初めて見せた笑みは、可愛らしく年相応に思えた。
「そっか。じゃあ、他の人たちと同じ会話を何度もさせてごめんなさい。話の本題に入りましょう。」
「そうですね。夕方6時までには、家に帰っていたいので。」
腕時計を見ると、現在4時をちょっと過ぎたところだ。学生らしく、門限があるのだろう。
「天野さんは、動画投稿サイトで自ら作詞作曲した歌を発表していますね。」
「はい。」
「単刀直入にいいます。うちの会社、ミュージック・キャビネットでメジャーデビューする気はありませんか。」
「メジャー、デビューですか?」
「天野さんの声は今、中高生を中心に届き始めている。その可能性をもっと広げてみたいんです。どうでしょうか?」
「…。」
九十九は口元に手を当て、何かを考えこんでいるかのように俯いた。
「今すぐ、返事を下さらなくて結構です。気持ちが決まったらこちらに連絡を、」
堀田が手帳の余白に自らのアドレスを書いて手渡そうとすると、九十九は顔を上げた。
「働かせてくれるってことですよね。」
「え?ええ、うちと契約すればそう言うことになりますね。」
「やります。精一杯頑張ります、やらせてください。」
決意した九十九の瞳は、芯の強さがこもった光が宿っていた。それは堀田がたじろぐような強さだった。
「? 堀田さん?」
「あ、ごめんなさい。まさか、こんなにとんとん拍子に話が進むとは思わなくて。」
でも、と堀田は頭を切り替える。
「ありがとうございます。嬉しいです。親御さんに契約書の確認をしてもらいたいのですが、天野さんと連絡が付くようにメールアドレスを交換してもらってもいいですか?」
「わかりました。」
そう言うと九十九は鞄からスマートホンを取り出して、若者らしく素早く操作する。互いのメルアドを交換し終えて、二人は席を立った。九十九の門限を考えるとそろそろ家路についたほうがいいだろう。財布を取り出そうとする九十九を堀田は制する。
「ここは、私が。」
「でも、」
「あなたはまだ未成年で、私は大人です。大人の余裕を見させてください。」
「…すみません。ごちそうになります。」
素直に頭を下げる九十九を見て、彼女の両親の教育の良さを感じた。
最寄り駅まで、二人で歩く。
「天野さんは15歳ってことだけど、じゃあ今年は受験生ですね。もう進学先は決めているの?」
「進学はしません。就職を希望してます。」
「え?そうなんですか?」
九十九の声は不思議と凪いで、静かだった。中学生は高校に進学するのが当たり前の時代、とても珍しいと思った。
「うちは母子家庭で、私の他に双子の妹と弟がいます。妹たちは大学まで行かせてあげたいので、私も母と同じように働きたいんです。」
「…へえ。でも、いいんですか。天野さん自身は。」
九十九は瞳を伏せて、淡く口元に笑みを作る。
「いいんです。私は歌をうたえたら、何でも。…趣味でいいと思っていたら、堀田さんが見つけてくれた。音楽で生計を立てるのは難しいことはわかってる。でも、そのスタートラインに立たせてくれたこと、感謝しています。」
そう言うと、九十九は堀田を見て微笑む。
「ありがとうございます。」
「…こちらこそ、ありがとう。これからよろしくお願いします。」
堀田が改めて頭を下げると、九十九も続けて頭を下げた。そうして頭を上げた時。会社帰りのサラリーマン、バイト先に向かう大学生。待ち合わせをする恋人たちに九十九は一体どんな物語を感じているのだろうと堀田は思った。
堀田と別れて、九十九は電車に乗った。タタン、タタン、と定期的に揺れながら、電車は線路を辿って走りだす。車窓の外は夕日の朱色に染まり、鳥たちが夜を目前にねぐらに帰っていく。九十九の隣に座るブレザーを着た女子生徒がスマートホンで動画を見、イヤホンで聞いていた。何気なく横目で見ると、それは『モナリザ』。自分が作った歌の動画だった。女子生徒は口元に淡い笑みを作り、目を瞑って聞き入っているようだった。
彼女は、私が作ったどんな恋を聞いてくれているのだろう。
ぽっと光がろうそくに灯ったような温かさを胸に感じながら、全ての人に幸があればいいと思った。