丑の刻に還る
彼女が息を引き取った夜、夫の心も止まった。やせ細った体で、古びたアパートの隅に座り込む彼の姿を、彼女は死後の世界から見つめていた。
「もう一度、会わせてください。あの人が壊れてしまう前に」
彼女の願いに、死後の案内人は静かに答えた。
「それには三つの修行が必要です。あなたの想いが“執着”ではなく“祈り”であると証明できた時、道は開かれる」
第一の修行は「鏡の道」。生前の記憶を一つひとつたどり、自分の悔いも愛も受け止める試練。彼女は、夫への言葉にできなかった想いを何度も見つめた。
第二の修行は「沈黙の岩窟」。七日七夜、自らの心の奥に潜り、残された者への願いだけを残していく。彼の明日を願う声だけが胸に残った。
第三の修行は「千の別れの渦」。他人の最期と残された者の涙を体験し、愛する者を手放す痛みを理解する旅。彼女はようやく、"会いたい"の奥にある"生きてほしい"を見つけた。
修行を終えた彼女に案内人は言った。
「会うのは現世。丑の刻のみ通される“逢瀬の間”で。ただし、長居は禁物。あなたの存在は彼をこの世から引き離す力を持つ。言葉より、想いを残しなさい」
彼が来るのは、不動産屋のある見知らぬアパートの階段下。時計の針は、まもなく丑の刻を指す。彼女は静かにそこに立ち、扉の音を待っていた。
彼は妻を亡くしてから、一年。欠かすことなく月命日に墓を訪れ、静かに語りかけていた。
その日も花を供えた帰り道、なぜか一軒の古びた不動産屋が目に留まった。吸い寄せられるように扉を開けると、強引な笑みの店主が出迎えた。
「ちょうど良い物件があるんです。上のアパート、空いてますよ」
「……でも、ここ幽霊が出るって噂を……」
そう言いかけた彼に、店主は薄く笑った。
「出ますよ。でも、出るだけです。害はありません。体験入居、してみませんか?」
言葉に押され、彼は一泊だけのつもりで部屋の鍵を受け取った。
夜。時計の針が丑の刻を指した瞬間、ふと空気が変わった。部屋の奥に、確かに誰かの気配があった。
ゆらりとカーテンが揺れ、淡く光る中に――彼女が立っていた。
変わらぬ笑顔。涙があふれた。
「……君なのか」
彼女は頷き、声なき声でささやく。
「あなたに、会いたかった」
それから彼は、毎夜丑の刻に目を覚まし、短い逢瀬を重ねた。言葉は少ない。でも心は通じていた。
そして彼は、初めて穏やかに眠れた。
――たとえ夢のようでも、彼女は確かにそこにいる。
丑の刻にだけ現れる亡き妻。彼はその不思議な現象を、あの不動産屋の店主に打ち明けた。
「なるほど、現れましたか」
店主は微笑み、意味深に言った。
「実はその現象、ある“条件”を満たせば、奥さんは死ななかったことになります」
「条件? 何をすれば?」
彼と妻が声を重ねて問うと、店主は首を横に振った。
「私からは教えられません。あなたたちが二人で考えて、行動しなければ意味がないんです。タイムリミットは、再会してからちょうど一年後。過ぎれば、彼女はもう戻れない」
それから二人は、毎夜の逢瀬で問い続けた。何をすれば「死ななかったことになる」のか。
思い出を語り直し、後悔を洗い出し、時に言葉を交わさずただ寄り添い、すべての「当たり前だった日々」に向き合った。
ある夜、妻がそっと言った。
「たぶん、“もう一度、私を愛すると誓うこと”じゃないかな。最期じゃなく、始まりをもう一度、って意味で」
彼は、静かにうなずいた。
翌夜、彼はプロポーズした時と同じ指輪を取り出し、彼女に差し出した。
「もう一度、俺と生きてくれ」
瞬間、部屋が光に包まれた。
目を覚ますと、彼女は隣で眠っていた。病も、別れもなかったように。
外では、いつも通り朝が始まっていた。